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『日本人の心と社会の成り立ち ~「甘えの構造」から見えること~』【#3-前半】

前回の記事でゆうきさんは、「甘えの構造」第三章を抜粋しながら、「甘え」に深く通じる日本独特の精神性の特徴を漫画『推しの子』に重ねながら解説してくださいました。

「甘え」の語源を遡ると見えてくる母子関係のあり方とそこに生まれる両者の一体感への希求の心理が、日本社会の精神性にどのように反映されているのか。そこには、一人の静寂を求める「侘び寂び」や、周囲とは敢えて違うことをしてハッと驚きを与えるような「粋」な演出といった、他者との間にねっとり絡むような甘えがあることを前提に構築してきた人間関係を持つ日本ならではの美的感覚が見えてきます。日本独特の芸術や芸能の特徴を「甘え」の概念を念頭に鑑賞すると、複雑な親子関係や日本の芸能界の裏表が大きなキーワードとなっている「推しの子」という作品はより一層楽しめるように思いました。

甘えの心理は親子の一体感への要求から始まっているということ、そして、子が親に、親が子に愛情希求をし合う「甘え」の感覚が内在するからこそ成立する自他曖昧の関係性が作り出す安心感が、人間の自己形成に影響を与えていくと指摘する土居氏。

では、実際に、この自己形成の過程に、「甘え」がどう関わっているのだろうか。今回は、「甘えの構造」第四章で取り上げられる「甘えの病理」を主軸に、甘えの関係が上手くいかなかった場合ー甘えが拗れた先にある精神現象をいくつかに分けて扱いながら、アニメ『PSYCHO-PASS(サイコパス)』を参考に、日本社会と甘えの関係を見ていきたいと思います。

*このタイトル記事では『PSYCHO-PASS(サイコパス)』シーズン1のみを取り上げます。また、ネタバレが含まれますのでご注意ください。

*こちらの記事ではおもに『「甘え」の構造』第四章を概略的に取り上げており、作品考察は、後半の記事に続きます。

第四章「甘え」の病理

「甘えの構造」第四章では、土居氏は、日本の精神性に深く根付く甘えは、自己形成に欠かせない概念としながらも、健全なレベルを超えた甘えにおいては、病理にもなりうると説明しています。そして、日本でよく見受けられる精神病理または異常心理と総称される諸現象についてを「甘え」の概念から見ていくことも出来るのではないかと提案しています。つまり、これから挙げる内容は、健全な甘えができなかった際に起きる挫折や期待はずれに起因する、甘えが拗れた先に起きている心理現象と説明します。

「甘え」の病理:「とらわれ」の心理と対人恐怖

日本人に多いとされる対人恐怖。これは海外でもTAIJIN KYOFUとそのまま名前がつくぐらい、日本で最初に気づかれた精神的な現象であり、その始まりは著名な心理療法家森田正馬の説明する「とらわれ」の心理から始まったとされています。

身体症状の不快感を苦痛に精神不調を訴える人を見ていた森田氏は、それらの患者に、共通して身体感覚への必要以上の過敏さを持ち合わせていることを観察しました。森田氏の実践する対処療法で、自分に過剰に内向的に向けられていた感覚が、他人に説明出来るように外へ向いてくるようになってくるとその症状が改善していったという資料をもとに、土居氏は、他人にうまく甘えることが出来ず苦しさを一人で抱え込みがちな人たちが「とらわれ」を発症していたのではないかという解釈を提案しています。

また、対人恐怖は、人見知りから始まると言われており、人見知りは本来、文化差関係なく誰もが経験する親以外の誰か知らない人を認識した時に感じる恥じらいの気持ちであり、これは人間発達的に考えてとても自然な心理現象と認識されています。親に見守られながら他者と触れ合うことを経験していくことで、成長とともに徐々に恥も落ち着いてくるものの、その慣れるまでの過程がうまく達成できなかった(ある一定の考えに「とらわれた」)場合に拗らせてしまう病理が対人恐怖であると言えます。対人恐怖は、自身が他者からどう見られているのかを恐れると共に、自身が他者をどう傷つけてしまう可能性があるのかと自身の加害性にも悩んでしまうといった、自他の境界線の線引きの難しさに葛藤を抱える症状です。

そして、対人恐怖の特筆する点は、明治以降の西欧化する日本社会の中で若者を中心に増えていったことに注目されている疾患であるということ。

明治以前の日本社会は、以前の記事:甘えの世界でも説明したように、自他境界が曖昧な中でも内と外に分かれた認識の中で持ちつ持たれつ育まれる義理人情の人間関係がありました。それが、西欧の個人主義的な文化が紹介されるようになってから、徐々にその人間関係の性質が変わっていったことが指摘されています。つまり、恥を許容し、自分が独り立ちするまで見守ってくれるような環境が徐々に喪失し、失敗が許されにくく、成長に必要な甘えを乞うことが難しい社会となりつつあることが、自己形成期の最中を生きる多くの日本の若者に葛藤を起こしてしまっているとの見方もできるのです。

「甘え」の病理:「気がすまない」の強迫観念

また、土居氏は、「気がすまない」についても挙げています。ゆうきさんの記事でも解説されていますが、まず、日本語の『気』の使い方には、自身の精神活動を客観視する意味合いのニュアンスがあるとし、「気が滅入る」や「気がすまない」などの表現をすることで、精神の自由や意思に主体性を持たせることを目指したのではないかと話しています。

そうすると、「気がすまない」と「すまない」には、大きな違いがあって、例えば「すまない」には相手がいることが前提に話される、どこか他人の反応を期待するような甘えの意識が含有されるのに対し、「気がすまない」は、「気」が満足することを自身で理解し決定できるくらいの自律した意思を持てた自己があるとする、つまり、他者に意思決定を求めがちな甘えの段階を卒業した結果である、という見方ができるようになります。

しかしながら、「気がすまない」がそうせずにはいられない強迫的なものになっている場合は、自分には主導権がない状態、あるいは自身の主体と気が分裂している状態であり、それはいわば卒業したはずの甘えが卒業できていない、むしろ、うらみやくるしさなどの何かしらの精神的影響が内にこもって強迫的に行動から抜け出せない膠着状態を作っている、と説明することが出来るとも話します。日本人に勤勉で仕事に熱中する人が多いことを振り返りながら、土居氏はこの状態を、「大変逆説的なことだが、日本人は本来甘えたいがために、しかし実際にはなかなか甘えられないので甘えを否定し、隠して気がすまないという窮屈な心境に低迷することが多いと考えられるのである。」と説明しています。

「甘え」の病理:同性愛的感情

そして、次に続く「同性愛的感情」では、土居氏は夏目漱石の『こころ』を例に、「私」の「先生」への恋に似た愛、そして、学生時代の「先生」の友人Kへの愛憎絡み合った関係を取り上げており、これらのような、個人が同性に向ける特別な感情には、甘えの心理が背景にあるのではないかと問いを投げかけます。

土居氏は、それをフロイドのエディプスコンプレックスで説明しようとしていますが、わたしは、『こころ』で描かれる破滅的な人間関係のあり方に「甘え」がどう関係しているのかを説明するには、自己心理学の理想化転移や双子化転移に落とし込んで説明することも出来るのかなと思いました。

例えば、「私」と「先生」の関係においては、「私」は同性の「先生」に対して強い憧れ、羨望があることが見受けられます。それは、理想化転移を強く持ちつつも、一方でそんな憧れの存在と同じことをしたい・同一化したい、という双子転移にも現れています。学生時代の「先生」が友人Kに感じていた気持ちはというと、強い双子転移と鏡転移により同属・仲間意識を持っていたいわば自分の一部のような関係だったKが自分とは違う生き方をしようとしていることを知った時(または、自分が向けるのと同じレベルの愛情が自分に向いていなかったと知った時)の強烈なショックや失望感が現れているように私には解釈できました。この失望が、愛を憎悪に反転させ、その衝動に駆られて取った行為が、友人Kを深く傷つける結果となったのだと思いました。

そう考えると、「私」「先生」の自己形成の土台の部分にはがっつり他人と癒着した(い)ような依存の部分が見受けられる、それが「甘え」によるものと説明することができるのかなと思いました。そして、その「甘え」の丁度よい度合いを知らない「先生」は、「私」からの求愛(甘えられること)が受け付けられず孤独な状態になっていると説明できるのかなと思いました。

ちなみに、この項目で話されている「同性愛的感情」は、同性愛を問題視しているのではなく、日本文化は、同性同士で活動することも欧米文化に比べると多いのも踏まえ、このような「甘え」を大きく内在しながら発展していく自己形成の過程と、それに併せた師弟関係や友人関係などの独特の同志構造を築きやすい土壌があることを説明しているのかなと推測します。そしてそのような関係において、破滅的な人間関係が、「甘え」によって作り出される可能性を秘めていることを指摘しているのかなと受け止めてみました。

「甘え」の病理とは何なのか?

土居氏は、上記に挙げた以外にも、【「くやむ」と「くやしむ」】【被害感】【「自分がない」】と3つの項目も「甘え」の病理として挙げています。

ここでは長くなるので、説明を省いてしまうのですが、第四章の内容を総まとめすると「甘え」が拗れる時というのは、健全な甘え方が学べななかった時、つまり、甘えが拒絶または裏切られてしまった場合においての精神的ショックからの立ち直り方が上手く習得出来なかった時と言えるのかなと思いました。なぜなら、己の主体性を育んでいくには、トライアル&エラー的に、人間関係の距離感の掴み方を含む自己理解・自己制御を学んでいく環境が他者との間に心理的に安全に提供されることが必要で、そして、それを提供する要になっているのが「甘え」であり、それがうまく実践できない場合に、不和が起きてしまったり、極端な病的現象として現れていく。これは、愛着理論でいう、安全基地の役割が無い状態で成長しなくてはならなかったインセキュア(不安定)な愛着形成の様相に似ているなと思いました。

そして、その愛着形成には、一体化から始まる母子関係だけが関係しているのではなく、父親、他者、コミュニティ、社会との関係も関わっていきます。精神力動学的に、父親的な存在は、自分とは一体化していない初めての他人(第三者)ということもあり、子供にとって一番最初に社会を紹介してくれる存在にもなるという解釈もありますし、土居氏の考察では、日本は義理人情の社会によって、師弟関係がその役割を担っていたとも話します。そしてそれを強調するように、自己心理学的は、その父親的・師匠的な存在が、理想化転移にも象徴されるように、子の自我形成の指針を作っていったり、自立を促すための自己制御の役割を担っていたと理解されてもいます。

次の記事に続く

では、次は実際に、父親的な存在の影響や社会環境も視野に入れながら、「甘え」の病理がどのような状況を引き起こすことがあるのだろうか、日本社会の傾向と甘えの関係を踏まえながら、「甘え」の病理をアニメ『PSYCHO-PASS』を通して深掘りしてみようと思います。

後半に続く。

参照:
土居健郎(2007)「甘え」の構造(増補普及版)弘文堂
内沼幸雄 (1997) 対人恐怖の心理:羞恥と日本人 講談社学術文庫
アニメ『PSYCHO-PASS (サイコパス)』

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