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牛の“ケツ”の話

牛のけつ

この話は、僕が20代の頃から勝手に師と仰ぐ、日本の東洋哲学の泰斗である「安岡正篤」先生の講話集で読んだ話。

どこぞの高名な仏教学者が、あるお寺の禅寺を訪ね、そこの住職の禅僧と仏教談義をしたそうな。

なんでも、禅宗の開祖的存在である、達磨だるま が実在したかわからないとか、学問的には云々カンヌン、仏教とはどうのこうの。

禅寺の和尚は「ふむふむ」と黙って聞いていた。仏教学者は「あなたは仏教の門徒なのにそんなことも知らないのか」と意気揚々でますます仏教談義を捲し立て、自分はこんなに研究し、こんなに学説があり、本職の僧侶よりも自分の学問の方が優れてると言わんばかり。

それでも禅僧は感心した様子で話を聞き続けたそうな。

学者“様”がさんざん自説を述べた後に、仏教学者が帰る時、玄関先に見送りに来た禅寺の和尚は、

「あんたは牛のケツじゃなぁ」

と言った。仏教学者は、(はて?牛のケツ?そんな逸話はあったかな)と、その時は気もそぞろに黙って帰って行った。

それから学者はあらゆる文献を調べ、禅の公案に関する書籍を読み漁り、牛のケツに関連するものを探したが、いくら探しても牛のケツなる仏教用語や逸話や寓話は見つけられない。

(まだ私に知らないことがあったのか…)

そこで改めて寺へ行き頭を垂れ、

「私の勉強不足でした。牛のケツとは一体どういう意味なのか教え願いませんか?」

と和尚に尋ねた。

すると和尚は大笑して、

「牛は何といって鳴く? モウといって鳴くじゃろ? 『けつ』はお尻じゃよ、だからおまえさんは『もうの尻』、つまい“物知り”じゃなと言ったのじゃ」

これを聞いてその仏教学者はがっかりして帰った、という話があった。

これは単なる「物知り」では何も意味がないということを教えています。

この逸話の仏教学者は、仏教について何を知ってるのでしょうか? 仏教の歴史や、言葉の意味を知ることも大事なのでしょうけど、仏教の本質は何一つわかっていないから、こんなことになったのでは?

これは宗教に限らず、です。本当の知識、本当の技、本当の叡智、これらは机の上でお勉強して得られるものではないのです。

例えば「犬」を飼ったことない人が、犬についてのYoutube動画を見まくり、書籍やらを調べて読みまくると、犬に「詳しい人」になるでしょう。犬種や、犬という動物の歴史や特徴など、知識として蓄積されたと思います。

しかし、実際に一頭の犬を、赤ちゃんの頃から育て、一緒に暮らし、その犬が老化し、やがて朽ちて死んでいく様を見た人の方が、はるかに「犬を知ってる」のではないでしょうか?。何も犬の歴史やら犬の育て方とかのマニュアルを読んでなくても、です。

しかし、この「牛のケツ」がこの世ではやたらとデカい顔しているのも事実であり、何か事件があるたびに、テレビや新聞では「専門家」なる人の意見が飛び交います。

もちろん、専門家の意見も必要ですが、専門家では役に立たないことがたくさんあります。

こんな話があります。

専門家による予測

90年代に、名のある経済学者たちと、経済学部に通う大学生に、今後数年の経済の見通しを予想させたという実験がアメリカであったそうです。

その結果どうだったか?

もちろん、経済の“専門家”たちの予想が学生よりも遥かに当たった………、ってことはありませんでした。ほぼ同じか、やや専門家の方が当たったか、という具合だったそうです。

そして、そもそもが経済学者も、学生も、「上がった、下がった」という単純な予想ですら半分くらいの的中率だったということなので、つまりは「予想に意味はない」ということにもなります。

もちろん、経済の予測は難しいでしょう。市場は生き物、市場はバケモノと言われますから、動向を予測するの至難の業。

でも、経済動向と同じように、人生とか、人間ってものも難しいのでは?

どんな心理学や社会学や臨床心理の専門家がいても、確かに結果の分析は長けているでしょうけど、その人の今後の予想なんてなかなかわかりっこありません。

身体だってそうですね。どんな医師でも、人の病を根本から治癒させるって難しいです。だから名医や“上医”は少なく、その場の対処療法しかできない“下医”が多いのでは?

頭の良い人

頭の良い人、っているのでしょうけど、この頭の良さってなんでしょうね?

ただ、実際のところ、今の社会で「成功者」というポジションに登れる人のほとんどの特徴は、圧倒的に「思考」に長けている人です。

記憶力、計算力、発想力など、とにかく、これら“頭の良さ”が決め手になっている。

しかし、上記の牛のケツの学者先生や、経済学者たちは、みんな頭が良いと呼ばれる人たちであり、きっと社会的にもなんらかの上位ポジションに在ることは予想されます。

でも、彼らの頭の良さは、例えばその人自身をどれだけ「成長」に導いているのか?

我々はやはりこの世に生きる以上、「魂の成長」とも呼ぶべき、霊性の向上が第一義だと思います。あらゆる感動も、あらゆる学びも、あらゆる苦難も、あらゆる喜びも、成長と拡大のため。

そして、それが結果として、最終的にその人自身を幸福にします。そして、その成長過程で表現されるものは、必ず出会う人たちに幸福を還元しています。

でも、ただ頭の回転が早いなどの頭の良さが、逆にその人の成長を妨げているのと思えることもあります。なぜなら、頭が良いというだけで、学生の頃から成績優秀で、社会的な承認を受けやすく、それはそのまま自己満足と、実際の生活へのメリットを享受します。

慢心、とまでは言わずとも、器用さや頭の良さが生む悲劇の一つで、そこで甘い汁を吸うことに慣れてしまうと、多くのことが損なわれるのです。それが冒頭の仏教学者のような人物を生み出しますし、中途半端な知識や情報力を持って、口舌の刃、ならまだしも、SNSで匿名の批判、攻撃、誹謗などが相次いています。

僕もThreadsというSNSで健康問題をテーマに書いてますが、しょっちゅう批判コメントが入ります。

だたの上げ足取りの罵詈雑言のようなものは論外として、知識を持って否定、非難しているく輩がいます。

その手の批判は、一見して的を得ているようでいて、しかし的外れなことを言ってる場合が多いです。まず、こちらの文章を「ちゃんと読めてない」人が圧倒的に多いですね。

例えば、テフロン加工のフライパンに付いて書いた記事。

「どう考えるかは自分次第です」と書いてます。否定的な意見もあるし、日本政府は「平気だ」と言ってるよと。解釈は任せますってことです。

「業界は無害だって書いてますよ?」

ってコメント。いや、だからそう書いとるがな!って感じだし、他にも、

「鉄のフライパンだって剥がれるますよ」

いやいや、鉄はむしろ鉄分は必須ミネラルでいいでしょ?だから鉄瓶のお湯とか美味しくなるとか体にいいっていうんだから。僕は「有機フッ素化合物」について考えてほしいって書いてるんだけどなぁ…。

とにかく、日本語の文字は読めるけど「文章を読んでない」人が多いんです。

それと「拡大解釈」してる人が多いですね。そこからさらに「論理飛躍」させて、自説を押し通す、みたいな。

このYoutubeでも話してますが、

グルテンのこととか書くと毎度突っ込んでくる「自称“医療関係者”」とかいますが、多分相当の「牛のケツ」なんじゃないかな?

そもそも僕は「考えませんか?」ってことがメインに伝えているし、「僕はこうでした」という経験に基づいて書いてる。しかし、この「自称“医療関係者”」のように、「専門家でもないのに偉そうなこと言うな」と来るもんだ。

まあ、相手にせず、あえてブロックせずに観察してますが、この人に限らず、たまにずら〜っと長文で反論があると「牛のケツ」だなぁと思います。

生産性、なんて言葉は使いたくないけど、彼らの人生に、他人のSNSを批判することで、何のメリットがあるんでしょうね? 正義感と自己満足で、何も生み出してない、誰も幸せにしてない、もちろん、自分は成長するどころか自分を貶めている。

まあ、こううう人を見ると、とにかく「自分は気をつけよう」と思います。そういう「嫌な役割」をやってくれる人っていますからね。

で、総括として、牛のケツにならないように気をつけましょう、ってことです。牛のケツ(物知り)なんてならなくていいのです。ただ、体験をして、それを深めましょう。

さて、話は変わりますが、関西でワークショップの後、

「つながるからだ、つながるこころ」今回は3名お申し込みで、前日にお二人急きょ来れなくなり、マンツーマンになりました。
朝の散歩。淀川沿いの公園
聖音瞑想会

熊本へ。

熊本城巡り。

熊本の旅の様子はまた別途。

☆ ワークショップ

Youtube




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