見出し画像

雑草のように

駅に向かう途中に、なかなか売れない土地があり、半年に一度くらいシルバー人材の方々が土地の手入れをする。
しかし、あっという間にこの有様だ。

生命力たるや

ちょうど今朝、茄子の苗を植えたところだった。小さなひよっこの苗とは違い、これらの雑草(アジサイ的なものもある)のオラオラ系と言ったら凄まじい。

なんだろうな、これは・・と心の湖に一雫の波紋が浮かぶ。

神社の境内で偶然見つけた尺取り虫も、そのような波紋の一つだった。

雑草をしげしげと観察した。その名も「雑な草」である。人間様になめられたもんだが、逞しい茎と、万歳三唱のように葉を広げて、ひたすらに天に向かっている。

(雑草のように生きろ)とか、(名前のない花のように)のような、人生讃歌のような昭和歌謡のフレーズには程遠い、何か別の感覚を得る。

僕の目線は、メタ的に言えば、未来を見通す神のようだ。彼ら雑草は、また秋になれば全て刈り取られる。名前のない花を咲かせ、虫を寄せ、種を飛ばし、そして、無惨にも刈り取られる。僕の220円で迎えた茄子の苗は、きっと小さなポットの中で安心安全な日々の中、毎日水をもらって実をつけ、人間様に食べられて、生涯を終える。
雑草も、ひ弱な茄子も、向かうべきところは死だ。ただ、茄子は人間の血肉となるが、子孫は残せない。
かたや雑草は、すべて刈り取られた後でも、また数十メートル先の路地で、同じく不適な顔をした草として生まれ変わる。

種とはなんだろうと、帰り道に考えた。
例えば僕は、1万円も出して、オリーブの木を迎えた。生活の癒しのために・・。たかが背丈ほどのものだ。しかし、駅一つ先の国立公園をあるけば、縦横無尽にオリーブが生息している。

近所で一軒家を建てると億に近いお金が動く。そして、隣接したぎゅうぎゅうの箱ができ、日当たりもままならない生活が始まる。
しかし実家に帰れば、無造作に、「何も意味を持たないに等しい」土地がいくらでもある。人間の生活に関わりがなければ、その土地の気配や自然は、荒廃というエネルギーを持ち、無秩序に好き放題生きている。それは、禍々しいほどに強い生命力を持っている。

歴史の教科書に載る偉人たちも、それはそれで数奇な人生でもあるし、時代の転換期にこの人あり!ということで、代々伝わっていく。戦国武将は、何千人、何万人のうちの1人だ。彼らはその時代のために、決められた豪華なポットの中で、良質な培養土と豊富な水によって、試練を越え、命をかけてなを残してきた。

それを支えた多くの平民たちがいるが、彼は名を持たず、いつの時代も同じ顔をして、ただ種のために、生きるために、50ー60年の人生を全うした。いわゆるmobと言われる存在だ。主役になれない存在を揶揄してこう言う。僕は、この言葉に嫌悪感を持つ。その言葉を多用する人ほど、自身のmob感を悲しんでいるように思えるからだ。

「我思う。故に我あり」とはデカルトの言葉。
茄子の苗は、僕が未来を想像し、楽しみにしているから、茄子であり続ける。愛情をかければ植物は育つ。
じゃ、我に思われないあの雑草たちは、なんなのか。
「意識しないものは、宇宙に存在してないことと同じ」とは誰が言ったのか。
駅前でビッグイシューを売る、物腰の柔らかいおじさんも、他者にとっては存在しないのも同じだったりする。意識外の存在。つまりおじさんは宇宙に存在しない。
それはあまりに無知なことだと思える。

机にある一枚の「紙」から雲を感じよ、とは禅の考えだが、当たり前のことなのだ。意識というのはどこまでも広がる。紙の背景には、木があり、育む雨があり、雲がある。
ビッグイシューのおじさんにも、両親がいて、友がいて、本の中の物語も繋がっている。500円でおじさんは何を買うのだろう。晩御飯か、晩酌か、ハーモニカを買うために貯めてるのか、今度聞いてみよう。そしたら、何億個という同じ形の500円玉に、物語がうまれるのだ。
10万円貯金の透明な貯金箱から、「早く出せ!」とこちらを睨んでいる500円玉とは違う。そう信じたいと思っている。それは、人間のエゴなのか。偽善なのか。

またもや三国志の話で申し訳ない。曹操に敗れ、絶望に暮れた馬超が、劉備玄徳のもとに降る。劉備は酒を勧め、その荒廃した眼を見つめながら、「酒をうまいと感じる日がきっと来るぞ、馬超」と声をかける。しかし馬超は「酒は酒の味しかしないでしょう」と答える。心が冷め切った、これ以上の返しはない。そして真実でもある。酒は酒。雑草は雑草。それをどう感じるのか。

そうだ。
僕は、明日をも知れないあの雑草たちに、大声で怒鳴るように真言を唱える「山伏」の姿を見てとったのかもしれない。
圧倒される何か。それは実にシンプルであり、誰からに決められた意味もなく、ただひたすらに天に伸びる。まるで厳格な修験者のように。方や我が庭の雑草なんて、保育園児が「ぞうさん」を謳っているようで、実に呑気なものだ。

生きることとは凄まじい。それを表現する小説家の1人が「宮本輝」かも知れない。凄まじさが昇華され、後には美しい余韻が残る。それぞれの居場所で、それぞれの役割を全うして、懸命に生き、潔く散る。本人がどう思おうが、命には命の輝きがある。
僕はそのことを、かつて肋小屋に住んでいた父の部屋の(静謐な気配)で感じ取ったのだ。

境内の空に浮遊する尺取り虫も、オラオラ系の雑草も、温室育ちの茄子の苗も、、何かを伝えようとしている。
「生きる」こと本質は、幾千万の姿を通してこそ、理解できるのかもしれない。
逆に、それほどの姿を見ないことには理解できない、自身の愚かさを嘆く。

おしまい

よろしければサポートお願いいいたします。こちらのサポートは、画家としての活動や創作の源として活用させていただきます。応援よろしくお願い致します。