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炎上に油を注ぐ祭り。幸せになれるのか

SNSでは炎上が毎日のように起こっている。

燃える炎は大変強力で、燃えた者はかなりの社会的な火傷を与えられるだろう

今回のテーマは炎上に興味が無い私は変人なのかという話だ。


結論だが、変人かもしれない。炎上は大多数が参加するから燃え上がる訳だが、大多数が参加する祭りのような物に「私はそういうの興味無いから」と言って参加しない少し捻くれた奴ではないではないか...。

よし!僕は変人と決まった、が...ここで終わるのは早いので、炎上について少し考えていく。

改めてテーマとして、炎上に油を注ぐ祭りとそれをして幸せになれるのかという話だ。

炎上に興味が無いと言ったが、前提として言っておきたいのは、僕は決して悪い行為を肯定している訳ではない。

ただやり過ぎな炎上や、身内の問題に口を突っ込みすぎる炎上はどうかなと思っているだけだ。

行き過ぎた批判は場合によって嫉妬に見えてしまうことがある。私自身がそう見られたくないと本能的に感じ、ルサンチマンの回避を試みているのも一理あるかもしれない。

炎上について

炎上に油を注ぐ理由として、個人的にまず正義感・気分を晴らすためなどが思い付く。

正義感は、自分が似たようなことで被害を被り苦しい思いをしたからとか、社会を良くしていきたいからなどがあると思う。

実際に体験している事柄は苦しいものであるし、社会を良くしていきたいと自分の意思で動いているなら良いと思う。

気分を晴らすためというのは、苦しい社会で生み出された鬱憤を晴らすいう訳だが、炎上に油を注ぐ祭りは誰でも受け入れてくれるだろう。

幸福になれるのか

どんどん燃やした先な幸福は訪れるのか。炎上の対象になった人は近々社会的な火傷を負って表舞台から引くだろう。

表舞台から引いたら次第に忘れさられていく。忘れさられた時に私達は何か変わっているだろうか...。多分いつも通りの生活を送っていると思う。

以前「推し、燃ゆ」という小説を読んだが、個人的には社会の生きづらさを表している作品だと受け取った。

炎上した人は次第に忘れさられていくが、対象が推しだった場合は辛いものだ。生きる支えが崩れていく所をただ悲しみながら見届けるしかないだろう。(やっている事を表立って肯定する事もできないため)

炎上が多いというのは、社会の目が厳しくなったとも言える。その社会の目は有名な人に向けられる訳だが、次第に個人に向かってくる物だと考える。こうあるべきというルールが個人に向かっていく度合いが高まっていく訳だ。

炎上の当事者が表舞台から引き、僕達自身、社会が何も変わっていなかったしても、表舞台では自分が自分を監視するレベルの引き上げだけは起こっている。「今のご時世にはきついかな...」というやつだ。

苦しい社会だからこそ炎上が増え、炎上が増えることにより、ますます個人を縛る物が増えて生きづらくなっていく…そのような循環がそこにはあると考える。

個人が持つデバイスが、自分の意見を世に発信できることは自由で良いことだ。だが、その力が本当に正しい方向に向いているか、立ち止まって考える必要がある。

社会を良くするために炎上に加担しているという者も、それがどのように社会を変えていくか考えなければならないし、自身の発言の力を侮ってはならない。

ネットが人に影響を与えることは、社会を塗り替える力もあるかもしれない。自分の行動が流れを作り、流れが時代の価値観になることの重要性を考えるべきだ。

盲目的に見えた意見を信じるのではなく、フラットな気持ちで一度考えてみることがネットを見る上では大切な気がしてならない。


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