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1982 横浜-モスクワ-パリ列車の旅

1982年4月~

1982年のことだ。

ソ連に行ってみたくてしょうがなくなった。何しろ隣国なのになんだかわけがわからない国だ。それにシベリア鉄道にも乗ってみたかった。
そこで大学の夏休みを利用してソ連に行くことにした。
どうせならユーラシア大陸を横断しよう。そこでシベリア鉄道でモスクワに着いたら、次はヨーロッパ横断鉄道でパリまで行くことにした。

決めたら準備が必要な道理だ。それで4月からNHKラジオのロシア語講座をくそまじめに3カ月やった。おかげでキリル文字は普通に読めるようになった。数字も数えられるようになった。
ズドラーストヴイチェ! カークヴァースザブート?
ばっちりである。

ソ連を旅行するには手続きが必要だ。

怪しいことができないように、かならずソ連の官僚組織であるインツーリストというものを通して旅行について申請する必要があり、かつ都市間の移動の際には必ずインツーリスト職員によるチェックが入る。

こういった手続きが必要なので普通の旅行社ではソ連旅行を扱っていない。それで当時千駄ヶ谷にあったロシア旅行の専門業者の事務所を訪れた。ロシア語講座のテキストの後ろの広告に2社出ていたので家から近い千駄ヶ谷を選んだのだった。

したがって、あらかじめガチガチにスケジュールを組む必要があるのだった。

厄介なのはポーランドだ。
日本のパスポートは世界一だしほとんどの国には事前ビザが要らない。ソ連にだって不要だ(でもインツーリストを通してすべて申請しているのだから嘘だな)。
ところが、ポーランドだけはたかだかヨーロッパ横断鉄道で通り過ぎるだけなのにトランジットビザが必要なのだ。
それで目黒にあるポーランド大使館のゴシックめいた陰気な洋館を申請と受領の2回にわたって訪問することになった。玄関を入ると天井が異様に高い建物だった。
受領時に持参したパスポートにビザを押してもらう仕組みだ。

ポーランドのトランジットビザ

横浜-ナホトカーハバロフスク

というわけで、横浜から船で3日かけてナホトカへ行き、ナホトカからハバロフスクへ3日かけて行き、ハバロフスクからシベリア鉄道で7日間かけてモスクワに行き、それから3日間ヨーロッパ横断鉄道に乗ってパリの北駅までのスケジュールを組んだ。
パリに着けばあとは適当に向こうの日本人向け業者から成田行きの飛行機の搭乗券を買えば良いので予定は特に決めなかった。
もっとも現地で日本人向け業者をすんなり見つけられるかどうかは不安だったので、アテネフランセの地下の売店に置いてあった滞在者用新聞の広告欄から適当に選んで切り抜いて持って行った。

横浜からナホトカまでの3日間はなかなかおもしろかった。とはいえ初日は無茶苦茶に船酔いした。地に足が着いていないということがこれほど強烈だとはこのときに思い知った。

昼は大体甲板に出ると、イギリスへ北回りで帰るピッグバッグの2人(忘れたが1人はドラマーだったかなぁ。おれ、ツバキハウスに観に行ったよと言ったら握手された)とか、ヒッピーの生き残りのような連中とか、とにかくイギリス人がいる。
後になって知ったが、デビッドボウイも初来日からの帰りにシベリア鉄道を使ったそうなので、イギリスではスタンダードコースなのかも知れない。
というわけでなんかいろいろ彼らと雑談したりして時間が潰れる。

日本人にはこの後も一緒に旅をすることになる和光大学の留学生2人がいた。夏休みだから日本に帰っていたけど、これからシベリア鉄道に乗って寄宿舎へ戻るんだと自己紹介する。
日本人にはもう一人初老のおっさんがいて、おれは東大の教授で今度ブルガリアで開かれる大腸菌の学会に参加するんだけど時間に余裕があるからシベリア鉄道に乗るんだと自己紹介した。この人とはモスクワでもそれなりに行動を共にすることになる。
要は全員、目当てはシベリア鉄道なのだった。

船の印象で残っているのは、昼の甲板と、夜の食堂(天井にはシャンデリア、床は赤くて厚い絨毯の豪華な印象があるのだが、どこまで事実の記憶か怪しい)だけだ。
後に残っているのは、地に足が着かない歩行の記憶だ。

ナホトカに着くと税関がある。

噂には聞いていたが、荷物を細かくチェックして当然のようにソ連の観光ガイドを見つけると、わかっているよな? という顔をしながら、折り込み地図の北方領土の境界線が書いてある部分をちぎって没収した。なるほど、これがソ連ですな、とソ連に着いたという気分で盛り上がる。

ハバロフスクまでの列車旅行はまったく記憶にない。いや、駅まで赤(錆色)の分厚いトタンで覆われた倉庫のようなところを歩いた記憶がある

ハバロフスク-モスクワ

この旅行について、とにかく食事の記憶がほとんどない。
しかしハバロフスクの駅に着いたときに、駅の食堂で鶏肉を食べたのだけは覚えている。
これから1週間の鉄道旅行だから、ちゃんと建物の中のレストランで食事ができるのはしばらくお預けになる。だから、ここでちゃんと食べようぜ、と和光大学の一人が提案して、おれたちは賛同したからだ。

その鶏肉が実に印象的だった。
とにかく、肉が乏しくて骨の周りにとりあえず付いている程度、とはいえ皮も残っているので周りの肉を削りとったカスというわけではない鶏の腿肉を焼いた料理だ。
和光の2人がこんなに硬くてまずいのは食ったことがないと言ったのを覚えている。
おれがそれに対して、きっとブロイラーではなく平飼いしている地鶏なのだろうと言ったのも覚えている。なんとなくそういう知識があったのだ。
教授もそれに同意する。そういや、昔は日本の鶏肉もこんなだったような。

ってことは噛めば味があるわけだなと一同納得して我慢して食ったのも覚えている。昔の鶏肉が今を生きるおそろしあ(という「今」はあくまでも40年前のことである)。
で、資本主義の市場競争と品種改良は素晴らしいというような結論になったような、そんなことは言い出さなかったような。

この時の記憶がもう1つある。
生まれて初めてガラスのコップ(持ち手はコップをはめる金属製)で熱いお茶を飲むというのをやったのだった。今は日本でも普通にあってインド料理店とかで出てくるが、それまでガラスのコップに熱湯を入れるというのは考えたことも見たこともなかった。
ガラスでお茶を飲むのか! と言うと、和光が、そう言われてみれば確かに日本とは違うなぁと答える。

そして念願のシベリア鉄道に乗った。
6人乗りのコンパ―メントに若いロシア人(に決まっているわけだが)の女性と和光大学の2人と東大の先生とおれの5人が入った。あと一人、比較的早い時期に降りた兵隊がいたようないないような記憶が曖昧。

寝台車は片側廊下、片側コンパートメントとなっている。コンパートメントは3人掛けの座席が向い合せの6人客室で、確かドアはなかった。
1つのコンパートメントに寝台は座席、その上、一番上の3段が向い合せの計6個がある。
一番上がロシア人女性の割り当てで(というか、自分でさっさと荷物を置いて確保した)、後は忘れた。全然覚えてない。
二三日後になるが、彼女が降りた後、和光の一人がおれも一番上がいいなと毛布を片付けていてわーっと叫んだ。見ると、ベッドの奥にリンゴの芯が山盛り。見た目は美人だがおおざっぱなところはロシア人だなぁとか言い出しておもしろかった。
それにしても寝台の3段目は覚えているのだが(リンゴの芯を見るためだったわけだが、その時は意識していなかったがそれほど印象的なことだったのだなぁ)、残り2段がどういう仕組みになっていたのかまったく記憶にない。

とにかく1番上の段は常時寝台状になっていた(相当違うが網棚みたいなものだ)。
日本の寝台車で言うところの開放式B寝台だ。

窓から外を見ると、妙なものが立ち並ぶ。地上2mくらいの場所に横木を渡した木の杭が埋まっている。というかどうみても電信柱っぽいのはケーブルが渡されているからだが、それにしては異様に低い。

あれは、と和光大学が説明してくれた。見てのとおりの電信柱だ。やたら低いのは別に柱をけちっているからではない。今は夏だからあの高さだが、冬になると霜に押し上げられて日本の電信柱程度の高さになるんだよ。

お菓子のゴミ袋が出て、捨てようとしたが車両のどこにもゴミ箱がない。

和光大学が車掌に聞いてくれた。それはだな、と車掌は窓を開けるとぽいっと放り投げた。シベリアは広い。

さらに和光大学が持てあましていた空のガラス瓶について車掌に質問した。さすがに瓶だしな。

寄越しなさい、と車掌。そして窓からポイ。

なるほど、それで良いのかと日本人勢は深くうなずいた。

その車掌は肝っ玉母さんみたいな人だった。

コンパートメントの脇にトイレがある。
トイレのドアを開けたすぐ左手に手洗い用の水を満たしたタンクがあるのだが、彼女から、この水は絶対に飲むなと言われた。

確か2番目の夜、和光大学の一人が地図を見ながら、ここ昼ならバイカル湖が見えるんだよなぁと言い出した。でも、絶対にバイカル湖の畔は夜中しか通れないんだ。

なぜ? 観光地なんじゃないのか? と聞くと、答えて、地図を見てのとおり中国との国境が近い地域(と言っていた記憶があるが実際に地図を見るとモンゴルだし、モンゴルは親露だったから実際のところはわからない)だからお互いに軍隊を布陣している。当然、そんなものをちょっとでも撮影できないように夜中に走り過ぎるように組まれているんだよ。

シベリア鉄道は別にハバロフスクからモスクワまでの夜行列車だけが目的ではなく、シベリアの人たちが普通に移動するのにも利用される。

というわけで寝台車は2両程度で残りは普通の車両だ。

普通の車両はまさに普通の車両で3列座席向い合せが両脇だったと記憶している。

それにしても食堂車の記憶がまったくない。何を食べたのかの記憶すらない。

何しろ7日も乗っているから、そのうち皆で他の車両に散歩に出る。家族連れの連中が、こっち来いと呼んでくれるので行ってみると、ピクルスを御馳走になった。
そんな調子でふらふらしているとやたらと声をかけてもらって飯やら飲み物やらにありつける。

このとき感心したのは和光の二人組のうち特に眼鏡のほうだ。
とにかくなんにでもシュトーエタ(英語だとWhat's this?)と聞きまくって答えをメモしては発音を繰り返して覚えている。
なるほど語学堪能になるにはこういう積極的な姿勢が必要なんだなと感服した。

婆さん一人旅の席で、ソ連のタバコを勧められた。旅客機の絵が描いてあって確かTST104のような(トーストなんちゃら)名前で、ソ連製の新型旅客機の就航祝いのタバコらしい。割とおいしいので、その後のモスクワ滞在中おれはそのタバコを買うことになる。

婆さんはなんかブック型マッチをしけっているのか無駄にしながら火を点けているので、タバコのお礼に持っていた100円ライターをあげたら、本当に良いのか? と念押しされる。もちろんだ。まだ持っている(と見せる)。余分があるので安心したのか、では、残りのタバコもお前にやるといってこちらにパッケージごと寄越した。

で、ガスはどこから詰め替えるんだ? と聞かれて、そんなものは無いと答えると、怪訝な顔をする。ではガスがなくなったらどうするんだ。

和光の一人が窓から投げるふりをするとあわてて止めて、大事にしまった。息子に詰め替え方法を調べさせると言う(というような難しい言葉は和光大学が訳してくれる)ので、危ないからやめとけと答えた。

途中、多分タイシェットだと思うが、数時間停車することになったので、みんなで列車を降りて駅の周辺をうろついた。

駅舎の裏に物乞いの少年が数人座り込んでいて驚いた。見るからにボロを着ていてこちらに手を差し出している。いやしくも労働者国家のソ連にも乞食の子供がいるのか。

5人で多分ジプシー(当時はロマという呼び方は知らなかった)なんじゃないかなぁとか言いながら遠目に見ていたら、役人(駅員も役人)らしき人間がこちらへやって来ると、あっちへ行けと追い払われた。外人には見せたくないものなのだろう。

しょうがないのでホームをぶらぶらしていたら、兵隊が何か食いながらやって来る。おお、もう食べあきたからやるよ、と何かがいっぱい入ったビニール袋をくれた。

なんだろう? と和光が食べて、これはまずいし食い物ではないと言う。どれどれと手に取るとヒマワリの種だった。これはヒマワリの種だよ、皮は食えないはず、と教えながら食べてみるが大しておいしくはない。しかも小さいからちまちま皮を剥くのは面倒だし、かといっていきなり口に入れても噛むと皮ごと食べることになって、それは食えたものではないし、後から皮を口から出すのも面倒だ。こりゃひどい食い物だからおれたちにくれたんじゃないか? とか言いながら、それでも時間に余裕がありまくるので結局みんなで食べてしまった。当然、外皮はそこらに捨てる(もう、ポイ捨てに対する一切の抵抗は無い)。

また列車での旅は続く。

途中から赤いポロシャツを着た痩せた老人とやたらと体格が良い金髪碧眼の美丈夫の組み合わせが隣のコンパートメントに乗って来た。まるでポパイとブルートだ。

どういう組み合わせだ? と考えるまでもなく老人が自己紹介する。

おれはアイスホッケーのコーチで、こいつは最高の選手だ。
体格が良いから良い大人だと思ったが、どうもまだハイティーンになるかならないかくらいなのだろう、選手のほうはにこにこしているだけであまり喋らない。代わりにコーチが自分の(選手のではなく)自慢話をずっとしているらしい(和光が面倒になって途中で訳さなくなってしまった)。

さて、酒だ。とコーチが銀色のスキレット(平べったくて双眼鏡のケースのように湾曲しているボトル)を取り出すとぐいっと飲み、こちらに回す。和光が一口飲んでむせて咳き込む。次の和光もむせる。お前ら男じゃないなぁ、と言いながらコーチが引ったくってグイグイ飲んで、こちらに渡す。一口入れるまでもなくむせる。大腸菌教授は意地で3滴くらい飲んで咳き込まずに済ませる。選手がスルーされているのは未成年だからか、それとも現役アスリートだからだろうか。

一体これはなんていうウォトカですか? と和光が聞く。この銘柄は買わないようにしようという魂胆だろう。

これはエチルアルコールだ。男の酒は本物のアルコール以外にないだろう? と顔を真っ赤にしてコーチが力説する。まあ、お前らにはもったいないようだな、と尻ポケットへしまい込んだ。

なるほど、それで蓋をあけるやいなや口に入れてすぐさま蓋を閉めるはずだ。和光の二人目からひったくったのは揮発しないようにすぐに蓋を閉めるためだったのか。

客室をうろついていると、おお外人だと興味を持ったらしき小学高学年か中学生くらいの少年が話かけてきた。記憶に残っているのは、そいつが自分の名前を「ユーラ」と名乗ったことだ。ソ連の西側はヨーロッパで、東側はアジアだろ、だから両親がユーラシアのユーラと名付けたんだ。なるほど良い名前だな。というような会話をした。

今になって振り返ると不思議な点がある。
ウクライナ=ロシア戦争初期のロシア側兵士を見るまでもなく、映画のデルスウザーラにも出てくるので、見た目明らかな東洋人はシベリアには大量にいると思うのだが、列車ではまったく見かけることはなく、彼らも我々を外人として認識していたのが今になると不思議だ。シベリア鉄道沿線は西側ロシアからの移住者が多いのかも知れない(端的にはメンシェビキの生き残りなのかも)。

モスクワ到着

というようにあっという間に1週間が過ぎモスクワに着いた。

駅を出ると和光の二人は宿泊先に去っていった。

というわけで教授とおれが駅の前でインツーリストを待つことになった。スケジュールは何時何分発の列車までがちがちにスケジュールされているが、どの宿に泊まるかなどの情報はまったく無いので、一体どうなるのか楽しみだ。

そこに黒塗りのバカでかいロシア車が2台やってきた。当然日本人観光客同士で同じ宿だと思っていたので2台来たのには驚いた。

それぞれの車から黒サングラスに坊主頭の見るからにエージェントが降りてきて(という風景が記憶にあるのだが、あまりに出来過ぎているので模造記憶のようにも思う)、教授を片方の車、おれをもう一台の車に押し込む。再会を約してここで教授とは一時お別れとなった。車はそれぞれ別方向へ進む。

「ソ連へようこそ」とエージェントはにこやかに話しかける。君のホテルは我が国の誇る最新鋭のホテルコスモスという立派なホテルだ。中心部からは離れているが近くに労働英雄公園(この名前は嘘。道路に面した中央に社会主義リアリズムの労働者像が立っている馬鹿でっかな公園なのでおれが名付けた。当時は公園にはまったく興味がないので中には入らなかったし近づきもしなかったので名前は知らない)があるし、とても良い場所だ。地下鉄に乗れば中心部はすぐだ。

今になって調べてみようとモスクワの地図(ソ連からロシアになってもさすがに街の中は変わらない)を見ると、労働英雄ではなく宇宙飛行士を記念した公園に見える。今のおれなら、間違いなく博物館に観に行ったのに無知とはおそろしあ。
と思ったら、後になって松田さん(Railsマスター)から、宇宙飛行士と労働英雄の公園は通りをはさんだ別の公園だと教わった。松田さんは博物館に行かれたそうだがガガーリンが乗っていたカプセルだの、宇宙ステーション「ミール」だのの実物がごろごろ置かれている圧倒的な博物館だったそうだ。

モスクワ滞在

ホテルコスモスは当時できたての超巨大ホテルで見た目のでかさにびっくりしていると、中に連行されてエレベータに乗せられて部屋に通された。

エレベータの前にはメイド服を着たふくよかな女性がテーブルを前にして腰掛けている。何かあれば彼女に頼めば良いのだなとわかった。が、実際には何もないのであるが。

それにしても部屋に入って目を見張った。とにかく広い。
巨大サイズのダブルベッドが2つある日本間にすると24畳くらいの部屋と別に3室くらいついている。

冷静に考えると、日本の若者にソ連の威勢を示したいのだろうなぁと納得したが、それにしても広い。

今のおれであれば、喜びのあまりに盗聴器を探すところだが、当時はそういう知識が無かったのでとりあえずベッドの上で何度か飛び跳ねてからこれまた広いシャワールームに入ってシャワーを浴びていると、電話がかかってきた。はて誰だ?

と、教授からだった。なぜ電話番号を知っているのかと聞くと、インツーリストに連絡したいから教えてくれと頼んだらすぐに教えてくれたということだった。
教授は、おれが泊っているホテルの窓からレーニン廟が見える、という。では、こちらからそちらへ行きますとホテルの名前を聞いて電話を切った。

教授についてはシベリア鉄道に乗っている時のエピソードで思い出すことがある。

おれは加藤なわけだが、ロシア語だとカータと読まれるんだよな、おもしろくない、と教授が言う。確かにキリル文字でもローマ字と同じくКАТОと綴れるが、末尾のОはアの発音になるからだ。

でも先生、と和光が言う。アクセント記号をつければカトッになりますよ。

でも君、カトウでもカトーでもなくてカトッじゃん。

うーん、まあそうですよねぇ。

と、窓の向こうがまさに工事中で大量のKATOの重機が並んでいる(万国共通でキリル文字ではなくローマ文字でKATOと書いてあるのかは知らんがシベリアで働いているのにはKATOと書いてあった)。

教授が車掌さん(か、最初の頃に乗っていた女性か)に、あの日本製の黄色いのに書いてあるローマ字読める? と聞く。

もちろん、カータよ。ソ連ではカータは人気あるわよ!

というわけさ、と加藤教授が力なく言う。

とりあえず軽く着替えて、ホテルの外に出る。右み曲がって少し進むと地下鉄の駅がある。
重々しい階段をずっと降りていくのだが、地下とは思えぬほど天井が異様に高い。それにしても人気がないのが印象的だ。

どう切符を買ったかまるで記憶にないが、とにかく地下鉄に乗ってクレムリンへ向かう。

聖ワシリイ大聖堂の玉ねぎ群を横目に、教えられたホテルへ向かう。それにしても聖ワシリイ大聖堂は囲いの中で周囲と無関係に生えているようで不可思議な存在だ。おもしろい国だなぁ。

教授のホテルは街の中にはめ込まれている古ぼけた建物だった。

ホテルコスモスは現役で聳え立っている(とはいえ今では古びて薄汚れた3つ星ホテルだ)が、教授のホテルは今となっては地図を見てもわからない。アレクサンダー系かドミートリ系の名前だったような記憶があるのだが。おそらく無くなったのではなかろうか。

特に誰何もされずに中に入り、言われた部屋へ行くと狭い。普通のベッドが1つある日本の良くあるビジネスホテルの倍くらいの面積の部屋で、おれのホテルコスモスの部屋とは偉い違いだ。その代わり観光には抜群な場所だ。

窓から見ると、レーニン廟の前に行列ができている。

私は行かないが君は行くかね?

と聞かれて、行列がいやなのでおれもいかないと答えた。

二人で飯でも食おうと外に出ると、「さん、さん」と男二人女一人が声かけてくる。

なんだあれは? と話し合って、どうも「ミスター」という呼びかけの日本人用だろう、と結論した。(それから数十年して、-sanと書かれたビジネスメールをもらったりして、ああやっぱりそうだったんだな、と納得することになる)雰囲気からいくとヒモ兼通訳と娼婦ではなかろうか? といろいろ物珍しい。

いろいろ街の中を歩くと発見がある。

喉が渇いたねと話していると、クヴァスの自動販売機を見つける。
クヴァスは麦茶みたいな色で少し甘みがある飲み物だ。甘みが少ないので飲み口が爽やかで結構気に入った。ただ自動販売機といってもコップに注がれるタイプで、コップは備え付けだったような記憶がある。
というのはタンクから液体が注がれるタイプの販売機で、コップに受けた記憶はあるのだが、そのコップを捨てた記憶がまったくない。だからチェーンでつながれたコップに注いで、その場で飲んでおしまいだったのではないだろうか。
しかしいくらソ連でもそんなにおおざっぱとも思えない。
もしかするとそこらにポイ捨てする習慣に染まりきっていたので何も考えずに捨てたので記憶にないのだけかも知れない。
それとも日本でも町の食堂にたまにある積み上げた使用前のコップの山から取り出して、飲み終わったら使用後の山へ返すタイプだったのかも。

モスクワの街にはそれなりの自由があるらしいというのは、街にゴミが散乱していることから目に見えた。少なくともシンガポールよりははるかに自由な国のようだ。パンキーな鋲打ち革ジャンの金髪ピンク入り女子二人組とすれ違ったが、そういうのもありなようだ(が、その二人しか見かけなかったわけだが)。

しばらく行くと歩道に長い行列がある。何の行列だろう? と延々と歩いて先頭まで見に行くとおっさんが大きな箱から蓋を開けてはアイスクリームを取り出して売っている。

食ってみようと行列に並んだ。夏のモスクワのアイスクリームは抜群にうまかった。

すっかり味をしめて、同じような行列があったのでまた並んだ。遠くに大きな箱のおばさんがいるから間違いないだろう。

で、やっと順番になるとどうにもさっきのアイスクリームとは勝手が違う。20cm四方くらいの比較的大きな箱を渡された。箱にはペリメニと書いてあるが当時はどういう意味かわからない。

箱を開けると中に白い親指くらいの大きさのものがたくさん入っている。一体これはなんだろう? と歩きながら二人で考える。とりあえず1つ食ってみようと口にしたらわかった。小麦粉の皮で中身が挽肉だ。冷凍食品の餃子じゃん。もちろんそのまま食えるとは考えられない。

どうしましょう? 捨てましょうか、とおれが言うと、教授には年の功がある。
君のホテルはここからそこそこ近かったよね。そしてエレベータの前におばさんがいる。その人にプレゼントすれば良いのではないか?

かくして彼女に蓋があいているペリメニの箱をプレゼントした。
これもらってくれますか? なぜわたしに? 実はアイスクリームだと思って間違って買ってしまったのですよ、程度の会話だが和光抜きだとなかなか大変だ。とはいうものの一応は通じたようで、相当嬉しそうにもらってくれた。あれだけ行列して買う人たちがいるのだから、良いものなのだろう。とりあえず事務所の冷蔵庫か何かにしまって後で家で食べたのではないだろうか。

ついでだからおれのほうの部屋を見ていってくださいよ。と、教授を部屋に通した。

なんだこりゃ、と教授もあっけにとられる。これで同じ料金なのか!
しばらくして、間違いないな、と教授は部屋を見渡しながら言う。若者にはサービス満点で媚を売っているんだ。一方年寄りのおれには汚くて狭い部屋だ。
でもレーニン廟には近いですよ。あまり歩かなくても良いように取り計らってくれているのかも。

モスクワ出発

モスクワではとにかく地下鉄と散歩にほとんどの時間を使った。

道は広く、人はいるのだが少なく、街路樹が目立ち、建物はぽつりぽつりと立ち並ぶ。

日本に帰って、ここはモスクワみたいだなといつも感じるのは、北の丸公園のはずれ代官町通り沿いの東京国立近代美術館分室のレンガ造りの建物の周りだ。

モスクワでは食事は自力でとらなければならない。

一体何を食べれば良いのだろう? と人々が吸い込まれていく半地下の食堂に入ってみたら、アルミのお盆を受け取って適当な食べ物を取って金を払うタイプの食堂だった。なんとなく労働者国家のイメージそのものだったが、何しろ何を食べたかの記憶はない。安いはおそろしく安く100円しなかったのではなかったかな。

ズムだかグムだかいう名前の百貨店にも行ってみた。

全然日本の百貨店とは違う。カウンターがあって欲しいものを言って金と物を交換する。ということは欲しいものがわからなければ買えない。というわけで何を売っているかわからないからここでは買えない。

とはいえ、ケースに物が展示してある売り場もあってケースをのぞくと工具とかが置いてある。手元に缶切りが無くて不便なので、スプーンからフォークからなんでもそろっている十徳ナイフを買った。(今も手元にある)

(これは記憶違いでケースの中の商品の番号をカウンターで店員に伝えると、奥からそれを持ってくる仕組みだったかも知れない)

少なくとも物があふれかえる商店というものは存在しないようだ。というよりも商店ってどこにあるんだろう? 目につくのは街頭のアイスクリーム売りとペリメニ売り(今となっては区別がつかないのでそう簡単には並ばない)でいずれも冷凍食品という点が共通だが、おそらく他の商品を売っている人もいるだろう。その周りであれば100m近い行列で人がいるから生活者がいるのは間違いない。

それにしても人はいないが道路にはさまざまなゴミが散乱している。

食料品店を見つけて、オイルサーディンの缶詰を買った。日本の普通にスーパーで売っているオイルサーディン缶(平たい楕円のやつ)の1.5倍くらいのサイズがあった。確か日本のオイルサーディン缶のように巻き取りの仕組みがなくて開けるには缶切りが必要だったので十徳ナイフを買ったのだった。

白いブラウスに黒いジャンパースカートの10人くらいの制服の小学生の集団を見た。幼稚園かも。しかし学校らしきものは見当たらない。

赤の広場の近くを歩いていたら、警官らしき制服の人間に停められた。個人的にではなく交通の話だ。たちまち歩道に人があふれる。

と、唐突にクレムリンを囲む赤い壁の途中の門が開き、とてつもない爆速で黒いでっかな自動車が飛び出して去って行った。いきなり80km/hは出していたのではなかったろうか。というわけで、このシーンは衝撃的で覚えている。狙撃を恐れるブレジネフが乗っていたのかなぁとかいろいろ想像して楽しい。

それにしてもレーニン廟の周りの行列は途切れることがない。

そして3日間の滞在期限が過ぎ、ホテルにインツーリストが黒いでっかな車で迎えに来た。

これから3日間列車に乗ってパリの北駅へ向かうのだった。

ポーランド国境

モスクワ出国時にルーブルは持ち出し禁止(そもそも持ち出しても使えない)なので両替の必要がある。その時はそういうものだと知らなかったので硬貨も両替しようとしたら、記念に取っておけと言われて返された。というわけで、レーニンの1ルーブルが手元に今も残っているのであった。


ソ連のおみやげ

それにしても全然金がなくならなかった。何しろ飯は安いし、宿泊費は出国前に込々で払っているからだ(が、どのホテルに泊まるかなどはまったく事前には情報がなかったわけだが)。
そして特に買いたいお土産があるわけでもなく、アルマアタの革命60年バッジと紛失してしまったがレーニンの赤旗バッジとサーディン缶と十徳ナイフくらいだ(あとアイスクリームとペリメニとクヴァス何回か)。おそらく2000円くらいしか使わなかったのではなかっただろうか。

さあいよいよ2泊3日でソ連-ポーランド-東ドイツ-西ドイツ-ベルギー-フランスのヨーロッパ横断鉄道の旅が始まる。

扉がついた4人乗りコンパートメントに同室になったのは同じ年ごろのフランス人だった。口ひげを生やしている。

ソ連に留学していて、これからフランスに帰るところなんだ。で、一体君は何だ? と(いうような内容だと思う)ロシア語で聞いてくるので、日本から来た。ロシア語はあまり喋れないと答えた。

すると、ってことは英語なら通じるな? と英語で話し始めてきたので、どちらかというとフランス語のほうがいいなとフランス語で答えたので基本はフランス語、わからない言葉でこちらが詰まると英語に切り替えるみたいな変則的な方法でコミュニケーションをとることとなった。どうも、ロシア語以上に英語が得意なようだが、おれ自身は彼の英語を聞き取りできないのでフランス語のほうが良いのだった。

日本人か、ということは漢字で合気道と書けるよな? ここに書いてくれ、とメモ帳を渡された。そこで「合気道」と書くと、しきりに美しいと言う。あとでTシャツにでもプリントしたのだろうか?

あまりに見惚れているので、武道のファンなのかと思って柔道は知っているか? と言いながら、横に「柔道」と書くと嫌そうな顔をして、ごちゃごちゃしていて醜いと言う。

そういうものかと、改めて別のページに合気道を書き直してやったらご機嫌になった。

それにしても、この列車でも食堂車で食事をとったはずだがまったく覚えていない。

さてその夜。ソ連とポーランドの国境で警備兵がやって来た。自動小銃を肩から下げた若者だ。おそらくおれたちよりも若い。

フランス人がパスポートを渡す。ポンポンとスタンプが押されて何事もなく返された。

次におれがポーランド大使館のトランジットビザのページを開いて渡した。

すると形相が変わった。

いきなり自動小銃を構えておれに突きつける。これは初体験だ。と瞬間的におもしろがってしまったが、顔はマジだ。ヤバい状況なのは間違いない。
眼下に金属製の銃身が見える。滅多にお目にかかれることができない状況過ぎて、まったく現実感がない。

一方のフランス人が顔をひきつらせてロシア語で何事だ? と尋ねてくれた。

兵士は凄い形相でおれの胸元に銃を突きつけたままわめきたてる。

なんて言っているんだ? とフランス人に聞く。

さっぱりわからん。ポーランド語みたいだ。とフランス人。

あらためてお得意の英語で聞くが、兵士には通じない。フランス語で聞いても通じない。ゆーっくりーとしたロシア語でもう一度聞いてくれた。

するととてつもなくなまっているらしい(と後で聞いた)ロシア語の片言で、これは偽物だ。なぜなら発行地がTokioという存在しない地名になっている、と叫ぶ。

いや、フランス人のおれが保証するが本当にTokioというのは実在するんだ。

そもそもこのパスポートが異常だ。こんなの見たことない。発行した国はどこなんだ?

Japanと表紙に書いてある。

そんな国は存在しない。

いや、フランス人のおれが保証するが本当にJapanという国は実在するんだ。

仮にそうだとして、と、兵士も多少は余裕を取り戻して(ということは、向こうは向こうで謎のスパイだかテロリストだかを生まれて初めて目にして恐怖だったのだろう)銃を引っ込めながら、疑わし気にパスポートをぺらぺらめくりながら眺める。そしてついに勝ち誇ったように断言した。このパスポートは異常だ。と、発行日を指さした。1980年に無効になっているではないか。

あちゃーとフランス人。普通は失効日が書いてあるものなのに発行日しか書いてない。お前の国は異常だよ、とおれに言う。本当かなぁ(いずれにしても2023年現在のパスポートには発行日と失効日が同じページに並記してあるから、やはり問題だったのだろう)。

仮にビザとパスポートが本物だとしても、無効なんだから連行する。

実のところ、それはそれでちょっとおもしろそうだと思った。少なくとも、日本で言うところの普通の中学生が英語を学習して16歳で英語をしゃべる状態になった程度のロシア語しか話せない兵士よりも、ましな外国語を喋れる(パスポートの記述言語からいけば英語ができればなお良い)やつが出てくるかも知れない。

が、フランス人は一生懸命おれのパスポートをめくって調べてくれる。

「あった!ここにfive yearsと書いてある! 1980+5=1985年だから有効なパスポートだ!」

「?? それが5なのか?」と、英語をまったく読めないポーランドの若者は相手にしてくれない。

「うー、だめかぁ……」とフランス人がしょげ返る。

おれがフランス人からパスポートを受け取り確認する。確かにfive yearsとしか書いてない……

が、待てよ、その上の日本語の記述に「5年を経過したときに」とあるではないか。

「見てくれ。ここに5と書いてある!」 と兵士に示す。フランス人も覗き込む。日本語で書いてある行なのでスルーしていたのだろう。「だから1980+5=1985年までは有効なんだよ!」

兵士は怪訝さを隠しもせずに「5年を経過したときに」の行を指でなぞるが、5は5だ。ポーランドでもアラビア数字は数字なのだろう。そこで辻褄はあうと思ったのか、手柄が立つのではなく面倒なことになるだけだと思ったのか、やおら

「OK」(という意味だと思われるポーランド語)

と、スタンプを押して去って行った。

ありがとう、と礼を言うとフランス人はまじめな顔をして、そりゃ目の前で人が射殺されるところを見たくはないよと言う。どうも相当やばかったようだ。

まあ、あいつ、宿舎に帰ったら、謎の東洋人とフランス人を相手に冒険して妙なパスポートを見せられたとかみんなに自慢すんだろうな、とフランス人がにやにやしながら言った。

(当時、連帯による反政府運動が高まっていたので、いろいろ神経質になる事情があったのかも知れない)

やたらとわかりやすい発行年月日
役に立たない有効期限。「五年を経過したときに」ではない点だけは良かった。


ポーランド-ベルリン-ベルギー-パリ


朝、外を見てポーランドの連帯について考える。

というのも、景色が全然モスクワとは異なったからだ。

水色や黄色の小型車が街の中の立体交差を走っている。

モスクワでは黒いでっかな車がほとんどだ。少なくとも色味を帯びた車を見かけた覚えはない。立体交差は見たこともない(これは広さが広いからかも知れない)。

が、ここでは相対的にソ連より物質的に豊かに見える。物質的に豊かになれば、より自由を求めるのはおそらく道理だ。

ポーランドー東ドイツは拍子抜けするほど簡単に終わった。というか記憶にすらなくパスポートにDDR(今はなきDeutsche Demokratische Republik)と記された列車のスタンプがあるだけだ。DDRのスタンプは2つではなくフランクフルト、ベルリン=フリードリヒ通り、マリエンボルン(ここで東ドイツから西ドイツになる)の3つだ。

ベルリン=フリードリヒ通り駅に到着したのは夜遅くだった記憶がある。パスポートにスタンプを押すので結構長い時間停車していた。

あっちの窓とこっちの窓、見比べてみろ、おもしろいぞ、とフランス人が言う。

あっち(廊下側)の窓の向こうには別の線路があり、その向こうのホームの壁に赤い枠に囲まれたでっかなバッファローの絵がかかっている。バッファローの下のほうにはZOOと書いてある。おお、クリスチアーネFに出てくる動物園(出てくるのはツォー駅だが)の広告だ。その他、いろいろ広告が壁に並んでいる。なんとなく壁の雰囲気が代々木駅のホームを思わせる。それより向こうは壁のせいで良く見えない。

一方、こっち(コンパーメント側)の窓から見えるのはホームなわけだが、そこには5mおきくらいに自動小銃を胸の前に抱えた兵士が並んで休め、気を付けを交互にやっている。軍靴の音が聞こえそうだ(いや、ザッ、ザッという音は本当にそれなのかも知れない)。さらに向こうは暗くて良くわからない。

東と西が出会うところはこんなところにあったのか。

夜中、ドアを叩いて(シベリア鉄道と異なり、コンパーメントにはドアがついている)車掌がやって来た。小太りの初老のおっさんだ。

出国手続きは夜中の遅くになるからこちらでやっておく。だからパスポートを渡せ、というので渡した。フランス人は寝ているが、デスクにパスポートが置いてある(フリードリヒ駅で出したからそのままになっていた)ので一緒に渡した。

朝起きるとフランス人が青ざめている。パスポートが無いんだ。

ん? 車掌が持って行ったよ。と答えると、馬鹿野郎何やってんだ。とおれに向かって本気で怒る。

いや、そう言われても、そういうもんなんじゃないか?

そんなことはない。パスポートを他人に渡すとはお前はバカだろう。

いや、そう言われても、とかやっているとドアをノックして車掌がにこにこしながら入って来た。そして、お早うと言いながらパスポートを返してくれた。(そこでDDRの最後のスタンプが押されているわけなのだった)

で、その話はそこまでとなった。

昼間、名前を忘れたがベルギーの外れの田舎町で結構長い停車時間があった。それで二人でホームの向こうを眺めているとどんどん窓際に人が寄って来る。

なんだろう? なんだろう? と二人で話しているとますます増えてくる。どうも、こちらを指さして何か言っている。

わかった! とフランス人。お前だ、お前。この列車に東洋人が乗っているのはすっごく珍しい(ポーランドを思い出せ!)。おそらく今集まっている連中は生まれて初めて東洋人を見ておもしろがって見物に集まって来たんだ。

まじすか、と思ったが、確かに他に考えようがない。

窓から顔を引っ込めようかと思ったが、まあわざわざ見に来ているのだから、見せてやるかとあきらめて外を眺める。どうにも箱根湯本の駅前を思い起こさせる風景の駅だ。2階建ての鳩時計みたいな家が並んでいる。

というわけで、観光客が観光される状態が列車が駅を出るまで続いたのだった。

そしてジュモンでフランスに入って、しばらくしてパリの北駅に着いた。

リュミエールの映画で観たことがある、E字状のホーム(端がつながっている)だ。やあ西側だ。北駅だ。

フランス人は迎えに来ていた連中と一緒にどこかへ去って行った。いろいろありがとな。おう、みたいに軽く別れてそれで終わりだ。

そしておれはホームの端のオフィスドゥツーリスムへ入って駅近くの二つ星ホテルを探して予約してもらった。
ここから先にはインツーリストはいない。


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