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17歳の少年。

今回は、自伝的ノンフィクション小説です。少し長いです。自分自身の懺悔のような気持ちもあります。


高校生の頃。日曜日の日中は大抵、俺は母の入院する病院にいた。その病院は地元から車で1時間ほどかかる、札幌市の外れにある総合病院だった。母の病気が難病なので、地元の病院ではなく、その札幌の病院に入院するようになった。

日曜日はいつも憂鬱だった。遊びたい盛りの高校生が、毎週、陰気臭い病院で、半日過ごさねばならいのだ。

残念ながら、当時の俺は“母親想いの息子”、なんていう少年とは程遠かった。持て余したエネルギーを発散させるべく、毎日夢中になれるような面白いことを探し回っていた。

土曜の夜は毎週、友人たちとバカ騒ぎをして、朝まで繁華街をほっつき回り、味もわからない酒を飲み、ナンパだの合コンだの、バイクを乗り回したり、ケンカ騒ぎだの起こしては、大袈裟に笑い合い、いつも大声で怒鳴り合っていた。そうやって騒いでいないと、逆に不安になった。

こんなことを書くと、今の若い人には想像できないかもしれない。しかし、日本にはかつてそういう時代があったのだ。そんな十代の若者がたくさんいたのだ。もちろん古き良き…、なんて言うつもりはさらさらないが、俺はあの青春時代を懐かしく思うし、俺はそんな暴力的で、退廃的な青春時代を体験出来て、とても良かったと思っている。

土曜の夜がそんな感じでジェットコースターのように過ごすおかげで、当然日曜日は昼過ぎまでぐっすり寝ていたいところだが、親父に朝から叩き起こされ、車に乗って病院へ向かうのがお決まりのパターンだった。

病院は、嫌いだった。おそらく、この“病院嫌い”というのは、一般的な意味合いの病院嫌い、というのとはちょっと違う。

なぜなら、俺にとって「病院」というキーワードでパッと思いつくのは、治療とか、内科の待合室とか、主治医との診察室や薬局ではなくて、“入院病棟”なのだ。

そこは薬品と消毒液と、病院食と、排泄物と、病人が発する臭いが入り混じり、色んな想いが交錯する集団生活の場。中学生の頃から、母が入退院を繰り返すようになってから、そこで過ごした時間は多かった。

当時の、一番多感だった時期のオレは、病棟の中では自分の感情とか、感性に、いつも蓋をしていないと、耐えきれない何かがあった。そこには、無遠慮で心の奥まで入り込む魔物のようなものがいたのかもしれない。

だからオレにとって“病院”とは、10代の「今」を全力で楽しみ、輝きを放っていた“光”とは、正反対の“影”の部分としての存在だった。

バンドやってステージの上でギターをかき鳴らして歌を歌ったり、怖いもの知らずではしゃぎ回っていたが、母の病気とか家の借金とか、いつもそういうものが付きまとっていたのだ。

その影はどこへ行ってもついてくるのだ。俺が影を振り切ろうと、強い光に向かって逃げれば逃げるほど、影はぴったりと背中に張り付き、存在感を増すのだ。

病院では色んな思い出がある。入院病棟は、ドラマの宝庫だ。まして、外科的な「怪我」で短期間の入院患者たちと違い、母は脳神経外科という、極めて複雑な事情と、のっぴきならない病状を抱えている人たちと、その家族。

色んな人たちを見た。色んなやるせなさや、色んな人の痛みを見てきた。

“人はどうすれば幸せになれるのか?”

オレはずっと、自分や自分の家族を取り巻くドラマはもちろん、それらの人々のドラマを垣間見る事で、苦悩し続けることになり、それが「心」や「精神」を知り、学ぶ大きなきっかけになった。小説家のスティーブン・キングも、

「もしも神がいるのなら、どうしてこんなにも酷く悲しいことが世界には溢れているのか?」

と、そんな疑問を持ち、小説を書いていると、エッセイでそんな事を言っていたが、似たような心境は常にあった。「神」や「魂」の存在についても、深く深く、思いを巡らせ、人智を超えた存在に挑むように生きていた。

17歳、高校二年生の頃だった。今回はその話をしたい。

それは、オレの母に対する憎しみや歪んだ感情や…、いや、もっと簡単に言うと、オレ自身の未熟さや、心の狭さのせいで、ひょっとしたら、一人の人間を、とても深く傷つけてしまったかもしれないという、苦い思い出だ…。


17歳の素行の悪い少年が、母親と話すことなんてあるだろうか?いや、ない。母親と話し合うことなどない。それは健全な男子高校生だ。いくら母親が病気で、週に一度しか会えないとしても、健全な17歳の少年が、母親と、何時間も何を話せばよいというのか?

だから病院へ行っても、俺は特に何も話すことなどなかった。とにかく退屈極まりない、苦痛と苛立ちを感じる、拷問のような時間だった。しかし母は、そんなオレにお構いなしに、ずっとおしゃべりを続ける。手足は不自由だったが、口だけは達者だったのだ。

今日は隣の病室の誰それがどうのこうの、お見舞いに来た誰がどうのこうの、先生がどうのこうの、テレビがどうのこうの…。

いわゆる“世間話”だ。元気だった頃は、毎日のように、友人とあって何時間もおしゃべりしたり、長電話したり、一日中喋っているような女性だった。

それに対して俺は、「ああ…」と「うん」しか言わない。

しかし、母は一週間分のおしゃべりが溜まっているから、ずっと喋る。

自分のことを話している分にはまだマシだが、ひたすら自分の話を終えると、今度は根掘り葉掘り、俺のことを訊いて来る。

学校はちゃんと行っているか?成績はどうだ?進路はどうるのか?彼女はできたか?ご飯はちゃんと食べているか?掃除はしているか?

俺は「さあ…」「別に…」「どっちでもいい」、という、三つくらいのバリエーションしか言葉を言わない。

時折、そんな俺に対して母は悲しそうな顔をするが、それでも俺は、話すことなどなかった。せめて、こうして相槌を打つだけでも、最低限の「遠い病院で寂しい想いをしている母」への務めを果たしていた。

しかし、それは実は、当時俺なりの精一杯の“反抗”だった。なぜなら俺は母を憎んでいたのだ。

オレが中学生の頃。母が体調を崩した。それをきっかけに、ひそかに多額の借金をしてたことが発覚し、我が家は突然、貧乏に叩き落とされた。だが父にしろ、オレにしろ、その原因を作った母を責めたくても、母はその攻撃を見事に回避するかのように、原因不明の神経病で入院し、その後は介護が必要になる。

どうして母がそんなことをしたのか?今思うと、母は完全に『心の病』だったのだと思うし、オレの魂を磨くための役割でしかないとわかっているが、もちろん当時のオレにはそんなことを考えれる余裕はなく、ただただ辛かった。給食のパンを持ち帰ったり、少量の食事で我慢したり、服や靴が買えなかったり。

そんな憎んでも憎みきれない母だが、病人という「弱者」だった。しかしそれは同時に、『難病の人』という、社会的な『強者』であった。そして母は容赦無く、そのアドバンテージを最大限に利用して、

「お母さんのことがどうなってもいいっていうの!!」
「私はあなたに助けてもらわないわと生きていけないよ!」
「私だって好きでこんな病気になったわけじゃないのよ!」

と、俺たちに家族に介護を要求したし、その務めを果たさないと、いじけて恨み言を言ったり、ヒステリックに叫んだりした。

オレはいつも、怒りと憎しみと、義務と責務と、それでも母親への愛情と、それらがいつも交錯し、身が引き裂かれそうだった。

そんな“病気の母”に対して、無視をしたり、口汚く罵るとか、文句を言うことはなかった。

何かの拍子で、こちらが語気を荒く言い返したり、母が本気で傷つくような事を言ったりしようするものなら、母はショックで呼吸困難になり、救急車を呼ぶ騒ぎになったり、病院でも鎮静剤を打つ羽目になる。そんなことが何度もあった。

その度、俺は親父や医者からこう言われる。

「お母さんのためにも、しっかりしなさい」
「かわいそうなお母さんに、優しくしてあげなさい」

俺は、反抗期に反抗すらできなかった。強者の母に、オレは完全に屈していた。だからその分、外の世界で鬱憤を晴らすように、バンドやったり、ナンパばかりして、バランスを取っていたのだろう。

**

そんないつもの憂鬱なある日曜日の病院のレクレーション室という、テレビがあり、テーブルの並ぶ共同スペースで、車椅子に乗った母は俺にこう言った。

「〇〇くんと、友達になってあげてね」

名前は、忘れた。覚えていないし、覚える気もなかった。

その〇〇君とやらは、母と同じ病棟に、最近入院してきた、17歳の少年だった。「多発性硬化症」という、母と同じ病名がつけられていた。

その病棟に入院するということ…。その意味は、それだけでわかる。母もそうだし、他の入院患者たち皆、重い神経の病気で、手足が動かないとか、喋れないとか、表情が動かないとか…。いつ治るかわからない、もしくは治る見込みのない、とにかく、“そういう人たち”の病棟。

そこに、自分と同じ、17歳の少年が、入院していた。その事実には、いささかショックだった。母でさえ、その病棟では若い方だったのに、俺と同じ歳で…。

「あなた、尾崎豊好きでしょ?〇〇くんも、尾崎が好きなのよ?」

と、母は言う。俺は、「別に…」と答える。

尾崎豊は、正確にいうと「好きだった」だ。中学生の頃に夢中になった。しかし高校生になってからは、日本人の曲を聴くのが「ダサい」と思っていたので、俺は音楽は洋楽しか聴かなくなっていた。

「もう、尾崎なんて聴いてないよ…」

と俺は反論した。尾崎が嫌いになったわけではない。ただ、自分が何かにカテゴライズされることに(特に母親に)、いつも過敏になっていた。

しかし、オレの反論は耳に入らない。いや、そもそも母は人の話をあまり聞かないタイプだ。

「あ、ちょうど来たわ!〇〇くん!前に話したうちの息子よ?同じ歳だから友達になってね!」

と、直接紹介された。薄い緑色のパジャマ姿で、メガネをかけていた。いかにも真面目そうなヤツだと思った。

残念ながら、彼に同情こそすれど、全く仲良くなろうと思わなかった。

俺は基本的に、真面目そうなヤツは嫌いだった。自分もそうだし、普段つるんでる仲間たちも、見るからにひと癖ありそうな、目つきの悪い連中だったので、俺は基本的にそういう真面目そうな同世代の男を見ると、勝手に見下す悪癖があった。不良には不良のプライドやステータスのようなものがあったのだ。

「こんにちは。〇〇です。大島さんには大変お世話になってます」

と、そいつは礼儀正しく言った。はっきり言って、どこが悪い病気かわからなかった。声もハキハキしていたし、姿勢も普通だった。目は大きく見開かれ、目力があった。そして何より、やけに笑顔だった。

「ああ…」

としか、俺は言わなかった。俺はさわやかな笑顔の男が嫌いだった。なに、ただ単純に、ひねくれていたし、世の中すべてを斜に構えて見ていたのだ…。

そもそも俺が生きていた世界が「初対面はナメられたらおしまいだ」という考え方が浸透していた。今考えるとかなりアホな論理で生きていた。

不良少年同士の初対面は、互いに睨みを利かせて、牽制し合い、距離を詰めるようにコミュニケーションを取るのが普通だったので、そんな風に接してこられて、オレは逆に戸惑った。

ただその少年が、純粋にオレと友達になりたがっている、というのはひしひしと伝わった。とても爽やかに、真っ直ぐに、その想いは伝わった。

それもそうだろう。母の情報によれば(オレが尋ねたわけではない。向こうから勝手に話すのだ)彼は中学生の頃から学校は休み休みで、高校生になってから病気が悪化し、ほとんど行っていない。

そもそも、彼の家は帯広だか旭川だか覚えていないが、どちらにしろかなり遠い場所から来ていた。だから病院には友達のお見舞いはおろか、両親もそんなに頻繁に来れない。それほど、その病気を扱う病院が少なかったのだ。

真面目そうな、苦手なタイプだとは言え、その気持ちに応えてあげたいと思う、“優しい俺”もいたが、俺はそいつを極力無視した。そこで仲良くすることは、何かに「負け」るような気がした。

不良としてプライド、ではなかった。それはすべて“母への反抗”だったと、今になってわかる。

母が望むことをするということは、母に屈することだった。これ以上、母に屈したくはなかった。母の望みを叶えたくなかった。母から、オレの何一つとして、奪われたくなかった。

しかし当時は、自分のその気持ちをハッキリと認識していたわけではなく、ただモヤモヤするだけで、とにかく彼が目の前にいると居心地悪かった。

最初に紹介された時は、特に話すことなく、俺はすぐに母のシーツやらパジャマや下着やらの洗濯物を取り込みに屋上へ行って逃れた。それは、毎回の仕事のようなものだったので、良い口実を見つけられた。

そのあとは、母の食べる果物の準備とか、冷蔵庫の整理とか、そういう作業をしてから、待合室の漫画コーナーへ行き、漫画を適当に読んで過ごした。病院は最悪だが、唯一俺が安らげる場所が、共同スペースの裏にある漫画コーナーだ。色んな見舞客や入院患者が置いていくのだろう。色んな本がそこには置いてあったが、漫画は不揃いだった。

父が買い物から戻り、しばらくして、午後になってから、昼飯は大抵、病院の食堂で、一番安いうどんとかカレーを食べた。美味いと思ったことはほとんどないが、食っていると気が紛れた。

翌週の朝も、同じような1日だった。遊び疲れた週末。朝、親父が呼びに来る。オレが行くのを渋ったり、めんどくさがると、伝家の宝刀、

「お母さんのためなんだぞ」

と、親父は言う。

「お母さん、お前のことを待っているんだ」

兄がいたが、兄はオレと違い、容赦無く「疲れてるから行かない」と、ハッキリ言うし、嫌なことはテコでも動かないタイプで、父も母も兄にはその辺のことは諦めていた。子供の頃から、ずっとそうだった。

だから、必然的に「良い子」のオレに、全部しわ寄せが来るし、母は「良い子」のオレを、溺愛していた。

病気で、“かわいそうなお母さん”のために、結局俺は、いつもいつも、週末には病院。兄のように、さっさと『いい子をやめて』、逆らったり、好き勝手に振る舞うタイミングを失い、ここでオレまで母を邪険にしたら、母の病気は悪化する。その罪悪感に耐え切れるほど、強くはなれなかった。

しかし、例の少年が現れてから、いつも以上に病院に行くのが気が重たかった。なぜだかずっと、あの少年の事が頭から離れなかったのだ。

それから、会わないようにしていても、そういうわけにもいかず、必ずそいつはやって来て、話しかけてきた。

彼から、『嫌な感じ』は、実はまったくない。本当に、素直そうな、爽やかな少年だった。しかも、それでいて空気は読めるヤツだった。俺が煙たそうにしているので、無理に立ち入って来ないし、話しかけ方も、距離を取りながら、自然な雰囲気だった。頭が良い少年だったのだろう。

少し意外だったのが、その少年はいかにも真面目そうで、学校もあまり行ってないから友達もいるかどうかわからないが、タバコを吸う少年だった。まあ、当時の田舎の高校生の喫煙率は、現代では信じられないかもしれないが、かなりの数だったから、珍しくもないのかもしれないが…。

入院病棟にも、喫煙所が普通にあり、彼はよく喫煙所で、他の入院患者のオッサンとか、うちの親父とかと、親しげに喋っていた。

「〇〇くんは、本当にしっかりしている」

と、大人たちから評判だった。

「でも、かわいそうに…」

と、当然、皆から同情もされていた。俺だって同情してた。17歳だ。どうして彼にそんな重荷を背負わせるのだ?彼が何か悪いことをしたのか?多分、あいつはいいヤツだ。うちの母親のように、家族に内緒で借金するようなヤツじゃない。絶対に、いいヤツだ。それなのに、なぜこんな難しい病気になってしまう?

そして、そんな病気なのに、あいつはいつも明るい。笑顔を絶やさない。もしオレだったら、毎日ガラスを叩き壊すくらいに暴れるのでは?あいつはひねくれたり、グレることもなく、一人の時はいつも穏やかな顔でウォークマン片手に、イヤホンを耳に挿し、くつろいでいたし、人といる時は爽やかな笑顔で話す。

今になっても思う。彼は、なんて強い少年だったのだろうと。オレは自分の環境にいじけて、全部を母とか周りの環境のせいにして、完全にスネて、捻くれて、グレていた。

しかし、彼に対してそういう評価し、尊敬の念すら感じていたが、それでも、オレは彼と仲良くできなかった。

「〇〇くんと話した?」
「〇〇くん、とってもいい子よ?」
「〇〇くん、友達が会いに来れないから、友達になってあげてね?」

と、母に毎週のように言われるたびに、オレはますます頑なになった。

だから極力、彼を避けていた。向こうもいい加減、オレに話しかけては来なくなった。母親だけが、なんとかして俺を、彼の友達にさせようとしていた。

「〇〇くんはとても明るい子なのよ?」

「ああ…」

「尾崎豊が好きで、ウォークマンでよく聴いてるのよ?」

「そう…」

そんな風に、1ヶ月、2ヶ月と、過ぎて行った。

しかしある時、ついに喫煙所で鉢合わせた。

喫煙所にはオレが後に入った。よそ見をしていたせいで、彼がすでに中にいることに気づかなかったのだ。もしいるとわかっていたら、入らなかっただろう。

「あ」

お互い、なんとなく気まずい空気を感じた。彼のタバコは、まだ火をつけたばかりだった。イヤホンは耳から外し、首にかかっていた。

オレは今さら露骨に引き返す事もできず、中に入り、少し離れた場所でタバコを取り出し、火をつけた。彼の方を見ないようにして、煙を吸い込む。

「あ、ラッキーストライク…」

彼が俺を見てふいに言った。

「ん?」

と、俺もつい、そちらを見てしまう。目が合う。

「僕も、ラッキー吸っているんです」

彼はポケットから、オレが吸っていたタバコと同じ銘柄のタバコを取り出した。赤い日の丸。ラッキーストライク。噂では日本に原爆を落としたことを揶揄したデザインだとか聞いたことがあるが、そんなことはどうでもよく、ただ、当時はずっとそのタバコを吸っていた。

「…ああ。そうなんだ」

オレはそう呟いた。しかし、それ以上なんと言っていいかわからず、タバコを吹かす。

「…音楽、やっているんですよね?」

ラッキーストライクで共通点があったのが嬉しそうだった。だから、急に話しかけてきた。メガネ越しに、ギョロっとした大きな目が、こちらに純心そうな視線を投げかける。

「…ああ」

と、オレは無愛想に答える。

「尾崎豊が好きって、お母さんから聴きました。僕も尾崎の歌は好きなんですよ」

なぜだか、オレは急にイラッと来た。母のことを口に出したせいかもしれない。とにかく、無性に腹が立って、とっさにこう言った。

「…っせえよ」

話しかけんな!という、露骨な表情をした。何の落ち度もない、無防備な、純粋な、病気の少年に対して。

「尾崎なんて好きじゃねえよ!」

そして、聞こえるように大きな舌打ちをした。

「あ…ご、ごめん」

そいつが、戸惑った顔をして謝った。

すでにその時点で、オレは後悔とか、罪悪感に胸が苦しかった。

(お前はなんも悪くない。お前はかわいそうなやつだ。お前はなにひとつ悪くない)

そうわかっていたが、オレは、彼と親しくすることはできなかった。

オレから貴重な青春の時間を奪い続ける母への、見当違いな反抗。とにかく、これ以上母の言いなりになることだけは避けたかったのだ。当時のオレはそうやって母に対して怒りと復讐の矛先を、心の奥で握りしめていないと、自分を保てなかった。

オレは火をつけたばかりのタバコをもみ消し、一度も彼の方を見ることなく、すぐに喫煙所を出た。八つ当たりだと、自覚していた。なぜなら、彼はとても“いいヤツ”だった。どう考えても、オレが悪い…。

気がかりだったのは、彼が今の出来事を、母に話したら、母を傷つけるかもしれない、ということだった。母が傷つく、というのは、それでまた病状が悪化したりしたら、またオレが責められるのでは?と、当時の俺はそんな保身を考えてばかりだった。そんな自分が嫌になり、ますます憂鬱になった。

***

翌週の日曜日は、病院に行かなかった。何か、親父に用事あったのだと思う。

たまに、そういう時があって、そんな日はオレはとても晴れ晴れした気分になり、昼まで布団でゴロゴロしていられたし、午後は友人と遊ぶ約束もできた。だがその日は、彼の事を考えると気が重たかった。

そして次の週。重い気分をひきずったまま、病院へ行った。

彼が、母に何か不都合な事を言ったようには思えなかった。母の調子は良さそうだった。病気が治る、ということはないが、それでも調子の良い時期があり、そのまま順調に良い経過が続くと、退院となりそうだと、母は喜んでいた。

それはそれで、オレはげんなりした。日曜日の病院よりも、毎日母が家にいる方が、俺にとってははるかに辛かった。なぜなら、介護が必要だからだ。食事、ベットの上げ下ろし、洗面、下の世話。ホールへルパーだけで追いつくはずはなく、家族は介護に追われる。

だから、オレのせいで母の具合が悪くなると、オレは罪悪感に苦しむが、母の調子が良いなら良いで、オレは複雑になる。つまり、どうあがいても、当時の俺に、母に対して“幸せな選択”はなかった。

その日は一度も、彼を見かけなかった。普段は同じ入院病棟なので、どっかしらで、彼を見かけるのだが…。とにかく、気まずかったので、顔を見ないでほっとして、オレはその日、午後になって病院を出た。

翌週も、また彼に会わなかった。さすがに2週連続姿を見ないと気になった。しかし、誰に尋ねることもできなかった。下手に母に尋ねても、「あら?〇〇くんと友達になったのね?」と思われてもシャクだ。

だが、もしも彼に会ったら、少しだけ、ほんの少しだけ、話をしようと、オレは密かに思っていた。この前はさすがに悪いことをしたと、反省してた。だから今度は「おうっ」と、声をかけて、謝ることはできなくても、普通の態度を取る事くらいはしようと、心に決めていたのだ。

しかし、午後になって母の口から、思わぬ話を聞かせられた。

その時は父も一緒にいた。オレは母の横で、果物ナイフでりんごを剥いていた。

「〇〇くん…。すごく悪くてね…。また別の、大きな病院に行ったの…」

オレは、その言葉を聞いた途端、動揺と驚きで息が詰まった。絶句…、というやつだ言葉が出ない。りんごを持った手が止まる。

「そうなのか?あんなに元気そうだったのに」

親父も驚いていた。親父もよく彼と話していたからだ。彼は大抵の大人たちから好かれていた。

母は続ける。

「先々週くらいに、急にひどくなってね。ほら、この病気、浮き沈みあるから…。それまでは新しい薬が効いてたから、ずっと調子良かったんだけどね…」

確かに、母の病状も、一定のペースを保っていたと思うと、何かの拍子で(それは主に心因的なことがとても多かった)、ガクンと病状を悪化させ、そしてまたその状態をしばらく維持し、またどこかでガクンと悪化し…。そういう病気だったのかもしれない。

「17歳の男の子よ?どうしてかしらね…。最後はちゃんと挨拶もできなかったわ…。ご両親が来てたけど、辛そうで、見てられなかった…」

心臓が、胸の中で大きな音を立てて早く鳴った。口から飛び出るほど、大きく動いた。そして息が苦しくなった。ナイフを持っている手が震えた…。

「かわいそうにな…。一体、なんでそんな目に合うんだろうな…」

父がそう言って、深いため息をつく。

「ほんと、かわいそう…。あの子がいるだけで、みんな明るい気持ちになれたのにね。だから、レクレーション室行っても、なんだか暗くてね…」

母は、ベッドの上で、涙ぐんでいた。

「ちょっと、トイレ行ってくる」

りんごは、8割型むき終わっていたので、タッパに入ったりんごを母の手元に起き、オレは病室を出た。足元がふらついた。

心臓は、まだ大きく音を立てて鳴っていた。肋骨を打ち破って飛び出るのではないかと本気で心配するほど、大きく動いた。

息が苦しくて、めまいがして、トイレにたどり着くまでに、何度か倒れそうになった。

トイレの前で、真っ白な頭の入院患者のおじいちゃんが、尿瓶を持ってゆっくりと歩いていた。尿瓶の中の、黄色い液体。そういう景色は見慣れていたが、いつも以上に生生しく見えた。

トイレの個室に入り、鍵をかけてその場にしゃがみこんだ。便器が目の前にあり、悪臭が鼻につき、目に染みるほどだった。しかし、自分にふさわしいと思った。自分は、トイレの汚物のような、濁った小便のような、どうしようもない男だと思った。

涙が出た。しかしその涙が、なんのための涙で、どんな感情の涙なのか、よくわからなかった。とにかく、胸が苦しくて、やりきれなかったし、自分で自分を締め殺してやりたいと思った。

もちろん、直接的な原因なんてわからない。オレの態度や言葉のせいかもしれないし、別の原因かもしれないし、誰のせいでもないかもしれない。

しかし、オレは自分を責めた。母への怒りを、全く関係のない17歳の少年に向けてしまったのだ。そんな自分はこの世で最も弱くて惨めでみすぼらしい、醜い心を持った人間だと思った。

****

その後、母もすぐに退院したので、彼がどうなったのか、誰も知らない。まだ、生きているのだろうか?あれから、25年の月日が流れた。母は今年、最後は管だらけになって亡くなったが…。

ずっと、胸に引っかかっていたが、ようやく最近になって、その重石をおろせたと思う。今となっては、罪悪感とか、贖罪する気持ちはない。母を許し、自分自身を、許せるようになった。

そして、この宇宙のあらゆる出来事に対し、「ただ、そうだったのだ」と、俯瞰した視点で思えるようになった。しかしそれでも、あの17歳の頃に味わった気持ちは、今でもはっきり思い出せる。

この世界に、優しさを。この世界に、許しを。この世界に、平和を。

そう、今のオレにできることは、祈るだけだ。この世界に、人間に都合の良い「神」などいないかもしれないが、それでも、悲しい事を、繰り返さないように、誰もが優しい気持ちで、生きていけるように、祈るのだ。

終わり

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言葉の力で、「言葉で伝えられないものを伝える」ことを、いつも考えています。作家であり、アーティスト、瞑想家、スピリチュアルメッセンジャーのケンスケの紡ぐ言葉で、感性を活性化し、深みと面白みのある生き方へのヒントと気づきが生まれます。1記事ごとの購入より、マガジン購読がお得です。

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