息が合う
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息が合う
先日、面白いというか、興味深い光景を見た。
僕は京都の駅近くを歩いていた。ホテルを出て、お気に入りのカフェに途中だった。
少し前を、外国人のカップルが歩いていた。夫婦というより、まだ若い「恋人同士」という様子だけど、もちろんなんとなくそう思ったたけで、若い夫婦かもしれない。
大きなスーツケースはホテルかロッカーに預けて、身軽になって街を歩いている、そんな様子を伺えた。
歩く方向も、速度も同じくらいで、僕と彼らとの距離は終始7,8m前後という距離感で、僕は何の気なしに、二人の後ろ姿を見ながら歩いていた。
二人は楽しげに会話をしていたが、途中でどちらかがスマートフォンを取り出し、それを見ながら歩き、するともう一人も同じように、歩きスマホを始める。何か調べ物でもしているのかもしれない。
おや? と思ったのは、彼らの歩調。しばらくすると、彼らの歩調が合い始めたのだ。
背の高い女性とはいえ、身長差があるし、当然足の長さは違う。普通に、二人の人間が歩いていたら、足の長さ、歩幅、速度など、普通はバラバラだ。現に、さっきまで普通の二人組、まして男女だ。歩調はランダムだった。
しかし、二人の歩調がどういわけか、ピッタリと重なった。
メトロノームの実験をご存知だろうか? 一斉にスタートさせた大量のメトロノームが、全部がきっちりとリズムを合わせるという、共振の実験。
メトロノームの共振より時間は要さなかった。すぐに二人の歩調はぴたりと合い、北朝鮮の軍隊の行進を思わせるくらいの完璧な歩調となった。息がぴったり、というか、完全なシンクロニシティだと感じるほどの見事な動き。
さらに見てて面白いのが、当の二人はスマホに目を落としていて、そのことにまったく気づいていない。逆に「合わせよう」なんて思ってやったとしたら、下手くそな二人三脚のように、むしろぎこちなくなったり、ここまで完全なユニゾンを行うことはできないような気がする。
僕は二人の見事な歩調に魅せられ、後ろを歩いた。まもなくカフェの前を通りかかるけど、僕はその歩みが面白いので、しばらく着いていこうと思った。
しかし、女性が先にスマホをポシェットにしまい、男性に話しかけ、そこで男性はスマホは胸の前に構えていたが、女性に答える。
二人はまた会話を始めた。仲睦まじそうに、楽しげに、若い男女のカップルとして、とても微笑ましい光景。
しかしあれよあれよで、歩調はバラバラになった。そして先ほどと同様に、別々の歩幅というか、ランダムな調子で道を進んだ。
ちょうどカフェの前に差し掛かったで、僕はそこで彼らの後ろから離れ、店に入った。二人は相変わらずバラバラの歩調で、とても楽しそうだった。
ただ、それだけだ。なんてことはない。目の前を二人の人間が歩いていて、歩調が重なったのを目撃した。それだけ。そこで僕は何か情報を得たとか、ご利益を得たとか、まして損失を被ったとか、何も得ても失ってもいない。不快になってもないし、興味深いと思ったけど、上機嫌になったわけでもない。
そう、興味深いと思った。面白いなと思った。
でも、そこで自分の思考を掘り下げると、それはこの世界に生きるということに対して、少し悲しくて、同時に少し喜びも感じれた。
一体僕は、何が興味深かったのか?
あなたはまず、この出来事を読んでどう思う?
僕の考えや、僕の意見を聞く前に、あなた意見を聞きたいな(聞けないが)。
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僕はある日の「雪かき」を思い出した。雪かき、スコップで、雪を各作業。北国や雪国では、冬になると当たり前の日課だ。
僕は北海道生まれなので、冬場は毎日雪かきをした。シーズン中何度か屋根に上がり雪下ろしをして、それをまたどこかに積み上げるとかもした。
なんなら夜遅くに父から「除雪車が来たぞ!」と、除雪車が運んでくれる場所まで家の前の雪を運んだり、「屋根がつぶれるかも」と、大雪の夜に屋根に上がって雪下ろしをしたりもした。
はっきり言って、雪かきは嫌だった。
もちろん好き、という人は少ないだろうけど、重労働だし、雪かきのおかげで僕はけっこう鍛えられたが、とにかく嫌だった。だから雪国の暮らしはもうごめんだ!と思った。
しかし大人になってから長野県に移住して、そこはたまにしか雪が降らない地区だったが、そこで僕のスコップ捌きはかなり達人級だと知った。
父の教え方がうまかったのだと思う。父もかなり雪かきはうまかった。
一緒に雪かきをしていると、コンビネーションが必要になる。AからBへ雪を投げ、BからCへ雪を送る。そんな作業が幾度となくあった。
時々、ふと気づく。完全なコンビネーションが起こり、驚くくらい仕事が捗ることがある。しかも、疲労感も少ない。何度か、父との雪かきで体験した。息が合う、というそんな言葉を超えた、阿吽の呼吸。
それはいつも「せーの」とか「それ、次、はい、次」とか、そういう言葉の掛け合いがない時に起こる。
逆に言葉の掛け合いや、どちかの“仕切り”があると、その絶妙なコンビネーションは起きないというのを、子供の頃からの経験でよく知っている。声がけは、確かに“とっかかり”になるし、息の合わない同士が息を合わせるために必要だ。
でも、本当に「息が合う」ときは、そんなものは必要ない。それに頼ると、声かげで到達できる領“域”にしか、届かないのだ。
音楽のセッションも同じだ。音楽なんて、音の渦の中でそんな声がけなんてできないし、アイコンタクトもできない時もある。だけど、合わせれるのがプロであるとはいえ、プロ同士でそんな“お約束”を超えた時に、最高のセッションが生まれる。
話を戻す。
目の前を軍隊の行進張りに完璧に歩く二人を見て、それを思い出した。
ポイントは、スマホだ思った。
いや、僕はスマホ脳に対して危惧をしているので、スマホに依存したり、まして歩きスマホは推奨しない。
そういうことではなくて、彼らはスマホに意識を取られたから、二人で会話によるコミュニケーションをとる必要がなくなり、二人で合わせにいく意識が無くなった。
だから、そこで何かが合った。
まず二人は同じ方向へ向かっていた。そして、多分だけど、スマホで調べ物をしていたような気がする。そして、二人で同じ内容を調べたのでは?と推測する。なぜならその後、スマホの画面を見せ合っていたからだ。
二人で合わせようとはしないけど、同じ目的を持っていた。それがあの奇跡の行進を生んだと、僕は思った。合わせようとせずとも、同じ方向へ、同じ石を持つ二人がいて、それがぴったりとシンクロした。
上に「お約束」という表現をしたけど、言葉のコミュニケーションって、声がけもそうだけど、すべて「お約束」だ。
だって、この言葉という性質がそうなってる。
例えば“りんご”という言葉は、りんごを「指し示す」音だけど、それがお互いの「お約束」ということだ。
でも、りんごのような名詞ならわかりやすいけど、「美しい」とか「おいしくない」などの形容詞や、「痛い」とか「気持ち良い」という感覚を示す言葉、「集中」とか「高揚感」という特定の思考や心理状態を示す言葉。
こうなると解釈は十人十色で、ざっくりとした意味は“お約束”だけど、人によってその深度やニュアンスは相当変わる。
もちろん名詞でも、りんごの話くらいなら、
「あれ?紅玉だったの?僕はフジの話だった」
くらいで、すぐに言語説明がしやすいし、さほど重要な事柄に発展しないと思うんだけど、感覚や形容詞、心理状態だと、ずれたままでもある程度話は進めるけど、どっかずれたまますすみ、気がつくとまったく意見が相違してしまって、後戻りできなくなることもある。
言葉の限界。でも、言葉を使わないと僕らはコミュニケーションが取れない。そして、言葉で“お約束”をうまくこなせたとしても、お約束の世界でしかない。
二人の奇跡的な行進は、それは神秘的とも呼べる動作だった。人間にはこういうことがたまに起こるし、それは最高に美しかったり、力強いものを表現する。
合わせようとしないけど、同じ方向へ向かう。だから「息が合う」。そんな関係とか、そんなコラボレーションが起こる頻度が上がれば上がるほど、人生って素晴らしいものになる、そう思いませんか?
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