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想像力の同行者に会いにいくために

ライターの磯部涼さんのポストを見てある漫画を手に取った。これまでとは別の読み方ができるかも知れないという予感とともに、ページをめくりはじめた。


”想像したものを具現化できる”女子高生の物語

『ブランクスペース』は想像力についての物語である。ある雨の日の帰り道、女子高生の狛江ショーコは、同じクラスの片桐スイが持つ力に気づく。想像したものを具現化する能力だ。スイは見えない傘を差している。スイの傘は姿こそ見えないが取っ手を持つことも、雨を防ぐことも、畳むこともできる。

その日から二人は次第に打ち解け合い、昼休みには一緒にお弁当を食べるようになる。スイは意図的に組み立てるように想像したものを具現化することができる。対して、ショーコは自由な連想のままに想像を遊ばせるような空想癖を持っていて、いつもぼんやりと空想をしている。性格も視点も異なる二人が、仲を深めていく。

"いじめ"が導いた具現化能力の行き先

しかし、学年が変わり、クラスが分かれてしまってからは少しずつ二人の間に距離が生じてくる。新しいクラスでスイはいじめのターゲットにされているが、ショーコに打ち明けることができない。

苛立ちが澱のように溜まっていたスイは、学校の集会でクラスメートに背中を蹴られ、遂に行動を起こす。具現化した“見えない銃”で体育館の窓ガラスを撃ったのだ。

スイはそのまま、学校を飛び出し、ショーコと最初に出会った林で木からぶら下げたぬいぐるみを空白の銃で撃ち抜き、こうつぶやく。

「何が青春だ クソが」

騒動後、スイは銃の次に作るものを想像しはじめる。図書館でスイが読んでいる本のページには「近代兵器の種類」の文字。ミサイル、戦車などが並ぶが、スイが辿り着いたのは「もっとシンプルな触り心地のある暴力」だ。

そこへスイの様子を心配したショーコがやってくる。スイの言動から、体育館の窓ガラスが割れた原因に薄々勘づいており、「私が止めなくちゃ」と様子を見に来たのだ。スイが席を立った隙に、スイがいつもメモ書きなどをしているノートを盗み見て、ショーコはスイが何を作ろうしているのかを知る。

ノートには「飢えた凶暴な犬」の文字。図書館でスイと会った時に犬を作ろうしていることを聞いていたが、それはショーコが想像していたペットとしての犬ではなかったのだ。また、そこにはスイが席を離れる前に話していた、気分転換で読んだ文庫本から思いついたある計画も記されていた。

スイは「空から落下する巨大な斧」を作り、学校に落とそうというのだろうか。

ここまでが磯部涼が言及していた1巻の終盤に当たる。確かにこれは「テロリズム」だ。しかし、いかなる「テロリズム」なのだろう。

磯部涼が指す「現代日本的なテロリズム」とは

冒頭のポストで、磯部涼は「現代日本的なテロリズムの話」と書いている。著書『令和元年のテロリズム』(新潮社)によると、「令和元年のテロリズムは、テロリストという中心がぼやけている」という。

『令和元年のテロリズム』は川崎殺傷事件、元農林水産省事務次官長男殺害事件、京都アニメーション放火殺傷事件を取材したルポルタージュである。

本書によれば、従来のテロリズムは「社会をリセットする」ことを「市井(しせい)のベクトルから暴力的に企てようとする許されない行為」。一方で、「政治的な意図はないが、その極端さ、陰惨さ故にテロル (恐怖)が社会に対して影響をもたらす犯罪」を「広義のテロリズム」としている。

『令和元年のテロリズム』で扱われているのは後者の広義のテロリズムだ。政治的な意図がない場合、社会のリセットという政治的転覆を目論む従来のテロリズムのフレームからは後者のテロリズムで起きていることが鮮明に見えない。そのことが「テロリストという中心がぼやけている」印象につながるのだろうか。

『テロリズム―歴史・類型・対策法』(白水社)では、テロリズムをいくつかの類型に分類しているが、その中に「孤立者のテロリズム」とされているものがある。

「伝統的政治組織(国家や団体)には属さず、過激派思想の影響やときには精神的混乱状況のなかで」実行されるテロリズムであり、「彼らの孤立性と精神的錯乱が、その行為を予測不可能」にする。

前掲の『令和元年のテロリズム』で取り上げられている事件はこの「孤立者のテロリズム」に近いのではないだろうか。組織どころか最低限の社会的つながりからも孤立した個人。たった一人の頭の中のエコーチェンバーで反響するものは、思想というよりは精神的錯乱に近いのかも知れない。

文芸評論家の秋山駿は、1958年に事件が起きた当時「理由なき殺人」と報道された小松川事件を題材にした『内部の人間の犯罪 秋山駿評論集』(講談社)で、理由のない殺人の本質をこう書いている。

「一個の頭脳の中にのみ存在していて、現実にはその存在の証明が不可能な――ということは、自分自身ですら、常にその意味とともにその存在を明らかに確信しているわけではない――そういう或る悪夢に似たあいまいな抽象的理由によって、ふと殺人を犯してしまう」

理由が無いのではない。孤立した頭脳の中にのみ存在する理由は存在すら定かではないし、本人にとってさえその意味は曖昧なのである。意味は、解釈の枠組みが無ければ固定されることなく揺れ動く。意味は他者によってはじめて意味を成す。「孤立者のテロリズム」には、意図を成り立たせる社会的ネットワークがないのだろう。

すると、「テロリストという中心がぼやけている」テロリズムには、政治的な意図がないだけでなく、あらゆる意図がないのだと言える。

暴力が塗り込められたスイを取り巻く日常

孤立者の中で増幅し続けるもの、それはスイの中のやり切れなさと地続きだ。孤立とは日常性に塗り込められた暴力だ。ネットワークがネットワークとしての意味を成すのは、接続されない外部があるからだ。

ネットワークは、接続している者にとっては逃れようのない全体性であり、接続していない者にとっては存在すら明示されない立入禁止区域である。誰かの日常は、また別の誰かの日常を抑圧することによって成立している。学校という、クラスという閉鎖空間ではそれが際立つ。

スイが置かれているのは、一切の外部を想像することもできず、異議申し立てもできず、日常そのものが暴力であるような状況だ。

孤立者がからかわれ、蔑まれ、排斥されるのに理由はない。ただ「孤立している」ということから生じるのである。孤立は支配的な日常とは別の日常が流れていることを示すものであり、後者の日常にとっては支配的な日常こそが脅威であり、暴力なのである。(テロリズムの標的が日常であるのは、日常そのものの暴力性に対するリアクションだからだ。)

スイの想像力が転びうる先とは

テロリズムとは恐怖(テロル)によって他者への影響力を行使する許されない行為である。その許されなさは手段の暴力性に依るが、テロリズムを生み出す状況もまた暴力的である。

たとえば、9.11同時多発テロを直接の契機として書かれた『テロルを考える イスラム主義と批判理論』(みすず書房)において、スーザン・バック=モースは「テロリストとテロリスト対策、どちらの暴力も否定する」と述べている。

テロリズムの暴力性を取り払った時に残るのは想像力ではないだろうか。支配的な日常とは別の日常を爆発的に想像すること。いや、別の日常はすでに存在していて、支配的な日常と同時に走っている。別の日常を爆発的に想像「させる」ことでもあるだろう。別の日常を爆発的に想像する/させること、想像力こそがテロリズムの根底にある。

別の日常をめぐる想像力が現実になる時、向かう先は、支配的な日常への攻撃というルートか、別の日常を部分的にでも実現するルートのどちらかである。前者はテロリズム、後者は「予示的政治(prefigurative politics)」に近いだろう。

望ましい社会を予め示すようなあり方を実践の中でつくり、維持することを目指す。スイの想像力の具現化は、どちらにも転びうるものだ。

動き始めたテロリズムは人々の間に恐怖が伝播して止めることができなくなる。ローラン・ディスポが『テロル機械』(現代思潮新社)でこう書いたように。

「誰もが皆、止めようと考える。自分たちが作動させてしまった機械を。しかし、この考えそのものが、機械に対して彼らを無力なものとしていくのだ。そして彼らはむしろこの機械の燃料として利用されることになる。」

破壊活動が止まったとしても、一度始まった恐怖によってテロリズム的な世界認識に呑み込まれていく。想像力もまた強い自律性を持つ。思考のコントロールから逃れるように想像は広がっていく。一度勢いがつけばその方向に雪崩を打って向かっていくのだ。スイもまた、自らの想像力が生み出したものに支えられると同時に、追い詰められていくことになる。

繋がることで膨らむ……想像力の同行者

孤立者の想像力はどこへ向かうのだろう。最初から最後まで、想像力は孤立している。ひとりの頭の中で生まれた想像は、外に出るまでもなく消えていく。『ブランクスペース』で描かれるのは、想像力には同行者がいるということだ。

スイはいつも本を読んでいた。本を読むことは孤独な営みのようだが、本は誰かの想像力が結晶化したものだ。それも、ひとりの「誰か」ではなく、無数の「誰か」である。本を読むことは、本に折りたたまれた多数性に開かれていくコミュニケーションでもある。

スイは本を読み、触発され、自らの想像を膨らませる。スイの想像力は常に誰かとともにあったのだ。本だけではない。スイのそばにいるのは空想癖があるショーコだった。

ショーコがスイと出会ったのは、スイが見えないハサミを落とす音をショーコが耳にしたからだ。想像力は、恐怖のように動物的に伝播することはないが、誰かの想像力の痕跡はそこかしこにある。文章として残したり、絵を描いたり、ものを作ったり、誰かに話したり、そうして孤立者の想像力は誰かの想像力とつながっていく。

『ブランクスペース』の中で最も美しいのは坂口安吾の『堕落論』の一節「人は誰しも自分一人の然し実在しない恋人を持っているのだ。」を目にしたスイの表情を描いたシーンだ。彼女はここで想像力の最初の同行者と出会ったのだ。

すべての想像力は孤立している。だからこそ同行者との出会いは美しい。誰かの想像力によって作られたものと決定的に出会う最初の瞬間。そこからすべての想像力のつながる場へと、想像力の共同体(“Imagined Communities”ではなく“Communities of Imagination”)へと開かれていくのだ。

この物語は、桐山襲『風のクロニクル』から引かれた一文で締めくくられる。作品全体を一言で言ってのけるような、そんな言葉だ。読み終えたら、桐山襲の本を手に取ろう。『ブランクスペース』の想像力の同行者に会いに行くのだ。

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