花嫁の船出 10の途中からの加筆部分 3
「フェリペ公の母堂のマリア様も音楽とダンスの名手でいらっしゃいました」オブレヒトは懐かしそうな口調で話す。「よくマクシミリアン公と踊っていらしたと伺っております。そのお二方のご子息だけあって、フェリペ公ご自身が踊られるお姿も、それはそれはお見事でございます」
「そうですか…」フアナはほんのり頬を赤らめる。
すると、傍らの司祭が咳ばらいをしつつ横目でオブレヒトを諫め、今度は彼の斜め後ろに控えている青年を紹介する。
「こちらはヘンドリック・ブレデマースHendrik /Henry Bredemers、当聖堂付きのオルガニストにございます」司祭は、青年が丁重に一礼するのを見守りながら続ける。「十六歳のころから聖歌隊の一員として活躍しておりましたが、オルガンの名手でもあり、歳若いにもかかわらず優れた音楽教師として高貴の方々からも信頼を得ております」
「…あ、はい」ブレデマースは、司祭から目くばせをされ、ちょっと慌てて言葉を発する。「お会いできて光栄です」
「ほら、マルガレーテ王女の…」司祭が小声で促す。
「えっと…」プレデマースは、さらにドギマギしつつ言葉を継ぐ。「そう、マルガレーテ様にも懇意にしていただいております」
「まあ、マルガレーテ様にも?」フアナはくすっと笑いながらうなずく。「兄上のお妃になられる方ですね。私と同年配と伺っていますが、どのような方なのかしら?」
「はい」ブレデマースの顔に人懐っこい笑みが浮かび、口調も打って変わって自然になる。「とても気さくでお優しい方です。しばしば私の方が弟でもあるかのように感じさせられるほど、ゆったりと大人びた雰囲気と思慮深さをおもちで、広く市民からも愛されています」
「あら、それでは市民のみなさんは、マルガレーテ王女がスペインに嫁がれていくことになって、さぞ寂しがっておられるでしょう?」
「はい、たしかにマルガレーテ様に一度でもお会いした者はみな一様に気持ちが沈んでいるようです…」ブレデマースは正直に言う。「でも、今こうして新たな姫君をお迎えできて、みんな一気に明るい気分になるにちがいありません」
「あら、あなたもかしら?」フアナはからかうように言う。
「もちろん!」ブレデマースは無邪気に顔を輝かせて大きくうなずく。「こんなに気分が高揚したことは人生何度目でしょう。伴奏者を務める機会だというのに、ついつい演奏に熱がこもりすぎて、抑えるのが大変でした」
「さてさて、お話しにも少々熱がこもりすぎてまいったようですな」司祭が笑いながら彼を制し、フアナの方に向き直って続ける。「かくのごとく、まだまだ若気の抜けぬところはございますが、とても誠実で才能にも恵まれた者です。マルガレーテ様がいってしまわれると知って以来、彼は本当に落ち込んでいたのですが、ほれ、この通り。フアナ様にお目通り願えて、こんなにも明るく元気になりました。どうかマルガレーテ様同様、ご懇意にしてやってくだされ」
「もちろんですわ」王女はちょっと小首をかしげるようにして優雅にうなずく。「こちらこそ、歌や演奏をお教えくださいね」
「もちろん、喜んで!」ブレデマースは満面の笑みをたたえて一礼する。
「さて、ではこちらの方へどうぞ」司祭は先に立って歩き出し、フアナとお付の者たちを別室に招じ入れる。
二人の音楽家はそれを見送り、静かに辞去した。
「市長からも聞きましたが、姫君は民間の屋敷や宿よりは、むしろ教会にご滞在をご希望とのこと」司祭はフアナに椅子を進めつつ話す。「このようなところではございますが、もしよろしければ喜んでお受けします。どうぞ今夜からでも」
「感謝いたします」フアナはようやく王族らしい雰囲気をとりもどして礼を言う。「ただ、ブルゴーニュ公家のご事情もあるかと存じます。私たちがここでお待ちしていてよいのかどうか、もし差支えなければ、ご存知の範囲で結構ですので、御示唆願えませんでしょうか?」
映像プロモーションの原作として連載中。映画・アニメの他、漫画化ご希望の方はご連絡ください。参考画像ファイル集あり。なお、本小説は、大航海時代の歴史資料(日・英・西・伊・蘭・葡・仏など各国語)に基づきつつ、独自の資料解釈や新仮説も採用しています。