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不思議な小説 「傷痕」(掌編)

【傷跡】 

 彼がベッドから立ち上がった時、腰の下、というか、お尻の上のあたりを思わず見てしまった。

「なにそれ?」

 私は思わずそう言った。

「ん?ああ、傷だよ。子供の頃事故にあったんだよ」

 彼は、前も言わなかったっけ?と言わんばかりな、少し面倒くさそうな口調で答えた。

(おかしいな。今までこんな傷あったっけ・・・)

 彼の裸を見ることは、これで何度目だろう?10回はないけど、5回以上。手帳を見れば分かる。後で見てみよう。

 前にも、こんな事があったと、彼がシャワーに入ってる間に思い出した。
 
「ああ、リストカットだよ」

 と、彼は言った。その時も、今のように抱き合った後だった。彼の右腕には、無数の切り傷があった。

 私も、小さいけれど、同じような理由の傷跡があるから、彼にとても親近感を覚えた。そして、その傷跡は撫でて、口づけした。

 しかし、その数日後に彼に出会った時、右腕に傷はなかった。

「あれ?傷・・・」

 と、私が驚くと、

「ん?こっちだよ」

 と、彼は左腕を出してきた。

 腕にはいたるところに、様々な古い傷跡があった。生々しくも、それはなぜか私には美しく咲き乱れる花のように見えた。ラブホテルの安っぽい照明が、なぜかこの傷にふさわしいライティングにも思えた。

 一瞬、納得しかけたけど、すぐに自分の中の違和感に気づいた。

「うそ。右腕じゃなかった?」

 私がそう尋ねると、

「え?左だよ」

 彼は、当たり前だろ?という態度で答えた。

「だって俺右利きだからね。どうしても左を斬りつけるんだ」

 彼はそう言いながら、自分の手首や腕を斬りつける仕草をした。それは確かに、慣れた、というか、理にかなった動作のように感じた。私自身も、そういう時期があった。そして、右利きだったので、やはり左腕や手首に、同じようにカミソリで何度か切りつけた傷痕が残っている。

 しかし、私の記憶では、彼の“右腕”に、傷があったのだ。それがいつの間にか、左腕に…。
 
 右腕の傷と、左腕の傷。綺麗なお尻と、傷のあるお尻。私の記憶がおかしい?

 いや、変わったのだ。

 何が変わったんだろう?

 私は今、“違う世界”にいる。彼が変わったとか、私の記憶が変わったのではなくて、世界丸ごと、違うのだ。

 昔から、私はよく、そんなことを思う。いや、思うのではなくて、“知ってる”という感覚に近い。

 この世界には、不思議な入り口がたくさんあって、知らず知らずにそのドアを潜ると、今までいた世界とそっくりの世界に来る。

 でも、その世界に来た「私」は、ドアを通った瞬間にその世界の“わたし”の記憶が割り当てられるから、今までいた世界の事を瞬時に忘れ、新しい世界にあっという間に馴染む。

 その移行はあまりにも自然な形をとって移行するので、ほとんどの人は、自分が違う世界に来た事に全く気づけない。でも私は自分の感覚にすぐに気づく。違和感。記憶のズレ。

 どっちの自分が、本当の自分で、どっちの世界が、本当の世界なのか。よくわからなくない。彼にしても、どっちの彼が本当とか偽物とかなんてわからない。どちらも本物かもしれないし、どちらも偽物かもしれない。

 ただ今の私は昔のように、自分の手首を切りつけたいという衝動は生まれないのだから、ひょっとして昔いた世界よりも、ここはずっと“良い世界”なのかもしれない。だから、本物でも偽物でも、どっちでもいいのだ。
 
 シャワーを浴びて「じゃあな」と、言って出ていく彼。スーツのズボンの中には、お尻の上の辺りに傷跡がある。次に会って、裸で抱き合った後には、その傷跡がどうなっているのか、少しだけ楽しみだけど、きっとすぐに、そんなことはどうでもよくなるに決まっている。

 不思議な扉。そこを潜ると、そっくりな世界があるけど、ちょっとだけ何かが違う。だけど、その扉を探している時は、決して見つけられない、不思議な扉なのだ。


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言葉の力で、「言葉で伝えられないものを伝える」ことを、いつも考えています。作家であり、アーティスト、瞑想家、スピリチュアルメッセンジャーのケンスケの紡ぐ言葉で、感性を活性化し、深みと面白みのある生き方へのヒントと気づきが生まれます。1記事ごとの購入より、マガジン購読がお得です。

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