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はじめての川釣り

イワナの塩焼き

人生はじめての川釣りでした。
親子そろって。

感動しました。
命の手応えを感じました。
禅の教えである一体感。
川がありイワナが育つ。
そのイワナを釣る。
イワナとわたしが繋がっる。
見守る家族も繋がっている。
一体となって、イワナを釣る。

最初は、義父が見本を見せる。
義母は餌をつける係。
息子は群れを見つけて教える。
僕は釣り糸を垂らす。
妻は記録を撮っている。
モネは見守っている。

イワナが釣れるたび、驚いて逃げる息子と、向かう愛犬。
飛び跳ねるイワナを、そっと握る。
針をゆっくり抜く。
動くイワナに語る。
イワナとより深く一体になる。
感触が伝わる。
口の中の美しさ。
深い血の赤。
呼吸。
しなる力。

このイワナを産み落とした親を感じる。
育んだ川やプランクトン。
四季や風や雨や森。
イワナは覚悟した。

森の野外レストランで焼く。
焼く火と一体となる。
塩と一体となる。
どれが欠けても成り立たない。
家族が集まるタイミング。
天候。
それぞれの体調。
ここを選んだ妻の眼力。
目的は一緒。
今日のスタッフさんのおかげ。
釣り針を丁寧に教えてくれた無愛想なおじさんも。

焼いて出てきたイワナ。
美しい。
息子もまじまじと見ていた。

そしてみんなで食べる。
ほくほくと柔らかく。
とてもシンプルで豊かな味。

イワナは、家族の一部になる。
そして足元でがっつく愛犬の一部にも。
家族に幸せを与えてくれたイワナ。
あの覚悟を決めたイワナの瞳も真っ白だ。
息子に教える。よく噛むんだよ。
不思議そうな顔で食べていた。

イワナの骨は、きっとこの森の一部になる。
僕らもこの森の一部だ。
そして、そのあとの旅行の過程も、僕はずっとあのイワナと共にいた。
イワナは僕の一部だから、この視界を体験している。
人間に生まれ変わった瞬間だ。

なんと豊かなことだろう。
条件がひとつとて欠けては成り立たない一日。
そして、すべてがそれぞれに共有し、依存し、一体となる体験。

「一枚の紙を見て、雲を見よ」とはティクナットハン禅師。

1匹のイワナの中には、雨があり、風や木々や虫や魚や川や岩や土が見え。
それを食す人間のさまざまな繋がり、親と子、祖父母と孫、そのまた親、もっと未来の子供達までつながっている。

竹馬を、見よう見まねで一生懸命練習してた、アジア圏タイとかベトナムの姉妹がいた。小学生だろうか。
僕は、竹馬の乗り方をカタコトの英語で教えてあげた。笑顔でさらに練習してたが、やはりうまく乗れなかった。
けれども、僕らは笑った。

1匹のイワナが、つなぐ縁。
海を越えた先祖同士でも、もっと昔は同じ兄弟。きっと、魚を食べて生きてきた。

すっかり老犬になったモネも、今日は自然に触れて元気だった。日常では味わえない体験だったことだろう。帰りの車内では爆睡だった。
1日の活力を与えてくれたイワナ。

このイワナに会わせてくれた妻。
その妻を産んでくれた両親。
そのまた両親、両親、両親の命が、この息子の小さな手に息づいている。

昔、小さい頃に釣り堀にいって、釣れないし退屈だし、嫌な思い出だった妻の記憶も、今回で変わったらしい。
過去の記憶にまで光を当てるのだ。このイワナ1匹によって。

イワナと語った。
「ありがとう。いただくね」

イワナは、日本語でもなく、人間の言葉でもなく、魚の言葉でもなく、ただ、圧倒的な自然の命の力で、僕に語りかけていた。

僕もまた、このイワナのために生きる。

イワナはもはや、イワナではなく。
僕はもはや、僕ではない。
しかし、やはりイワナはイワナであり、僕は僕なのだ。

これが、生きるでもなく、死ぬでもなく、ということなのだろう。
今回は彼はイワナで、僕は人間だっただけで、それ以外のすべてで繋がり、成り立っている。

すなわち、それこそが人間の苦しみを越えられるということにもつながると、釈迦は言われた。無常、無我の境地から、表面ではなく、真相、本質を観よと。
そこに、果たして苦しみや悲しみが、それ自体単独で存在しうるのか?と。

そして。あれから。
夜ご飯も丁寧に。
あの自然を感じながら。
人とのやりとりも丁寧に。
あのイワナを取り巻く歴史に背くことがないように。
つまり、僕自身の歴史に背くことがないように。

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