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結果重視の物質主義から、プロセス(過程)重視の精神性の時代へ (無料記事)

先日(も)、山へ登りに行った。

標高1247メートル

神奈川県の「大山」。始めて行った。

整備されつつも、「山」って感じの道。
晴天。絶景です。


ここは江戸時代より「信仰の山」として、「大山詣(おおやままいり)」として、古くから賑わっている場所だ。江戸から3〜5日かけて登頂し、祈願をする慣しがあった。

江戸の人口が100万人の時代に、年間20万人がお詣りに来たという…

今は都内、新宿から小田急線で伊勢原駅へ行き、そこから麓までバスで移動、さらにケーブルカーで中腹にまで行けちゃうので、とても人気のある登山コースとして親しまれている。

ケーブルカー乗り場の駅。
阿夫利神社下社。ケーブルカー降りて10分くらい。この奥の道から、本格的な登山コースとなる。


けっこうしっかりとした登山道でびっくりだ。登りにだけケーブルカーを使ったが、それでもかなりの歩きごたえだ。最近は高尾山とかばかりだったから、久々に筋肉痛になった。

紅葉がすごかった。


ちなみに今度の12月11日の「歩く瞑想の会」は、東京都、あきる野市の山です。コースはゆるいです。登山じゃなくて、ハイキングコースです。

実は、コースの途中に「洞窟」があり、そこがあまりに最高すぎて、コースに選びました。洞窟での瞑想は、まるで異世界です。ぜひ一緒に自然の中で過ごしましょう。山を歩きながら色んなワークをしたり、お話をします。

さて、話を戻して、先日も大山に登って、改めて考えたことがあります。

それがタイトルにもある「結果」と「過程(プロセス)」です。

ちなみに登山のゴールは「登山口」に帰った時です。山頂がゴール、ではないんですよね。登ったら、帰らないと。だから体力のペースって大事。家に帰るまでが遠足、みたいなものです。

ただ今はあくまでも便宜上、「山頂」をゴールだと仮定して話をすすめます。

大山なんてわかりやすいですが、山頂には「阿夫利神社」の本宮(奥宮)があります。日本の古くからある神社って、山そのものが御神体なので、山頂に秘密の場所とかあるところが多いです。

僕は八ヶ岳にいた頃、特に6、7年前など、かなり周辺の山にのぼりまくってました。中には難易度の高いコースもいくつもあり、1日14時間歩き続けた、なんていうこともありました。(死ぬかと思ったけどな)

山頂に辿り着いた時の気分は、もちろん達成感とか、爽快感はあるのだけど、僕が登山に感じるのはそういう部分にだけではない。目に見えない「なにか」を味わえます。

特にそこが「信仰の山」のように、古来から祈りが捧げられてきたような場所だと、厳かで神聖なエネルギーがある。

で、もしもそこに、山にエスカレーターがつけられていたなら、道路が作られて車で行けちゃったとしたら、「達成感」なんてほぼ皆無だし、ましてそこに僕の言う「なにか」を感じるだろうか?

もちろん敏感な人は、地上との「場」の違いは感じるだろう。ただ、果たしてそのエネルギーを「受け取れるか」となると、疑問が多い。

僕が勝手に「こんなに苦労して自力で登ったんだから、汗ひとつかかないで連れてこられたヤツになにがわかる!」というエゴもあるのかもしれないけど(笑)、やはり色んなところに行った経験でそう思うのだ。

山頂になんらかの「答え」とか、スピリチュアル的な「パワー」とかがあると思ってるのかもしれないけど、実は、そういうものは、どこか三次元的な特定の場所にあるわけでない、とこの頃は思う。僕は山は好きだけど、ご利益目当てのパワースポット巡りをしたいわけでない。

古来より覚醒者は皆「山」で目醒める。海辺のリゾート地で悟りを開く覚者っていない(笑)

山は、まずそこに辿り着くまでも大変だし、さらにそこに過ごすとなるの、登ったり降りたり、かいくぐったり、飛び越えたり…。

どうしてそこで人は精神性を開花させたり、霊的に目覚めていくのだろうか?やはり「山」という“場所”が、そうさせるのだろうか?

もちろん、それもあるけど、それは「山に行った」「山頂に立った」から起こることではないと思う。ヘリコプターでそこに行っても、そこで得られるものは、歩いて登った人が得られるエネルギーとはまったく違うものだ。

以前、ネパールでエベレストを飛行機から眺めたことがある。(そういうツアーがあるのだ)。

ヒマラヤ山脈の圧巻の景色。感動した。実際はそこまで命がけの山行はする気はないけど、あそこに自分の足で行った人たちと、飛行機から眺めるエベレストは、もし、そこにヘリとか使って降り立ったとしても、まったく違うもの。同じ景色(物質)を見ても、多分、違う世界を見ている。

僕らは「結果」を大事にする。なぜなら「結果」しか、人の目に見えないからだ。しかし、わかりやすい例で言うと、アスリートが金メダルをとったり、大会で優勝とか、そういう結果は、日々の積み重ねたプロセスが、一つの形になっただけだ。

彼らの本領は「結果」にあるのではなくて、「過程(プロセス)」にある。なぜなら試合は、その時のコンディションや運も関係するから、それだけでその人の本当の実力は測れない。すごい選手だけど、いつも運悪く優勝を逃す「無冠の帝王」とか呼ばれる選手もいる。

アーティストならばもっとそうだ。勝ち負けの評価が曖昧な世界だから、売り上げや知名度が「結果」なのだけど、それこそ「芸術性」と比例はしていない。

勝者の意見としては「そんなの負けた奴の負け惜しみだよ」と言うかもしれない。「それも実力のうちだよ」「売れないやつの言い訳だ」「人気が出て商業主義に乗らない限りプロではない」とか。

確かにそういう意見もあるし、一理あるけど、客観的事実としては、必ずしも「結果」がすべてではないだろう。

これからの時代も、これまでのような「結果主義」「成果主義」が続くのだろうか?

現在の結果主義はあくまでも、「物質至上主義」での優劣論がベースにあり、近代なら「資本主義」と強く結びついている。

つまり、物質主義、資本主義がこれまでも同じように続くのなら、やはり我々人類はずっと結果主義、成果主義の中でサバイバルしていくしかなさそうだ。

でも、本当にそれが続くのか?いや、スピリチュアルや一部の量子力学の世界で語られるように、「宇宙は自分が創っている」とするのならば、あなたはこれまで通りの世界が続いて欲しいのか?それとも、違う形で人類がより恒久的に幸福になるための道を探し、実現したいのか?という問いかけになる。

結果だけを見て生きるのか?それはつまり、山頂にさえ行けばいい、という生き方。山頂にさえ行けば、あたかも資質、能力、豊かさ、人脈など、欲しいものがなんでも手に入り、それを使いこなす資格が得られる、というような価値観。

そこに行けさえすれば手に入る、というのは、お金さえ払えば、誰か「特別な力を持ったすごい人」から、何かを自動的に伝授されて何かを得る、という、依存的なスピリチュアルや自己啓発にも繋がりますね。

それとも、山頂に行き着くまでの一歩一歩の積み重ねや試行錯誤、そこでの洞察の過程(プロセス)こそが、その人の資質、能力、豊かさ、精神性を成長させ、意識を解放していくのか?

ここには宇宙の法則でもある「与える=受け取る」ということが大いに関係しています。

次回、その辺をもう少し切り込んで考察してみたいと思います。

*追記 続きです ↓



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