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道徳

(これまた少し前に書いたもの・・・)


今日の天気は、清らかだった。

さっぱりとした強い日差しと
真水のような空気感。

不思議な天気だった。

冬の寒さとは違くて、
夏の清流
山奥に流れる、ひんやりとした源流の冷たさを
そっくりそのまま空気にしてみたような。

そういう気候だった

澄んだ湖 こんな心になれたらいいのに

そろそろ夏も近づいているのだろうか

今日は涼しい日だ

夏の風流を詰め込んだ
お得なお試しセットのような一日。

一足先に、そうめんをすすっている気分

なんだかとっても
ハッピーな一日。

母がいつだったか、

理由もなく幸せが込み上げる瞬間がある
と嬉しそうに語っていた

特に、小さい子供の頃は
よくあったなぁ

片耳にしか聴いていなかった母の話が
今日、実感として訪れた

何をとっても美しくて

じんわりとした幸せというよりも
嬉しくて仕方なかった

すべてが嬉しかったのだ。

興奮気味な心地で
私を取り巻く音、景色、まぶしさ、
何から何まで

食い入る目で、心の目で、
くまなく味わい尽くした

あぁ、なんて人生はおいしいのだ

あの日の晴れ間

ありがたい教えというものは
この世界にたくさんある。

でもどれも、私にとっては少し頑張り過ぎた教えばかり。
人間のずるさ・欲深さは、持って生まれたものなのに
それをねじ込んで、上から被せるようなもの、
ばかり。

私たちの本心の望みに、嘘なんていらないのに

どこかでそう思っていた。
道徳と、一般的に呼ばれる物々に対して

例えば、
あなたのいる場所はもうすでに天国なのよ
という言葉

今ある環境に感謝して、嫌なところじゃなくて良いところに目を向けて、
欲なんてかかないで、身の丈を知って満足しなさいって

分かる。理解はできる。正しい心持ちだ。
でも、
でも、


頭で理解しているうちは、理解とは言わないのかもしれない。

「あ、ほんとだった」
って心から思った。今日。

道徳は、頭の中で悪い心を消し去ることとは違った。

すべてのありがたい教えは、本心を述べているに過ぎないのだ。
先人たちはただ、真実を体験しただけだった

朝日はきらきら

自分の中ではいつだって
自分は一人前の大人だった。

小学生の時も、中学生の時も、ずっと
自分の正義に従って生きているのだから
自分が一番正しくて、大人だと思ってしまうのは無理もない。
だって、自分の人生の中で一番最年長なのは「今」だから。

中高生が帰る家路を
私もまた歩いていた。
ついこの間までは、本当に学生だったのに

とっても遠い存在で、遠い昔のことで、
その時を過ごしていた私の姿も
やっぱり幼かった

脳裏に霞む、自転車を思い切り漕ぐ私
あの時はあの時の論理で
道徳という言葉が苦手だったけれど

でも今は、その頃より少し大人になって
道徳が本当だったということを理解した

子供だったんだな。


そう懐かしんでいる今の私も
未来から見れば、可愛らしいのだろう

ランプは心を

大人になる、を感じた日。
だから、わけもなく嬉しかったのか

とにかく
この世は天国だ。

それを今日は学んだ

特別なことが起きたわけじゃない
何も、何にもなかった

それでも天国だと謳いたくなるほどに

この世界は美しい。


それが私の、あたらしい道徳



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