インディペンデント映画の可能性を求めて山下貴裕さん(映画プロデューサー)
フィリピンやタイなど、アジア各国との協力体制のもとにインディーズ映画を製作しているプロデューサーの山下貴裕さん。これまでのキャリアと今後の展望について話をきいた。 取材・文=佐野 亨(編集者・ライター)
——映画の世界に入ったきっかけを教えてください。
以前、女優の工藤夕貴らのマネージメントをおこなう会社で働いていたんです。もともとそれほど映画を観ていたわけではなかったし、芸能にもさして興味があったわけでもないのですが、ハリウッドなど世界を視野に動く工藤夕貴の活動を間近で見ながら、徐々に映画製作に関心を抱くようになりました。
日本国内だけをターゲットにするのではなく、何十万人、何千万人という観客に届くかもしれない、世界に向けた映画づくりをしていきたい、と。それで最初に手がけたのが、イランとの合作映画『風の絨毯』(2003年、カマル・タブリージー監督)でした。現在も国際的に活躍しているプロデューサーの益田祐美子さんと組んだ作品でしたが、当時の僕たちはまったくの素人。周囲も誰もイランとの合作などどうやっていいのかわからず、手探りで進めた仕事でした。
その後も、沖縄を舞台としながらタイで全篇ロケをした『ハブと拳骨』(2007年、中井庸友監督)など、各国の映画人と協力しながら作品をつくっています。
——日本の映画製作のしくみを知らずに始めたことが、むしろ海外での映画製作への視野を開いたということでしょうか?
それは大きいと思いますね。マネージメントをやっているときにも感じたことですが、いろんな現場にやって来るスタッフを見ていても、日本の場合、あまり楽しそうじゃないんです。ところがタイや韓国、あるいはフランスやドイツなどの現場に行くと、皆いきいきと仕事をしている。もしかしたら日本独特の、仕事は笑いながらやるもんじゃない、みたいな感覚が根強くあるのかもしれませんが。そういう場面を見ていると、「日本で映画をつくりたい」とはあまり思えなくなっていって。
それから日本の場合、大手映画会社のほかにいくつか主だった中堅の制作会社がありますが、結局そういう会社も大手と組まないと企画が進まないケースが多い。だから、それぞれの会社が独自の路線を打ち出していくということ自体が難しいんです。そうなると、むしろ海外の映画祭に打って出て、メジャーもインディーズもないところで評価を受けるしかない。
いま、オンラインのサブスクが一気に広まったことで、これまで大手が仕切ってきた劇場興行の形態が変化しつつあります。加えてコロナの影響もあり、今後もし劇場が通常営業に戻ったとしても、観客の動員だけで収益を上げるというやり方にはおそらくもう戻らないでしょう。
すると必然的に配信を前提とした映画製作も増えていくので、日本人が日本人だけに向けた映画をつくるのではなく、ボーダーレスにさまざまな観客に向けた作品がどんどんつくられるようになると思います。
——コロナの話も出ましたが、最近の活動状況はどうなっていますか?
今年の1月末に前の会社をやめて、フリーランスになりました。といっても前の会社にいるときから自分が主演の尚玄と企画して進めていたフィリピンのブリランテ・メンドーサ監督の新作『GENSAN PUNCH 義足のボクサー』がまだ途中段階なので、引き続きそのプロデュースをしています。
1月からフィリピンで撮影が始まり、2月後半からは沖縄と福岡で撮影を続けていたのですが、ちょうどその頃にコロナウイルスが騒がれ始め、現場でも人が集められなかったり小学校が休校になったりという影響が出ました。しかも、フィリピンのスタッフはそのタイミングで国に帰らないと帰れなくなってしまうおそれがあったため、やむなく撮影を中断することになった。そこまでに奇跡的にほとんどの撮影は済んでいたので、その素材で完成させようかとも考えましたが、世界で賞を獲りまくっている監督からの追加撮影要請を受けて、年内に撮影をして仕上げる予定です。
それから僕らのようにインディーズで映画をつくっている人間は、個人の投資家から資金を出してもらっているケースが多いと思うのですが、この状況下ではなかなか映画にお金を出そうという人もいなくなってしまう。それで資金集めにかなり苦労しているという状況もありますね。だいたい映画の企画について「この映画を応援してください」と話をしようとすると、直接相手に会ってこちらの熱量を感じてもらうということが非常に大事なんです。だから、こうしてオンラインで話をしても、なかなか理解してもらえない。そんな感じで、3月から6月にかけては足踏み状態が続いていましたが、最近はやっと少しずつ人に会えるようになってきたところです。
だからいま、いろいろな分野で働き方を見直そうという動きが出てきていますが、こと映画製作に関しては、どれほどオンライン化が進もうと、最後はやはり人と人が面と向かって話をする、ということが重要だと思います。そのうえでいまは皆で現状の厳しさを共有しながら諦めずにやっていくしかない。
『GENSAN PUNCH 義足のボクサー』撮影風景
——具体的な試みとしてはどのようなものがありますか?
こういうときだからこそ、日本だけでなく世界の人間といかにつながっていくか、ということが大事だと思います。オーストラリアに映画製作をしている知り合いがいるのですが、彼は早くからNetflixやディズニーの配信に可能性を見出していて、いま一緒に新しい企画を進めようと動いているところです。
さきほども言ったように、これまでの興行形態とは違うしくみをつくり、インディーズ映画の可能性を広げていこうと考えているので、むしろこの状況をのし上がれるチャンスととらえるようにしています。
——米軍占領下の沖縄を舞台に血のつながらない家族を描いた『ハブと拳骨』や非合法的な世界に生きる人間たちの共同生活を描いた『ニワトリ★スター』(2018年、かなた狼監督)など、山下さんのプロデュース作品には一貫したモティーフも見て取れるように思います。ご自身が映画をプロデュースするうえで心がけていることは?
もちろん監督によって作風はさまざまですが、あまり一般的に知られることのない世界を映画を通じて知ってもらいたい、という思いはありますね。同時に、僕自身が思っていることは、観終わって優しい気持ちになれるような映画をつくりたい、ということ。映画を観て、大切な人に連絡しようかなとか久しぶりに会いに行こうかなとか、そういう気持ちになってほしいんです。
現実にはいろんな悲惨なことがあって、もちろんそういう現実をありのままに描く作品も必要だと思います。でも、僕はたとえ悲惨な現実を描いたとしても、最後はどこか優しさを残したいんです。登場人物が全員悲惨な状況になって終わる映画を観たあとで、自分の周りにいる人に連絡しよう、と思えるだろうか。悲しい気持ちだけが残ってしまうんじゃないかと思うんですね。僕は『ライフ・イズ・ビューティフル』(1997年、ロベルト・ベニーニ監督)が好きなんですが、あの映画では最後、主人公のお父さんは死んでしまうけど、最後はお母さんに会えた男の子の満面の笑顔で終わらせるじゃないですか。たとえそこに死という現実があったとしても、子どもを守り抜いた父親の愛は絶対に死なない。だからこそ、あの映画を観たあとには優しい気持ちが残る。僕もそういう映画をつくりたいと思っています。
このような状況下だからこそ、環境変化を見据えて、国境を越えたより広い視野での映画づくりに取り組んでいこうとする山下さんの言葉が力強く響いた。
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山下貴裕(やました・たかひろ)
ヒラタオフィス芸能部を経て、2000年コンテンツ企画会社、スリー・アローズ・エンターテインメントを立ち上げ、『風の絨毯』(02/日本・イラン合作)、『ハブと言拳骨』(07)などを手がける。15年より19年8月までGUM株式会社代表取締役をつとめGUM株式会社代表取締役をつとめ、『ニワトリ・スター』(17/かなた狼監督)、『駅までの道を教えて』(19/橋本直樹監督)『タロウのバカ』(19/大森立嗣監督)に携わる。現在はフリーランスのプロデューサーとして『GENSAN PUNCH 義足のボクサー』(Brillante Mendoza監督)を製作中。