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曖昧さと遊びと"面白くなてもいい"

最近概念が変わったことが2つ!

どちらも
・曖昧さ
・面白くない、それでいい
・遊び
についての言語化。

■チェーン店が出店できない場所


最近新たな考えになったことが2つあります!


1つはチェーン店について、もう1つは「アートって"面白くないかも"」についてです。

 

チェーン店については、

実は少し前まで「チェーン店の多いロードサイドが日本中にあって、面白くない」と思っていました。

 

でも、こういう、大きい道路があって、チェーンがあって、などができる場所って、

たくさんあるけど、それはそれでいいかーと思うようになりました。

 

文化ってその中にいると感じづらいけど、

ファミリーレストラン、というものもそもそも、

他の国からみたらある種斬新な概念だし、やっぱ僕もサイゼリアとかロイホとかも大好きですしね!

 

大人数での学生との打ち上げとかは最近もっぱらサイゼリアです笑

 

■「不便」の良さ


そしてそして、この前塩屋の「へそ」に行った際に、

塩屋の細い路地の合間にできている個人経営のお店やご飯屋さんが立ち並ぶ風景がすごく好きで、

 

あの細い路地にはチェーンはできないと思いました。

 

つまり資本主義の原理で効率化されたりしつつも、一定、

・不便

・非合理

なものは残り、その残った資本主義的に不便・非合理な場所には、

 

それに見合った合理が生まれ、

結果資本主義的・統一的ではないものもしっかりと場所場所に残るのかも、

 

と思うようになりました。

 

「新快速が止まるようになると、次第にノラアーティストは減っていく」

と織田は思っているのですが、

 

こういった地形的にそもそも新快速を止められなさそうなところって、それはそれで、いいですよね!(あ、主観です。)

 

国内外にも、

土地が安い→アーティストや個人経営のお店が集まる→雰囲気が良くなる→人が集まる→資本が入る→土地代上がる→アーティストが出ていく(特に卵)

の流れはありますが、これを「良い」「悪い」といっても、なるものはなるし、

 

最終的にそうならない場所が、そういう場所なんだろうなーと思うようになりました。

ご飯や栄養の面でも、サプリで「見えている必要栄養素」にストレート投げ込むだけでなく、

その派生効果や副産物的な効果で我々の知らない世界や、菌とかそこまではサプリでも扱っている領域じゃないため、多分サプリだけだとダメなんです。

これら共通する、寄り道、無駄、サブ、副産物、曖昧さ、不便、曲道
ここら辺のキーワード、ホットですね~~!


■アートって、みんなにとっては面白くない


もう1個考えが変わったというか言語化できたことは、「アートって面白くないかも」です。

 

より詳しくいうと、「アートって全員にとっては面白くないもの」の方が正しいかもしれませんし、

「アートは全員にとっては面白くないから、面白い」と僕は思っているのかもしれません笑

 

そもそもアートは「オーダーメイドの面白さ」があるから、

資本主義の中でも聖域になると思っています。

 

でもそれは逆にいうと、「作品によってはその人にとっては面白くない」だと思っていて、

 

「あの人は、このアート作品は汚いっていうけど、私はそれがなんか心地よくて好きよ」

とかがアートの1つの楽しみ方だと思っていて、

 

あの人にとっては価値はないけど、あの人のとっては価値がある、

それでいいと思っています。

 

ミスチルの「友人の評価はイマイチでもShe is so cute」ですね!

■500億円でも売れる「ハイアート」の世界は偏った1つの世界に過ぎない


そして、アートというとハイアートのイメージ(メディアとかでバンクシーやバフギアナの金額などの話題性が取り上げられがち)ですが、

たしかにハイアートは最高価格で500億円(ダヴィンチの「サルバドールムンディ」)ほどで過去に売れていますが、

あれも西洋史の文脈×金余り大富豪達の娯楽の一種であり、決してあれが「世界のすべて」だとは思っていなく、

「ハイアート」というすごく狭い偏った1ジャンルに過ぎないと思っています。

 

アートの中のハイアートは資本主義的には正ですが、資本主義的発想を超えた場合、ほんの小さな領域にしかならないと思っています。

 

そんな中、アートってなんだろうと思った時に

最近ドイツで「ドクメンタ」という5年に1度のアートの採点がありました。

 

今回は「場」とか「生活」をそもそものアートとして表現している作品が多く、

現地で参加していた友人は「どこまでが作品で、どこまでがそれを見ている人かわからない」らしいです。

■表現してるつもりでなくても、表現

そのドクメンタの「生活」「場」をアートとしている動きを見てすごく腑に落ちたのは

 

織田もよく「今足を置いている位置とかも、もはやその人の表現」という言葉を使いますが、

姿勢や立ち姿、生き方、それら全てにその人の選択や思想が反映されていて、

つまりそれらは全てその人の表現である。

 

何かを作るとか、何かを企画するとか、起業するとか起こす、

という、「能動っぽい表現」を「表現」と思う人も多いかもしれないですが、

 

実は能動とか受動とか関係なく、表現はされていて、「受動」も表現の1つ。

 

つまりBEでもう表現なんだと思うんです。

(ということもあるからBE KOBEが大好きです。)

■「面白い」でなくてもいい

となると、「アートは面白い」とか「面白くない」って、なんか軸がずれてくるわけで、

「BE(そこにあるもの)」を面白いとか面白くないと思うのは、個人の感想である、ただそれだけ

 

つまりアートも面白いと思えば面白いし、面白くないと思えばその人にとってはそう。

 

そもそも「面白い」は主観なので、それを全員同じにする必要なんてなくて、アートもそうでいいんだろうなと思い始めました。

 

となると「有名なアーティスト」は資本主義にのった人だったり、

たまたまだったりであり、全員のどこかにある普遍性のスイッチを押していて、それがみんなに刺さっていたり、

 

ただ、「普遍性を求める」こと自体も1つの手段だとも思うため、

本来的には有名かどうかとかは、アートの人間の根っこにとって価値の中の一部でしかないんだなーと思うようになりました。

■能動するものは人によって違う

そして、高校のアート探究の授業でも思っていることが「能動」ってさせることではないということ。

 

能動は

・個:その人の興味=原体験や過去や性格などからなる

・環境≒機会や新たな刺激や思い出し

・タイミング:その人の心のタイミングや世界の情勢など外部刺激タイミング

・マインド

の組み合わせによって出るものであり、何に能動的になるかは本当にこの組み合わせ次第であり、かつそれが許されるかどうかもこれら次第と思っています。

 

そしてそんな中、アートも似たようなもんだと思っています。

 

オランダ人が自転車で運河に突っ込む瞬間を写真の撮ったパフォーマンスアートがあるんですが、これも面白い人にとっては面白いけど、

人にとっては面白くないし、こういう作品って多いと思うし、

そもそも「面白くある必要はない」と思っています。

 

背景を想像したり、自分と何か重ね合わせたり、何かを連想したり、

たまたまそういう状態の人が見たらそうであり、

 

運とか縁みたいなものだなーと思っています。

■YouTubeとは「みんなに面白い」の仕掛けを入れている

そう思うとYouTubeとかって、一般的に言われる「アート」に比べると、多くの人にとって面白いんだと思います。

 

効果音や、カット割のタイミング、動き、

人間がある意味動物的に起こす反応や反射

さらには人間の根っこの欲望×現代の情勢と多くの人がなっている状況

などの組み合わせに対し、

 

ついつい見てしまったり、ハマってしまうように表現がされている。

 

ある種のアート作品であり、

他のそうじゃないアートとかに比べると「面白い」を目指していて、面白くできているんだと思います。

■能動と受動の面白さとそのグラデーション

そして、「マスにとって面白い」はある種、何人かの発信に対して、多くの人がそれを視聴する。

 

身体表現的ではなく、あるコンテンツを頭に入れて、

頭の中中心に楽しんで心を動かすのがYouTubeとか映画とかの構図だと思っています。

 

それに対してドイツのドクメンタとか、「生活」を表現している作品は、

 

全員で同じ楽しみを味わっていたりいなかったり、

身体表現も統一されていないし、

それぞれがそれぞれ少し自由めな枠の中で行動し、

それが作用しあって場になっている。

 

どこまでが「場」なのか「そうじゃないのか」は、捉え方によるけど、それも「場」の特性。

どこまでが「生活」でどこまでが「アート」なのか、その曖昧さ。

 

相互作用しているといえばしているししていないといえばしていない。

 

なんというか、こういう世界観の表現は織田はすごく好きで、

こういうゆるく、かつ半径がそこまで大きくない、ある偏った文化の集まりと、そうじゃない集まりの繰り返しが心地よいのかもと思い、

 

逆に、今後、マス向けの発信を求める人と、

こういったマイナーコミュニティを行き渡る系などを求める人って、どれぐらいの比率になるんだろう?

など色々興味が湧いてきたので、遊びながら学んでみようと思います。

そしてここからはさらにもう1段階に詰まっていないものを!


日記を書いていると、自分に対して「でもそれって矛盾してない?」が見つかって、いいなーと思います。

書いているものがただただ後付けの理屈になっていて、本当は別の感情が先行している時とかもあります。(その時は気づいていなかったり。)

そういう時って、場合の想定ができていなくて、つっこまれたら「あ、確かにそれはそうだ」とかそこに理由をつけようとしたり、自分の一部の行動と矛盾してたり、

それって自分のコンプレックスへの裏返しや憧れだったりすることもあるなーと思い、

でもそれが見えると「あー自分自身はそういう憧れがあるのかも」とかに気づけたり、

自分の未熟さとかを感じますがそれも楽しいなーと思いつつ、いつも皆さんお付き合いいただき、ありがとうございます、、、!

イカン、、、冒頭はいつも軽めなブルボンのプチシリーズみたいなサクッと感にしたいと思っているのに

ノッケからフォンドヴォーを出してしまった、、、!

日々精進!!!!!


■DAOっぽいものと、コミュニティ


最近気になって元ZOZOの前澤さんのDAOっぽいコミュニティに入ってみました!

他の、コミュニティで言うと、キンコン西野さんのオンラインサロンには、

サロンが50名ぐらいしかいない時から入っていまして、

あとDiscordなどでもちょくちょくコミュニティに入ったりする

そんな中で感じることとしては、

オンラインサロン形式は150人ぐらいまでは相互がイベント企画したり、発信することができるけど、

数百名を超えると、知らない人が多過ぎて、プレイヤー一人一人の当事者意識は薄まるため、

基本的にはリーダーや少数の運営メンバーがメインで投げかけやプロジェクトを起こして、

そこに対して他の参加者はコメントをしたりする程度、

もしくは1つの大きなコミュニティを分解して、そこにリーダーなど任命して小分けコミュニティ化する動きだと思っています。

DAO型組織も多分人数に対してのそれぞれの行動原理は同じなんじゃないかなーと思います。

こういったコミュニティの中でも、「場」に比べると曖昧さがなく、

「括り」を明確に設けているところも多いです。

そしてそして、

なんというか、織田個人としては

「くくられ過ぎているコミュニティ」はちょっと苦手というか、

冷めてしまう自分がいます。

新産業課とかはある意味、いろんなプロジェクトがあり、外部の人とチーム組んだりして、

実はこの曖昧さがすごく心地よかったりするんだと言語化できました。

逆に、Facebookグループで括っている動きとか、

「数百人とか数万人のコミュニティに、運営側以外で入る」

ということに対しては興味が薄れてきました。

あと、こういう人って結構多いんじゃないか?と思っていまして、そうなると

「括りの科学」みたいなのって、コミュニティ運営する上ですごく重要になってくると思っています。

KOBEワカモノ起業コミュニティとか、コワーキングフェスとかは

色んな組織と連動もしていて、

いい意味でその「曖昧性」が残っていて、すごく好きです。

■曖昧さ、テキトーさ:ボードゲーム作り

あともう一つその中で思ったことで言うと、

「遊び」の魅力は「曖昧さ」の中での「興味発信の能動」なんじゃないか、です。

やっぱ自分のしたいことをしたいし、

それに合う仲間とやりたいし、

となると、大きなコミュニティの運営の数名の中に入るのは楽しいけど、

残りの数百とか数万に入るのは、ほぼ「記事を読む」と変わらないなので、よほど面白い情報がない限りは興味ないし、

もはや「コミュニティ」として使っていないなーと思います。

そしてそこで今織田が細々としているボードゲーム作り遊びに移るのですが、

これはボードゲームを売りたくてやってるわけでも、完成させたくてやっているわけでもなく、

ボードゲームを作る過程で

・ルールの知識

・いろんなゲームを分解して考える

・デザインとかキャラクターの知識

・仕組み

とかを考えること自体が楽しいという、ただの遊びであって、

無理やり売ろうとすると期限とかできるから、せっかくの遊びなのにやる気なくなるし、

でも、これに興味持ってくれる人がいたら嬉しいし、

とはいえ、そういった人とチームまで組みたいか?と言われると

別にチームという縛りは、この遊びではしんどいなーと思ったりもします笑

でもこんな考え方でも別によくて、なぜなら「遊び」だからであり、

織田は勝手にやっていることだからです笑

■遊びと仕事の境界線

ただ、遊びだとうまくいくものと行かないものもあるため、

そうじゃないものにこれを取り入れるのは良くないと思いますが、

ただ、こういう時間や空間などがあっても良いなーと思って、このボードゲーム作りをしている、というのもあります。(ポケモンカードの試合に出ていたのも同じ原理だったと思います。)

と同時に、織田がしている新産業課での仕事も、なんというか

ありがたいことに好きなことで好きなジャンル、

UIKはこれまでの人生で出会わなかったようなことがたくさんあるし、

KOBEワカモノなどは、市役所にいなかったとしてもしたいことだし、スタカフェ大阪時代にしたかったことを実現している、

という意味で、仕事ではあるのですが、遊びの感覚もあり、

あと任務とか目標とか設定されていないけどやっている仕事って、特に新産業課とかってかなりあると思っていて、

これもある意味の「遊び」「趣味」の良い面(能動、勝手にやる、熱量など)を活かしたものでもあると思っています!

(人つなぎとか、新しいプロジェクトとかイベント立ち上げたりとか)

こういった「遊び」と「仕事」の曖昧さがあるのもうれしいとともに、

遊びと仕事の定義、メリットとデメリットなども見ていきたいですね!

■曖昧さを入れたライフデザイン(あ、でもデザインっていうと曖昧さの扱い難しい笑)

好きな本で、「ホモルーデンス(遊ぶ人)」という本があるのですが、

個人的には、仕事としてがっと、神戸市役所の中で色々させてもらえるテンションも大好きですし、

同時にこういった遊び場所も一定他で用意している状態が好きで、

「遊び」って「曖昧さ」があるから魅力的なんだなーと言うことを、この記事を書きながら言語化できました!

こういう遊びのあるキャリアバランスとか、

いろんな考え方も、もっと当たり前になっていいんじゃないかなーと思っています。

ということで書き出したら止まらなくなってしまい、

3日間に分けて長々と書いてしまいましたが、

「面白くない」とか「進めなくてもいい」とか

そういう義務感ない中でも

「でもやりたい」

と思うようなものの価値ってすごく高いと思っていて、

そういった少し緩い世界も当たり前のように共有されると、救われる人も増えるかも?と思う今日この頃でした!

と言うことで、長く頭の整理ですが、みなさんもこういう

ゆるさとか遊びとかで最近起きたおすすめ毎あれば是非教えてください〜!^^

今日も素敵な1日を!


アート、教育、探究、子育て、生き方。アーティストとして、スクール長として、本音しか書きません!