見出し画像

なぜ私はアートを見るのか。

いい作品を見ると
ドキッとする。

まだ知らぬ景色に出会った
冒険心のようなもので

それはしかしあくまで
人が作っていて、自然にできた景色とは違う、
身近な神聖さを内包する。

そこにはただ僕一人がいて欲しくて、
強いていえば時々君がいて欲しいと願わんほどで、

その作者でさえいて欲しくない、いらない、
言葉も説明も何もかも、
僕の中の小さな世界がそこにいられればいい、

と思う。

ここはどこだろうって思う、
まだ生まれる前にいた場所のような不思議さ、

しかしそこは何からも守られていて、
安心できる場所、

恐ろしささえ感じないほど、
未知の場所、

畏敬の念さえ感じないほど
尊く

しかし全てが
等しい、

触れているのに触れていない、触れていないのにずっと触れている、
そんな感覚、ずっとそんな感覚に包まれていて

あれだけ寂しがっていた僕は、
どこまでも独りなことを心底知るんだけれども、

それが寂しいことではないってわかってる。
生まれたての僕なのにもう知っている。

知りながらにして生まれてきた。
いや、居たんだ。ずっと、終わりも始まりもなく、

そこにいた。

そんな感覚。

秋の終わり、そんな感覚。
親戚が死んだ、そんな感覚。
新しく髪を切った、そんな感覚。

しばらくここに居ていいかい?
僕は概念に問いかける。答えはない。
そっと座る僕。

心地の良い風が吹く、しかし風なぞ吹いていない。

この世界の言葉で、
語弊を恐れずにいえば、死にたい。
そういう感覚。

このまま元いた無限へ、
包まれてゆきたい、またはゆけそうな感覚を得る。

その作品の前を去る時、
僕はいつも(あえて)時間の概念に囚われ直されて、やむなく去る。

そうでなければ僕は、あるいは肉体に囚われていなければ、
そのまま無限に戻る。

美しく乾くその河原の石に、
人の意思はない。

乾いた冬の街中に落とされた香水のような
君の髪からほろりと転げた、市販の洗髪剤の香りのような

僕は今人だから、人が恋しい、共感する、安心する、
きっと無機物に戻れば僕も、無機物にそう感じるのだろうな。

作品には何があるのかと考える、
技術と感性、つまり費やした時間と努力、その人の意思、経験を経て感じる感覚、、

それは人のいらないもの全てを削ぎ落としたもの、
本当の人間、その全て

純粋な存在に私は共感し
懐かしみまた、

新しむ。

そこに生と死、
あるいはその概念すら生まれる前

そして生まれまた消滅してゆく
その先を体感するのだろう。

それは時に文章で、音楽で、絵画で彫刻だ。
本当に求めていた感覚。

やはり人であることは少しだけの違和感で
我々命は少し歪なのだろうか。

作品の価値など分からない
それでもいい作品は分かる。

私にとっていい作品、それだけ

アートは本当の意味で自由だよって
意味がようやく分かった気がするけど

それを教えてくれたあの人は
それを本当に分かっていたのかな。

釈迦は仏教により世界の苦を説いたけど
私は作品によりあの世の楽を説こうと思う。

おそるおそる、100年もかけてでも、
元の世界へ、戻れるように。

やっと少しだけ、
寂しくなくなったような気がする、
少しだけ傾いた

静かにつく蛍光灯の下
肌寒いくらい薄い布団、曇りまだ更けもしないほどの夜。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?