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【エッセイ#4】暗い朝まだき ―ノエル=アクショテと『Rien』のこと

 前回のエッセイで取り上げた『パトリシア・ハイスミスに恋して』に関連して、もう一つお話ししたいと思います。このドキュメンタリーを映画館で観たいと思ったのは、ハイスミス以外に理由がありました。それは、音楽をノエル=アクショテが手掛けていたからです。

ノエル=アクショテはフランスの前衛的なギタリストで、昔彼の『Rien』というCDアルバムを持っていたので、知っていました。それ以来彼の音楽を特に追いかけてはいなかったのですが、映画のサイトで名前を久しぶりに見て、彼が音楽を手掛けるなら、音響の良い映画館で聞きたい、そんな風に思ったのでした。結果として、美しい響きに包まれて半分彼のライブを聞いているような気分で、大変満足度は高かったです。
 
しかし、非常に良かったとはいえ、久々に聞く彼の音楽は、『Rien』とはだいぶイメージが異なるものでした。

『パトリシア・ハイスミスに恋して』での彼の音楽は、広い空間に柔らかい音響が重なり、不協和音は少なく、ゆったりとメロディアスで心地よいものでした。ジャズ・ギターの巨匠ビル=フリーゼルのようだと思っていたら、実際にフリーゼルも参加していました。
 
アメリカーナとも言われるフリーゼルの音楽のように、ノスタルジックで多様な音楽があぶくのように浮かんできます。柔らかい響きを身に纏って、ゆったり舞うギターの調べを聞いていると、私が知っていた頃からの20年で一体何があったのか考えてしまいました。


2000年に発表された『Rien』は、一言で言うなら、ギターと電子音によるエクスペリメンタルなアバンギャルド音楽と説明することができるでしょう。冒頭、『Gifle』という曲(フランス語で平手打ちや侮辱という意味)が始まると、硬質で低い鐘のように響くギターが、小波のようにゆったりと押し寄せてきます。
 
カラフルではないけど、どこか暖かみのある響きが押し寄せては返すと、急にグシャっとしたノイズが混じります(まさに平手打ち)。エレキギターのディストーションや電子音も絡み合ってきて、静かに盛り上がっていきます。と言ってもドラマチックではなく、同時に決して弛緩することもないまま、ゆったり収束して、ノイズで終わります。
 
まるで、夜が徐々に明けて、でもまだ陽が差し込んではこない、薄暗く灰色に染まった部屋の光景のようです。希望に満ちた朝ではなく、どこか不安と憂鬱と、胎内で微睡んでいるような恍惚が溶け合っているみたいな、気怠い時間。「早朝」ではなく「朝まだき」という古い言葉が合うような、夢と日常の境目の稀有な時間が捉えられているように思えます。
 
ちなみに、CDにはブックレット形式で森山大道のモノクロ写真が何ページもあり、まさにこの曲の静寂と薄暗い夜明けの雰囲気を体現していました。渋いワイン色の装丁も相まって、小さな写真集のようで、サブスクだと表ジャケしか分からないのがもどかしいです。
 
実のところ、2曲目以降はこの音楽の雰囲気とはがらりと変わって、静寂の中に点描のようにノイズが時折響く、ある意味正統派な「エクスペリメンタル音楽」となっています。興味深い箇所も何個かあるのですが、正直言えば、『Gifle』ほどの感動はありません。CDを売ってしまったのも、それが原因だった気がします。
 
でも、夜明け前の薄闇の時間はすぐに消えてしまうものなのでしょう。1曲目の美しい鼓動が消えてしまうからこそ、2曲目以降のノイズがまた真に迫ってくる。一晩中魅惑的なクラブで踊りあかした若者が夜明け後の街に出ると、道端に積み上げられたごみ袋や烏たちの寒々しい光景が、彼の眼に突き刺さってくるようなものかもしれません。

『Gifle』を聞いて思い出すのは、ニール=ヤングの『ベツレヘムの星』という曲だったりします。初めて聞いたのは『ディケイド』というベスト盤だったと思います。ざっくり刻むアコギの前奏の中、ヤングは、つらくないかい、朝起きてあの素晴らしい日々が去ってしまったと気付くのは、と歌い出します。
 
残っているのは幸福な思い出だけ、夢も恋人もあなたを守ってくれなくて、あなたをすり抜けていくだけなんだ・・・。ヤングは非難するでも嘆くでもなく、淡々と語っていきます。彼が語っているのは、まさに、暗い夜明け直後に目を覚ました多くの人が感じることではないでしょうか。後悔と、憂鬱と、軽い痛み。一日が始まることは、決していつも薔薇色ではないのですから。

ノエル=アクショテのインタビューを読んだことがあります。掲載雑誌も覚えていないのですが、印象的だったのは、アクショテはフランスにツアーに来ていた、ジャズ・トランぺッターで歌手のチェット=ベイカーをサポートした経験があること、そして、薬物中毒で、いつもマフィアに追われていたベイカーは、すぐに逃げ出せるように、一晩中部屋の電灯を着けたまま過ごしていたということです。
 
ハンサムだった若い頃、愁いを秘めた溜息のような美しい歌声とトランペットを披露していたベイカーは、後年、皺くちゃに老衰した姿で、退廃と憂鬱に満ちた、驚くほどゆっくりで時が止まってしまいそうな音楽を奏でていました。それは、夜眠ることが出来ず、朝日が差す前の暗い瞬間を何度も見ていた人間だけが奏でられる音楽なのかもしれません。アクショテもまた、ベイカーやヤングと同じ光景を何度も体験して、自分の音楽に昇華した一人なのでしょう。

それにしても、Spotifyで見て驚いたのですが、アクショテは非常に多作で、例えば去年だけでなんと30枚近くアルバムが登録されています。しかも、ライセンスを確認する限り、レーベルに所属しているのではなく、彼自身が一人で配信音源を管理しているように見えます。
 
内容も、『Rien』のようなアバンギャルドよりのものだけでなく、ジャズに近い作品、クラシカルな作品もかなり多く、パレストリーナのギターアレンジした作品から、ビル=エヴァンスに捧げた作品、フォーレのレクイエムやブルックナー(!)をギターアレンジした作品まで幅広くあり、それらを聞いていると、フリーゼル風のサントラも、決して異色なものではなかったことが分かります。
 
その旺盛な創作意欲に個人的に刺激を受けつつ、彼にはとにかくずっと音楽を創り続けてほしいと願ってやみません。ベイカーやヤングも多作だったことも併せると、ある種の闇の時を味わった者こそが、この世に何かを残したいという創作の力を得るのかもしれません。

今回はここまで。
お読みいただきありがとうございます。
今日も明日も
読んでくださった皆さんにとって
善い一日でありますように。
次回のエッセイでまたお会いしましょう。 

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