マルコとの夜 5
「そう。おかげで連中は掌を返したように我々を尊敬するようになった。街でも一躍名士扱いさ。しかし、わしはそんな暮らしに嫌気がさす一方だった。三年間はどうにか我慢したが、とうとう耐えきれなくなって、今度はわし一人で再び東方への旅に出たいと思うようになった」
「おお…」少年は小さく感嘆の声を上げる。
「ただ、その当時、ヴェネッツィアはエジプト貿易を巡ってジェノヴァと小競り合いを繰り返していた。そして、まさにわしが旅に出ようとした1298年、街の有力商人たちが百隻近い大船隊を組んでジェノヴァ軍と戦うことになった。わし自身も我が一族が仕立てた船の参謀として参戦せねばならず、ぐずぐずと郷里にとどまっていたことを大いに後悔したが、もう遅かった。ヴェネッツィアから出帆するときも嫌な予感がしてならなかったが、その予感は的中した」
「ジェノヴァに負けたんだ?」
「そう。南ダルマチアのクルツォラ島沖合での合戦の時のことだった。我が艦隊の総指揮官は元首の息子のアンドレア・ダンドロだったのだが、少し忍耐の足らぬ男でのう、双方にらみ合いの拮抗状態に我慢できなくなったのか、ジェノヴァ戦艦を拿捕しようと船を進めたのだ。ところが、あの辺の海底の状態がよくわかっておらなかったようで、あえなく座礁。その隙に我が艦隊は敵方に逆包囲され、ほとんど壊滅状態。死者七千人、かろうじて残った船はわずか十隻余りという有様だった」
「それで、生き残った人たちも、みんな捕虜に?」
「うむ。アンドレア・ダンドロも捕虜となったが、ジェノヴァへ送られる船内で頭を船体に打ち付けて自殺したそうだ。しかし、わしはどんなことがあっても生き延びる方に賭けた。生きてさえいれば、また東方への旅に出るチャンスもめぐってくるかもしれぬでな…」
そこで老人はちょっと口をつぐむ。少年は何か言おうとするが、老人の思い詰めたような表情を見てその言葉を唾液とともに飲み込む。
「おお、すまぬすまぬ」老人はふと我に返ったように力なく微笑む。「お前ももうそろそろ家に戻らねばなるまいに。ついつい長話をしてしもうた。じゃが、許してくれ。わしは、こうして自分を鼓舞してきたのだ。語ることで、語り伝えることで、自分を活かし続けようとしてきたのじゃよ」
「うん…」少年は深く考え込んだようにうなずく。
「捕虜としてジェノヴァのカピ ターノ・デル・ポポ宮殿の地下の穴倉牢に抛り込まれたとき、わしは独房ではなかったことにどれほど感謝したことか」
「あ、そいうことだったんだ」少年は心得顔で微笑む。「で、そこにいたのが、ルスティケロ・ダ・ピサだったんだね?」
「そう。彼は、実に陽気な聞き上手な男でな…、いやいや、今夜はもうこれぐらいにしておこう。お前の親父さんも心配しているだろう。さ、おかえり…」
少年はうなずき、立ち上がろうとする。
と、あたりが急に真っ暗になり、老人の姿も建造中の船も見えなくなる。
「クリストフォ―ロ!」父の声だ。
ハッとして顔を上げると、そこは父親のタバーンの店内だった。
少年は申し訳なさそうにうなだれ、自分の不甲斐なさに唇を噛んだ。
いつの間に居眠りしてしまったのだろう? いや、どこまでが現実で、どこからが夢だったのだろう?
「いいさ、いいさ。今日は朝早くから用事を言いつけたりしたから、疲れちまったんだろう。今夜はもういいから、早く部屋に戻って眠りなさい」
少年はうなずき、椅子から立ち上がる。その時、膝の上から何かが床に滑り落ちてドスンと大きな音を立てた。テーブルの下を見ると、そこには分厚い写本が横たわっていた。
あの『東方見聞録』の写本が…。
映像プロモーションの原作として連載中。映画・アニメの他、漫画化ご希望の方はご連絡ください。参考画像ファイル集あり。なお、本小説は、大航海時代の歴史資料(日・英・西・伊・蘭・葡・仏など各国語)に基づきつつ、独自の資料解釈や新仮説も採用しています。