見出し画像

どうして「音」が僕らを目醒めさせるのか?

☆ 新刊小説『KYOMU』 

*****

先週、安曇野リトリートの後に諏訪大社の秋宮へ行きました。

夕方16時45分くらいに着いて、しばらく境内でぼんやりしてたら、

17時ちょうどくらいに、神楽殿の中で宮司さんが太鼓を叩き始めた。

太鼓の音が、腹に響く。音って「バイブレーション」です。空気を震わせ、僕らの鼓膜だけでなく、全身を震わせる。

世界は「音」で溢れています。

先日も高尾山に行って来たけど(奥高尾)、鳥の声や、風がそよぎ、木々が揺れる音など、とにかく自然の中には癒しの音が溢れている。

これは安曇野。川のせせらぎ。

嵐山の空也の滝。滝の轟音。水は優しくもなれるし、荒々しくもなり、さまざまな音を放つ。

イラムカラプテの薪ストーブ

炎の音。薪が爆ぜる音。

今日はそんな「音」について。

音楽とは

現代社会の生活において、音楽の1番の目的は「娯楽」です。

作る側がそこにどんなに「アート(芸術)」と言っても、基本的には現代の音楽の在り方は娯楽として“消費”されてます。

では、そういう時代背景や環境的なことを抜いて、

「人間にとって音楽とは?」

なんでしょう?

まず一昔前までは、今のように気軽に音楽を聴ける時代ではありませんでした。だから音楽と言うものは、常に生演奏のリアルタイムでしか体験できないものでした。芸術とは、つねに「リアルタイム」で体験するものです。つまり、演奏者と聴き手は、一体となって芸術を共有していました。

レコードプレイヤーが発明されてから、音楽は録音されたものを、その機械さえあれば、どこでも自由に楽しめるようになりました。それは画期的な発明でしたが、芸術性という点では、一方通行になったということです。

そしてアナログレコードからCD、そして、今のようなデジタルストリーミング配信、どんどん便利になります。どんどんコンテンツが増え、コンテンツを味わうことが簡易化され、録音されたものに物足りない場合は、コンサートへ行く、という感じでしょう。

音楽は娯楽としての要素がますます強まり、最近のポップソングは曲の長さを短くなる傾向があり、ギター・ソロなどの演奏のパートは減り、キャッチーなサビ、インパクトあるわかりやすいメロディー、歌詞。それらが重視されていると思います。
もちろん、それはそれで立派な技術であり、さまざまな技法があります。

ポップカルチャーにおいてそのような事は何も悪いことではなくて、僕だって、そういう曲を作ってきたし、今でも作っています。

しかし、音楽が今のような娯楽産業に発展する前は、実は1部の人にしか許されない贅沢なものでした。

それは王族や貴族、そのような華やかな場においての道楽かもしれませんが、それはやはり芸術生と深く結びつき、洗礼をされたものでした。音楽を理解する素養のある人たちと、演奏家によるコラボレーションだったのだと思います。伝統芸能って、日本の「能」などもそうですが、それを理解する人たちがいないと成り立たないのです。

しかしそのルーツをもっと遡ると、やはりそこには宗教的な背景があって、儀式的なものだったと思います。今でも、あらゆる宗教的な行事に音は欠かせません。

冒頭に書いたのように、神社で太鼓を鳴らしたり、鈴を鳴らしたいお寺で金を鳴らしたり、他にも祝詞や、お経やお題目を唱えたり、マントラや打楽器、西洋の教会ならグレゴリオ聖歌を歌ったり。

スピリチュアルと音楽

音楽は、あらゆる民族、あらゆる歴史において、ルーツは神事でした。

宗教的儀式とはいわゆる“神とつながる行為”です。それを、このnoteでは「目醒め」と表現します。

ではどうして神とつながるために我々は音を必要としたのでしょうか?

我々が耳で聞こえる音は空気の振動です。空気の振動を鼓膜が振動して、その音声を脳が変換して、認識しています。

しかし、神事として音は、それらの空気の振動だけではないのです。むしろ、空気の振動よりも、耳では感知できない波動が、人智を超えた存在への鍵であり、ドアだったのでしょう。

深い瞑想状態にある時、「音が発生する以前の状態」、そんなような不思議な感覚にとらわれます。それはうまく説明できません。なぜならそこは時間を超越した感覚だからです。時間を超越したと言う事は、空間も超越した感覚です

音に身をゆだねていると、瞑想してる時と同じように、音楽の中に“耳に聞こえない音”を聞くことがあります。

音楽を聴いて、トランス状態のようになった経験を持つ人は多いし、疲れが取れたり、気持ちがスッキリしたり、悩んでいたことがどうでもよく感じられたり、そういう作用はたくさんあります。心身に対してさまざまな働きかけがあります。

それは音楽のメロディーとか歌詞とか、そういうことではないのです。

僕は音楽家を志すくらいですから、若い頃からそのような音楽の威力や、理屈では説明できない神秘は感じていました。僕にとっては、娯楽を超えたものだったのです。

やがて不思議な因果と巡り合わせで、瞑想家やスピリチュアルと呼ばれる情報を伝えるようになりましたが、自分が探求していく中で出会ったものの中には、音楽で感じたものを多く孕んでいました。

そして自分が探求しながら、精神的なもの「音」の相性というか、本質がとても似ていると確信しています。

これは知識ではなく、感性の世界なので、言葉では説明できませんし、受け取るセンスも必要になるかもしれません。しかし、受け取ってもらえるように工夫をするというのが、アーティストとしての力量でもあります。

音を使った癒しと瞑想

まだまだ一部ではありますが、「音」を使った癒し(サウンドヒーリング)や、音を使った瞑想(サウンドメディテーション)があり、徐々に認知を得ていると思います。

クリスタルボールの演奏で瞑想をしたり、ヒーリング効果を得られることを体験した人は多いと思います。

僕もティンシャやシンギングボールのような楽器を使うこともありますが、基本的には「声」です。人間の声にはたくさんの倍音が含まれており、それを多く発生させる唱法があり、さまざまな周波数を広範囲に作用させることが可能です。なんせ人間の意志が肉体を通して発して、人間の精神や肉体に働きかけるのですから。

時にそれは、クリスタルボールのようなキラキラした、誰が鼓膜で聴いても「綺麗な音」と呼ばれるものだけではないです。不協和音のような音も含みます。

僕の経験上、耳障りの良い音や、綺麗なメロディーやハーモニーだけではなく、さまざまな要素が含んでいる方が、心身への働きかけが大きいです。

実際、自然の音もそうです。川のせせらぎや、小鳥の囀りくらいならともかく、滝壺に水が落ちる音、渓谷を流れる濁流の轟音、荒ぶる風と、木々が激しく擦れ合う音、炎を巻き起こり風に揺れる音、雷鳴、動物の咆哮…。

自然は時に激しい音を響かせますが、その荒々しさと凪いだ時の穏やかな音、どちらもあるから浄化され、癒されるのです。

そのようにさまざまな“波”があるからこそ、時間と空間のこの世界にうねりが生じて、そのうねりが人の身体や心にある不調和な部分と共鳴しあったり、波が相殺されたりしながら、チューニング(調律)し、ゆるなかな時間経過と共に調和へ導きます。

音楽だって、不協和音やさまざまな楽器の音によって、調和が生まれます。

さて、そんなわけで、定期的に行っていますが、アコースティックライブを行います。

前回は、東京と大阪、パーカッションやネイティブフルート、ピアノなどとコラボしましたが、

今回は一人の「生歌」「生声」のアコースティックです。

瞑想的な音楽や歌を奏で、心身を調律したいと思います。倍音を体感、体験するようなちょっとした遊びも踏まえつつ、元気になる歌や、心に沁みるバラードを歌います。

サウンド・バス(音浴)を体感しに、ぜひ遊びに来てください。

☆ 響き、音色 生音アコースティックLIVE。


6月25日(日)東京 16時30分〜 詳細、お申し込みはこちら

7月2日(日)大阪 16時30分〜 詳細、お申し込みはこちら

新曲 「神様の声」

☆ イベント、ワークショップ

☆ 五感を磨く山歩さんぽ「歩く、御岳山」 6月14日(水) 東京都青梅市 残1名

つながるからだ、つながる心 ー 失われた日本人の体を取り戻す ー 6月18日(日)東京 ⇨満席

つながるからだ、つながる心 ー 失われた日本人の体を取り戻す ー 7月1日(土)大阪 残3名

☆ Youtubeチャンネル

☆ サークル「探求クラブ」(noteメンバーシップ)

☆ Youtube アーティスト・チャンネル 

サポートという「応援」。共感したり、感動したり、気づきを得たりした気持ちを、ぜひ応援へ!このサポートで、ケンスケの新たな活動へと繋げてまいります。よろしくお願いします。