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あちこちの仏性
6年越しにやっと鑑賞できると思った「阿弥陀如来二十五菩薩来迎図」が、前半展示期間で終わってたという衝撃から立ち直れないまま、フラフラと東京国立博物館の周りを歩いていた。時間もなかったので、法隆寺館だけ足を運ぶ。
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久しぶりに訪れたが、ここはいい。建物も綺麗だし、常設展示の飛鳥時代の数ある仏像が、厳格な静けさのもと、整然と並んでいる。時間が止まったような気配に息ができなくなる。まるで、伊勢神宮の内宮の更に奥、御垣内参拝の時のようだ。「気が濃厚で深い」。慣れるまでに時間がかかるが、その気配に馴染んでくると、どんどん心が静まってくる。
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25年前の美大受験時代から変わらない。いや、もっと前から変わらないのであろう。
外に出ると、木々から木漏れ日がさしていた。まるでお釈迦様が入滅した菩提樹のよう。
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睡眠不足だったので電車でうたた寝しながら帰路に着く。そして帰り道のコンビニで、こんな光景に出会った。
小学生の男の子が、レジ横のマシンでフラッペ作ろうとしてた。しかしどうもわからない。するとレジスタッフの学生らしき青年が、身を乗り出してボタン操作を教えていた。
その青年の声色や仕草が、実に子供好きのように感じて、優しく丁寧に教えている。少年は緊張して指示通りに操作する。途中、フラッペの冷凍が硬すぎて、青年が懸命に砕いたり、、などの試行錯誤もありながら、僕はその一部始終を、微笑ましく見ていた。そのうち、横の金髪の女性スタッフに呼ばれて、事務的に会計は終わった。
コンビニから出ると、少年は美味しそうにフラッペを飲んでいた。どうせ近所のコンビニだし、怪しまれるまいと思って声をかけた。
「作るの大変そうだったね!うまいかい?」。
少年はいきなり中年男性に声をかけられて、一瞬驚いていたが、大きくうん!と頷いた。僕は満足して信号を渡った。
僕は、コンビニスタッフの青年をみながら、彼くらいの歳(20代前半)に何をしていたかなと思い出してみた。パッと浮かんだのが、町おこしの一環で、美大生たちでレンガ館にて展覧会をやったことだった。仲間たちは現代アートや抽象画、自分の表現の作品を飾っていた。しかし僕は、何もこのレンガ館で自分の世界を発表することはないなと思ってきた。町民にとって、訳のわからない現代アートが何になるのだろう。(これがアートだ!)と展示したところで、わかりやすい解説もないし、なんとも自己満足なもんだなと。
そこで、僕は何日か街を歩き、出会う町民たちの顔写真を撮らせてもらった。そのポートレートをモノクロにして、町の木材工場で出た廃材をカルタのようにカットして、木片の裏にポートレートを貼った。
100片の黒い木片カルタは円形に並べられている。一見すると黒い円形のオブジェだが、めくってみると顔写真がみれる。「自分のはどこだ?」と次々にめくっていくうちに、友達の顔、近所の知り合い、学校の先生、たばこ屋のおばあちゃんと見つけていく。自分の顔を見つけるまでに、「町の顔」と出会っていく。それが、円=縁に繋がっていく。
このコンセプトがどこまで伝わったのかはわからないが、とにかく子供たちが大喜びだった。嬉々とめくっては、「あ!〇〇だ!」と声をあげていた。まさに、あのフラッペ作りに緊張していた男の子のような子供たちが。
僕は彼らと遊びながら、町の顔を心に焼き付けた。今でも忘れない。
帰り道、(ああ、僕は昔から子供が本当に好きだった)と再確認した。
その後の育児。17時から21時まで付きっきりで、2人の子をみる。特に下の娘は力がついてきて、今までよりも二時間くらい寝付くのが遅くなった。その分、親の負担も大きくなる。長男も相変わらずで、ウルトラマンごっこの相手をし、いつものようにトイレのきばりタイムは、知らないスーパーヒーローの説明と、その倒し方を2人で考えた。
疲れ果ててイライラしてる妻を横目に、僕は終始、心が静かだった。大変だけど、ゆとりがあって、満ち足りた気分だった。
いつもなら、僕も一緒にイライラして、反省して、解放されたら睡眠を削ってまで、息抜きをする。それが最近、度がすぎてきたなと思っていたところだった。
しかし、僕はやっぱり子供が好きなんだと思ったことで、いろんなことが愛おしく思えたのかもしれない。いろいろ大変だが、細かいことだ。
コンビニスタッフの青年をみて、深く癒された。そして、こう思った。
「早来迎はいつか見れるだろうけど、青年と子供のやりとりはこの瞬間にしか出会えなかった。この心の温かさこそ、仏性(仏の心)なのではないだろうか。つまり、あの青年も、子供も、国宝の絵画ではなく、この世に実在する仏様なのだ・・」と。
何気ない日常のあちこちに仏性がある。それに気付けるのは、己の心、次第。だからやっぱり、もっと時間を作って、自分の望む時間、すなわち「心を豊かにする時間」を、これからも作っていきたいと思ったところだ。
いろいろ理由をつけてチャンスを逃した早来迎だが、今日この日の選択を、仕事ではなく美術館にしたことで、祝福されているかもなぁ・・と感じた。
さて、寝よう。明日も早い。
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