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子供の時代と、“先生”の影響力について

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子供の時代と、“先生”の影響力について


今日はちょいと、教育とか、そういう話になります。

こちらのnote。

これは自分の体験談であり、小学校3年生の担任教師の話を書きました。ガチの実話です。本当にイカれたサイコパス教師だった。

彼の“せい”とは言いませんが、僕はそこから世界に対するものの見方が激変し、常に学校のような「公共的」「社会的」なシステムに疑問を抱き、反発を抱き、反社会的な考え方を持つようになった。

勉強して、しっかりと点数を取って認められれば良い、という“常識”を破壊してくれたおかげで、勉強することにも大いなる疑問が溢れた。

確かにそこで僕の生き方がある意味方向付けられたと思う。

しかし、いかに小学校の教師が、強弱はあれど、人に対して影響力があるか?を、この頃すごく思うことがあった。

こんなことを自分で言うのもなんだけど、僕はけっこう「批判的」な一面を持っている、というか、批判的な思考が「得意」とも言えるかもしれない。

なぜなら物事を“多角的”にみる癖があり、一般的に“良いもの”と言われても、その裏側や違う角度を見ようとしたり、もちろん逆に“良くないもの”も、同じように違う方面を見て、それから判断する思考の癖がある。

はっきり行ってとことん「ひねくれた性格」である、やってきた事象や情報をストレートに受け取らず、こねくり回して分析してからじゃないと判断できないと言うやっかい性分とも言えるだろう。まあ、だから物書きなんてできるのだろうけど。

当然そこには、肯定的な判断もあれば、非常に批判的な判断もある。そしてこの世の中を批判や非難なんて、しようと思えばいくらでもできるし、ちょうどそういう批判したくなるようなものが、ここ数年僕の身辺には多く感じられていた。

そんな自分の思考に気づくたびに「おっと、批判的だったな」「また否定的だったな」と、そこからニュートラルに戻すようにしていたのだけど、今月の中頃、ふとこんなことを思った。

(はて、俺はどうしてこんなに、物事に対してあれこれと分析して批判的な思考ばかりするのだろう?)

そして、こうも思った。

(いや、俺って子供の頃は超がつくほどお人好しで素直だったな…)

そう、この思考の性質は、僕の「後天的」であり「備わった資質」ではないと気づいた。(多分、多くの人がそうだと思うけど)

では「いつから自分はこんな思考体系になったのか?」と内観をする。親のこと、兄のことが真っ先に浮かぶ。一番影響が大きかった人たちだ。

しかし、どれもそうだと言われればそうだし、いまいちピンとこない。

内観から、そのまま瞑想に入った。ただ座る。姿勢を調え、座る。

心地よい瞑想だった。そろそろ頃合かと思い、目を開き、体をほぐして立ち上がった。もう、さっきのことなんてすっかり忘れていた。

しかし、数歩歩いて突然、

(あ、小池…)

と、その時の僕にはまったく脈絡がなく出てきた。

そうだ、さっきまで考えていた。自分の思考に、一体何が、いつから影響を及ぼしたのだろうと。瞑想しててそんなこを考えてたことすら忘れていたけど、タイムラグを経てそのインスピレーションがやってきた。

「小池だ!」

確信だった。これは思いつきやアイディアではない。思考や記憶を超えた部分に起きている感覚だった。

小池のことはここ数年、思い出しもしなかった。以前、妻に話してことがあったが、妻は「そんなひどい話聞きたくない」ということで、それ以来話題にしたこともないし、友人にも話したことはなかった。ちょっとした小話にしては長すぎるからだ。

(それにしても、どうしてずっと忘れていたんだろう)

というくらい、あっけないものだった。案外そういう「気づき」ってそんなもので、新しい発見をしたわけではなく、いつも当たり前すぎて、見落としている「盲点」に気づいたにすぎない。

とにかく、自分に対して「小池」が強く影響を与えたこと、そしてそれは今も続いているということがわかった。

ところで、これは「小池のせい」ではない。小池はサイコパスだったが、彼を責めたいわけでもなし、責めても意味がない。たまたま、僕と小池の持つ、いわば「業=カルマ」が、お互いを引き寄せたのだ。なぜ?それはきっと、僕には必要なことだったからだ。

では、小池との因縁や影響をこれから手放していこうと決意をした。とはいえ、どうするか?

盲点に気づいた。それはまだ半分。ここから手放す作業は、時間をかけてやっていく。

だからまず、僕はそれを書いてみた。自分の中から、外の世界に取り出した。あえて「クソ教師」という言葉も使った。

僕の中で、それだけで何かが楽になったのは明らかだった。やはり自分の中からアウトプットするのは大事だ。まあ、何をアウトしていいのかがわからないからみんな困るのだろうけど…。

さて、そこで話を変えて、今回の件でいかに「小学校の教師」は影響が大きいかを思った。

あなたに質問します。

あなたの小学校の担任の先生の名前、覚えていますか?

多分、はっきりと覚えているのでは? 名前だけでなく、声色、雰囲気や立ち振る舞い、エピソードなど。

なぜなら、子供にとって「学校」という場は、自分の生活の中でかなりのウェイトを占める場所だから、それはもはや「世界そのもの」と言っても過言ではない。

初めは「家庭」という社会に出会うけど、幼稚園や保育園を通して、それが学校となると、ガラリと変わる。小学校低学年は、担任の教師がすべての授業を賄う。この頃は英語学習などが増え、担当教師がいたりするけど、当時はそんなハイカラ(?)なものはない。

まだ幼い子供にとって、自分の目の前に突如現れた社会の上に君臨する教師は、親とはまったく異質の「絶対性」を持っている。

その絶対性は仕方ない。なぜなら、子供がそう思うからだろうし、ある程度そのような上下の関係性がないと、誰も言うことを聞かないし、学ぶ姿勢は取らないだろう。

良い教師は、その上下関係を知りつつ、うまく距離感を作り、子供たちと「同じ人間」という対等な部分も教えながら、カリキュラムを進めるわけだが、小池のような、その上下関係に優越感を強く持っていたり、子供を見下しているような教師もいる。

まだ何も知らない幼い子供たちにとっては、教師の質はそのまま社会の質になりかねない。現に僕にはそういう影響があったと思う。

中学、高校となればなるほど、覚えているだろうけど、小学校は本当にその影響力は大きいと思う。

ちなみに当時、僕と一緒に小池に対して反抗的だった子供たち。その後どうなったか? こちらの「おい!小池!後半」にも書いた通り、とにかく高学年は荒れに荒れた。新聞記事になるほどひどい崩壊ぷりだったとまでは書いた。

ではその後は?

当時、小池に対して立ち向かい、戦ったのは僕の他に4人いた。ちなみに一人は女子だ。今思うとなかなかすごい女だった。

そんな僕らは、10代後半の頃、男子2名は高校を行かず、街でもそこそこなの売れた超絶ヤンキーになっていた。

もう一人の男子は、何をやってもダメダメなやつで、小学校高学年まではかなり無双してたが、中高生になってどんどん影が薄くなり、大人になってからはニートのような状態になった。

例の女子は、高校2年の頃に偶然会ったが、彼女もエリート・ヤンキーで、「ヤンキー母校に帰る」で有名なワル学校に通っていた。その後はどうなったかは知らない。

ヤンキーやら中退やらニートが悪いと言ってるのではないけど、小池という“社会”から、あれだけ毎日のように“人としての尊厳”を踏みにじられた影響はなかったとは思えない。

「自分に与えられた“影響”について考える」

って結構大事なことで、ここを外していくことは「本当の自分」に出会うことになる。

思考の癖、感情の扱い方、対人関係、お金の価値観、社会との接し方、仕事のあり方、これらあらゆるものが「自分のオリジナル」ではなく、誰かの影響であることがほとんどで、つまりそんなものを使ってる以上、「本来の自己」として生きれない。

この影響のほとんどがなんといっても「親」であり、他には「兄弟」とか身近な人間があげられるが、小学校の教師は、けっこうこの影響が大きいのだと改めて知った。

あなたはどうですか? この影響って、「良くも悪くも」ですか。良い習慣や思考法でも、それが「人からの影響」のまんまだったら、本来のあなたから遠ざかっています。

影響を受けるな、というわけでもないし、影響を否定してるわけでもないです。ただ、我々は影響を通して、そこで学び、そして本来の自己と共に、この社会で自分らしく生きていく。

そういうことが必要だと思ってます。

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