三大画家タイプとダダ運動タイプのアート 9~12
9 現代アートを二つに大別した理由
著者が現代アートを「三大画家タイプ」と「ダダ運動タイプ」の二つに分けた狙いは、現代アートが苦手な人を減らすことでした。
現代美術へのわだかまりの多くは、もちろん作品を理解できないことが発端です。わけがわからない絵が発端です。ピカソやポロックが発端。
わからない絵の代表は抽象画で、シュールレアリスムもあります。未来派やロシア・アヴァンギャルドなども、意味不明の表現が多い。
もっとも、そのあたりが現代アートの全てだとすれば、もっと単純な話になっていました。どれも見せ場が造形だから。造形。
ところが、実際の現代アートは複雑になっています。「ダダ運動タイプ」が大量に流れ込んで来たから。たとえば次のような例です。
美術館の展示室へ入ると、何も作品がない。「絵も彫刻もないぞ」という状態。空っぽ。いったいどういうことなのか、今日の展示会は中止になったのかと、観客同士が顔を見合わせます。
「観客のその顔が僕の作品です」というアート表現だったわけです。
観客の顔をインスタント写真に撮って、壁に貼ってはい完成ですと。展示物なんか最初からない。
作者は、人の生の顔が最も芸術的だというコンセプトを立てていたのです。顔を見合わせたお客同士が、互いの顔作品を鑑賞しているのだと。このアイデアは世界初だ。前例がないから創造なのだと。
これが「ダダ運動タイプ」の現代アートの、よくあるパターンです。この要領で既成の概念を超えて、一番乗りの斬新を競います。
10 現代アート混乱のしっぽをつかまえる
現代アートはわけがわからないという、日本にも充満する声。その声を聞いていると、二種類のタイプを分けて考えないせいで、起きた混乱が多いことに著者は気づきました。
アートは二種類あるのに、一種類のつもりでいる失敗です。
顔の横に顔が見えるピカソの不思議と、ぐるぐる回って見えるだまし絵の不思議を、分けずに考えるからおかしくなります。ポロックがペンキをまき散らす意味不明と、画家が観客の顔を撮る意味不明を、くらべるから噛み砕けない。
「美術館に展示したミロの絵」の意味がわからない。「美術館に展示した古着」の意味がわからない。この二つの作品は、「意味がわからない」が意味する次元が違います。
次元が違う同士で、意味を検証する意味はないでしょう。定義なき堂々巡りです。
「難解なさし絵」のテーマで討論する二人。一人はマックス・エルンストの絵画論の難解さ、一人はマックス・プランクの量子論の難解さが念頭に。討論は収束しません。
スケールが大きい彫刻だとの宣伝で見に行くと、寸法がとても大きかったという。ジャイアント馬場はスケールが大きい人だという感じで。何しろ身長209センチ。
「そっちの意味のスケールかよ」「数字の大きさの話かよ」。
これらの混乱は、現代アートのイメージアップに必ずしもなっていません。むしろイメージダウンのタネです。アート全般に対する不信の根っこのひとつです。
しかも、それだけでは済んでいません。
11 二種類に分けないから不安がふくらむ
全ての現代アートは「三大画家タイプ」か「ダダ運動タイプ」か、どちらかに分けられます。混ぜて考えるのをやめて、分けて考えることを著者は提言しています。
分けて考えないと何が起きるか。現代アートへの不安が、絶望へと突き進みやすいのです。
自由奔放が秩序破壊として広がっていくと、誰もが不安や圧迫や脅威を感じます。あれもアート、これもアートと、好き勝手が横行することへの被害意識がふくらみやすい。
わからん、わからん、わからん、わからんと、頭の中がパンクして。「現代アートなんてもうたくさんだー」と、追い込まれていく国民が増えます。
20世紀前衛美術に関してよく聞いた評論は、「我々の時代のアートは何と虚しいのか」の言い方でした。現代美術、コンテンポラリーアートには、虚無感というキーワードがつきものです。
虚無のアート。うつろな美術が席巻した現代。
ルネッサンスのミケランジェロ、近世のベラスケスやルーベンス、アングルとドラクロワなどの高貴で壮大な絵にくらべて、現代アートは手抜きで安っぽく、あざといという疑問と不信です。
思いつきのアイデアでポンポーンと手っ取り早くでっち上げた、使い捨てのインスタント作品群。
「僕たちの時代は、ずさんなインチキアートを押しつけられている」という被害感情は、日本にもかなり広まっています。世界的にも多い感想です。
国内に現代アートを普及させる活動があります。しかし美術家ファーストにこだわり、成果はあがっていません。美術家を「正」とし、一般人を「誤」とした前提で入門してもらう態度だから、普及でなく布教です。
アートは一般化せず、特殊化の輪を広げるだけ。現代アート新興宗教説です。
12 現代アートなんか消えてなくなれ
人々が美術に混乱した感情はついに破裂し、美術に絶望を感じるようになります。現代アートに死刑を言い渡したり、時計を昔に戻そうと本気で訴えた主張も見かけます。
現代アートは迷惑だから地球上からなくなれと、一途な思いで告発しているネットサイトが複数あります。正義感に燃えて、救世主に成り代わって、世直しを始めた人たち。
日本で近年みる現代アートフェスティバルは、遠い郡部や離島で開催されますよね。自分が住む近くでは、現代アート展なんてあまりやって欲しくない気分に応じたみたいに。
しかも一般人に限らず美術家の中にも、アートの自由奔放はあまりに過度で問題だという意見が多いのです。美術業界人も、現代美術の無秩序に懸念を感じています。
自由をいくらでも許した結果、わけがわからない混沌状態となり、時には現実的なトラブルもあるから。行き過ぎた自由への戒めを呼びかける声は、美術作家側からもしばしば出ます。
アートの自由をそろそろ制限すべきではという問題の立て方も、折々に目にします。それが目立つひとつは、わいせつ系でしょう。
わいせつ物陳列罪になるような公序良俗に反するものをアートと称する、アダルト目当ての客商売がよくあるからです。
エロ目的なのに芸術目的を装った、虚を突いた自称アートです。いわゆる「アート無罪」と呼ばれる典型のひとつ。
そうした行き過ぎた自由や、何でもありの表現手法には、美術業界人も批判的です。作るプロにとっても、やり過ぎた作品は不快。
いたずらに広がった多様性は、騒々しくてつき合いきれない。何でもかんでも全てアートだという風潮で、もはや目ざわりな過剰表現となっているから、と。
もう野放しにできない、行き過ぎたカルト的な自由を制限すべきではという、アーティストの絶望の声が広がっています・・・(つづく)
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