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「心が傷つく」ということ

光の瞑想

人は傷つく。


あなたも“傷ついたこと”があると思います。さて、その時傷ついた場所はどこですか?

もちろん「身体」を傷つけられたことはあるでしょう。怪我をさせられたという物理的な傷。

しかし世の「傷ついた」と人々が口々に言う多くのケースが、身体とか、物理的なことではないはずです。

そして、仮に身体が傷つけられたとして、その物理的な傷は完治しても、「傷ついてる」人はたくさんいます。

そう、つまり人が傷つくのは「心」です。

ではここでさらにお尋ねしますが、心ってどうやって傷つけるのでしょうか?

心が「ある or ない」という議論はしません。ただ、見えないけど「ある」と多くの人が感じています。

でも、その見えない心に対して、傷をつけれるものはなんでしょう?

見えないから殴れないし、ナイフで切れませんし、銃でも打てません。でも、「言葉の刃」とやらで傷つくようです。

例えばあなたが歩いてて「ばかやろう!」とか「死んじまえ!」とか怒鳴られたら、心が傷つく…。のでしょうか?

感情が反応します。つまり「びっくり」しますし、「怖い」と思います。でも、それは「心が傷つく」ってことなのでしょうか?

まず、心はそのような一時的な「感情」のブレで傷つくものではないと言うことです。

では傷つくとはどういうことか?

今これを読んでるあなたがどんな人なのか、書いてる僕にはわかる由もないですけど、例えば僕が、

「このハゲ野郎!」

と言ったとして、傷つきますか?

「デブのブタ野郎!」

と言ったとして、傷つきますか?

「あなたは無能だ!あなたはバカだ!」

と言ったとして、傷つきますか?

ちなみに、僕はかなり痩せ型体型ですから、「デブ」とか「ブタ」と言われても傷つくことはないです。バカ、と言われても、人に簡単にバカなんて言う方がバカだと知ってるので、そんな人格の人間の中傷に傷つくことはないです。

でも、上記の言葉で本気で傷つく人がいます。それはどういう人でしょうか?

説明するまでもないですが、デブ、と言われて傷つくのは太ってる人です。ハゲと言われて傷つくのは、ハゲてる人。

でもバカと言われ傷つくのはバカな人??

でも考えてみてください。「デブ」の基準ってなんですかね?「太ってる」って、どっから普通で、どっから太ってるの基準値ってありますかね?

もっと曖昧な悪口として典型が「ブス」ですよね。

これもないです。どっからブスなのかなんて基準値はありません。「デブ」もそうです。「ハゲ」もそうです。つるっぱげなら言い逃れできませんが、薄毛をそれを「ハゲ」ととるかどうかの基準値はありません。

つまり何が言いたいかと言うと、これらは実はかなり「主観」です。

デブとは「あなた太ってると思う人」が、この世界の太ってる人なんです。
ブスとは「あなたがブスだと思う人」が、この世界のブスな人なんです。
ハゲとは「あなたがハゲだと思う人」が、この世界のハゲた人なんです。

体型の話にすると、中肉中背に、プラスちょっとふくよかくらいの「ぽっちゃり体型」の人を見て、「太ってる」と思った人にとってはその人は「太った人」ですが、「普通」と思った人にとっては「普通の人」です。

これはもちろん自分自身にも適用されます。

デブと言われて傷つくのは「太ってる人」と書きましたが、実はそれだけでは足りません。

・自分で自分を主観的に太ってると思ってる。
・自分が太っていると言うことに対して恥じている。
・太ってる人、というものに対してネガティブなイメージを持っている。

これらを信じ込んでいる人が、「デブ」と言われて傷つく人で、上の条件の信じ込みが強ければ強いほど、傷が深いと感じます。「ブス」も「アホ」も同様です。自分で自分をブスとかアホと思っているから傷つくのです。

さらにそれは他の人から見て普通体型でも、自分で思っている以上関係ないので、「そんなことないよ」と誰かが言ったところであまり意味がないです。あなたも誰かが悲観してて「いや、そんなことないよ?」と教えても、全くその言葉を受け取ってもらえなかった…、そんなそ経験ないですか?

ちなみに僕が「ブス」と言われても、まず男性ですから、その言葉でダメージは微塵もありません。ブ男と言われても、僕は自分の容姿をそう思ってないので「え?俺のこと?まあ、君の趣味には合わないんだね」ってくらいです。

まあ「ハゲ」と言われると、ここ数年抜け毛が多かったのでちょっと気にしますが(笑)。(あ、でもここ半年くらいかなり抜け毛は減りました)

話を戻します。

これらが意味することは、自分が自分で思ってることを指摘されたことを「言葉の暴力」として捉えているいうことになります。

いつだかアップした、心理カウンセラーの「大塚あやこ」さんのインタビューで言うところの「ビリーフ(思い込み)」ってやつですね。これが自分を傷つけている元凶です。

ここまではご理解いただけたでしょうか?

しかしここで疑問です。

誰かの言動で傷ついた人がいるとします。

ではこの人を傷つけたのは、その言葉を言った相手でしょうか?

傷つける悪意があるなしに関わらず、です。なんらかの言葉を発した人が
、言葉の刃とやらで人を傷つけたということになっていて、多くの“傷ついた人たち”は「〇〇さんの言葉で傷ついた」被害者として訴えます。

傷つける意図があったならまだしも、世の中には「思いもよらない一言」で人を傷つけることってあります。僕も人生で何十回も何百回もあります。それで人から嫌われたり恨まれていたこともあります。

でも「え?まさかあの一言が?」みたいに、こちらには理解不能だったりします。多分、それを他の人に言っても傷つかないからです。その人がそんなに気にしていたなんて、こちらにはわかりっこないことがほとんどだからです。

だけど傷ついた人が現れ被害を訴えてきた場合、こちらが「加害者」となってしまい、向こうは「被害者」となります。

これ、おかしな話です。こんなこと書くと残酷に聞こえるかもしれませんが、勝手に傷ついた、というのが事実です。

コントロールドラマについて、最近もSNSで投稿しましたが、ぜひこちらの「コントロールドラマ」を参考にしてください。

言葉は、ただの記号の羅列とも言えます。そんな記号が飛び交っています。でも人が人の「心」に傷をつけるなんてことはできません。体や、感情を驚かせることはできても、傷をつけたのは自分自身です。

例えば身内が死んだとします。失意にいるとします。そこでテレビで「お笑い番組」がやってても、見る気しないですよね? しかももしそこでお笑い芸人が「人の死をネタにした笑い」なんかやってたら、見るだけで傷つくかもしれません。

なんなら「こんな時にあんな番組流しやがって!」とテレビ局にクレームしたり、「あの芸人は人の気持ちをわかってない!」とか言うかもしれません。

でも、もちろん身内が死んで悲しみに渦中にいない人にとってはその番組は平気だし、楽しいはずです。

これが行きすぎると、何かと災害のたびに「自粛」といって、祭りをやめるとか、番組を変えるとかになるし、コンプライアンスと称した言葉狩り、言論統制になります。

もちろん「心」が傷ついた時は辛いです。でも知っておいた方がいいのは、あなたの心を傷つけのは誰かの言葉じゃなくて、あなた自身の思い込んだ世界観のせいです。そこを刺激した人がたまたま現れただけです。

このことを知らないと、永遠に被害者意識のままです。被害者意識というのは、あなたが宇宙に対して「私は無力です」「私は弱い存在です」と宣言しているようなものですから、やめるにこしたことはないです。

でも同時にこれは希望です

なぜなら、あなたの心を傷つけられるような存在はこの世にいないってことです。

仮に、あなたの体に、暴力で傷をつけることができても、あなたの感情を恐怖や不安を持って脅かすものがあったとしても、あなたの心は、あなたにしか扱えない。他者のごときで傷つけられるものではないのです。

自分のパワーを信じてください。自分の人生は自分のものだと知ってください。

あなたが誰かの言葉で「傷ついた」と感じた時。 それはただあなたの抱いていた“幻想”が打ち砕かれた時だったりします。 事実や真実が人生において「残酷」と感じるのは、 それは我々が幻想に生きているからに他になりません。 幻想の夢を生きるか、 真実の向き合い、目覚めるか。

Posted by 大島 ケンスケ on Monday, May 6, 2024

誰かの言葉で傷ついたというのは幻想です。被害者という幻想です。被害者になっては、ずっと弱者という檻の中です。

そんなものは捨てて、真の自分に目覚める。自分のやりたいことをやる。抑圧を解放し、あるがままに。

ただ真実は時に残酷です。でも、それを見つめた時に、あなたは思い出し始めます。

自分が変容する時は、 「絶望」を超えていくことで、 大きなアップデートが起きる。  ただし、その絶望は「外部」ではない。 誰かや、 社会や、 出来事や、 外の世界へ絶望しても、 自分は被害者になるだけで何も変わりはしない。 被害者となること...

Posted by 大島 ケンスケ on Monday, May 13, 2024

こちらのYoutubeでも、被害者意識について語っていますので参照に。

Youtube更新 「interview」新作動画

5月26日 Awakening(目醒め)

ワークショップのお知らせ

「つながるからだ、つながるこころ」

5月24日 京都

6月8日 東京

歩く、稲荷山 5月22日

新曲「地の唄」




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