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ひとをわかる

お会いしたかたのリュックに プラナーさんデザインの
『STOP GAZA GENOCIDE』のシールが貼られているのを見て
今日もまた、 助けられる思いになる

セッションでは、 お越しなられるかたのかばんに、 パッチやシールが
貼られているのを、 もうそれがあたりまえなように目にしては、 でもそれ
はちっともあたりまえでないことを また外に出て歩き出すたびに思う

菅野さんの呼びかけで始まった、 東京のパレスチナウォークに倣い
ひとりプラカードを持って歩くようになったのが12月。 それから今まで
ゆく道すれ違うひとや、 街のどこかで、 停戦や、 パレスチナの自由を声に
する、 パッチやシール かばんにつけいるひとに、 わたしは出会ったこと
が一度もなくて 一度だけ、 ウーバーイーツの配達員さんが、 自転車に
2本のパレスチナの国旗をくくりつけ、 さーっとけかけぬけてゆく姿を見た
ことがあったけど それはいまも、 くっきり目に胸に焼きつくよう、 ほん
とうにかっこよかった。 でもそのとき以外、 誰も何も、 どこにも目にする
ことないということが それこそあたりまえでしかないものになっている

だから、 今日の日も、 リュックにそのままシールを貼られていたそのひと
に、 助けられ そしてまた ここまでいたってもなおなにも、 変わる、
止まる気配、 微塵もないまま ひたすらひどくなる一方の 信じがたい
受け入れがたい惨禍を日々、 目にしながら それでもぎりぎり、 こころ狂
わずにいられるのは そうしてプラカードを持って歩こうと、 そのちからを
もらうのは そのときからずっと助けられ、 今日まで励まされているのは
ひとりじゃないのをわかるのは 街を歩く そのところどころで出会う
電柱や、 橋脚にはられたシールで わたしにはいつも そのシールが
ひとのように感じて こころの重たさについうなだれて歩いていても
シールがある場所たどりつくたび 昨日はなかった場所に新たにシールが
貼られているのを見つけるたびに はあっと深い息が胸にもどる思いになる

もし街に、 ほんとう何もなかったら もうきっと無理だった
京都は同じおもいでいる、 繋がり合うひといっぱいいても
大阪ではしょうみひたすらひとりで ご近所のサモサのひとの存在や
プチのひとのSNSで知る投稿は 支えや助けというよりも、 夜の星明かり
みたいにあって だから、 ともにの通じ合いをわかるのは わたしはずっと
シールでいて 誰が貼ったかはまったく完全不明であっても 誰がでない、
それをどんな思いで貼ったかは なんなのか どの場所にはられている
シールからも それを感じることができて それは勝手な、 自分の思いの
投影なだけかもしれないけれど それでも、 なんでも わたしは、 大阪
ひとりじゃないことを シールにわかり またセッションでお会いするひと
に励まされ SNSで見るたくさんのひとの発信も そのみんながあって
とぼとぼながら、 今日まで、 歩くことができている。

少し前 天満橋の真ん中の橋脚に貼られたシールを確認したあと
シティーモール側へ向かい歩いていたら すれ違うひとと目があって
声をかけられる 最初プラカードを見ての反応かと思ったら、 そうじゃなく
そのひとは、 長らくのつながりあるひとで ものすごく久しぶり ばったり
と会い そうしてガザの話になって プラナーさんのシールを渡そうとした
ならば そのひとはばっちりと、 もうシール持っていられて 暗い時間に
さっと忍者みたい シール貼られていると聞き そうして話をしていたら、
なんなのか こころの感覚よりもさき 目から涙のほうが出た
(わたしは保身がまさって、 まだいちども外にシール貼れていない)


ひとのおおきさを ひとのちからを思う
そこでの表現の 尊敬と、 感謝を思う

そのひとの顔から伝わる眩しさを その目に宿る、 ひとがひとであることを
会わなくても、 また会えたときははっきりと 日々感じ、 いまをあれてる

それは、 何をしてるかでもない それは、 場所もときも関係なしに
そのひとからわかる発光は ただまっすぐに 胸に届く

どうか、 少しでも ガザのひと いま世界中、 苦しみにあるひとに
大丈夫を 平和と安全を 自由を みんなに求める祈り
ほのかでも 届き、 僅かでも なにかのちからになりますように。


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