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「光」への揺るぎない情熱 ―モネが浮世絵から学んだこと―

今回も、前回に続き印象派を代表する巨匠、「クロード・モネ」について、彼の「光」に対するこだわりに迫っていきます。

モネの絵は、太陽の光が水面に映える瞬間の輝きを描いた作品(具体的な作品名は「積みわら」や「睡蓮」)などで世界中に知られています。

しかし、そんな「光」にこだわり抜いた作風を生み出すまでには、やはり紆余曲折の道のりがありました。

今回はそんなモネが歩んだ道のりに焦点を当ててみましょう。

評価されない苦しみと光への執着心

モネは若きころ、アカデミズムに則った古典的で、伝統的な手法で絵を描いていました。しかし、その一方で、モネの心の中ではアーティストとして自分の表現をつらぬき、「光」を表現したいという想いが燻っていたそうです。

巨大なキャンバスに穴を掘り、光の見える外で、光を描こうとする「光狂い」ぶりだったそうですが、このような情熱的な作品は評価されることはありませんでした。それでも、ある審査員は一目でモネの才能を認め、将来を確信していたそうです。

結局、この頃の作品は伝統的なサロンの審査では落選してしまい、日の光を浴びることはありませんでした。

しかし、モネの中で「光」への情熱は決して揺らぐことはありませんでした。

日本の浮世絵の影響

1874年、モネは「印象、日の出」という作品を発表します。この作品は、光の一瞬の印象を鮮やかに捉えた力作でした。

ここから、さらに光を追い求めていく中で、モネは「光の一瞬性を連続的に描く」ことにこだわり始めます。

そこで着目したのが、日本の「浮世絵」だったのです。浮世絵の多くは、版画作られていたこともあり、何枚も同じ絵が描かれています。浮世絵を手にしたモネは、光を描く手法として連作の可能性を感じ取ったのです。

(油絵は1枚描くのに多くの画材などを使うため、時間もかかりますし、お金もかかったはずなので、何枚も同じ絵が描かれた浮世絵は新しいものに見えたと思います。)

日本の浮世絵がパリに舞い込んだ経緯

この頃ちょうど、日本が開国してから間もなく、日本の浮世絵がパリに大量に流入していました。それを仲介した立役者が、オーストリア人商人のジークフリード・ビングとフランス人版画家のフェリックス・ブラックモンでした。

日本は鎖国していたこともあり、ヨーロッパの人から見て日本のものは新しいものに写ったのでしょう。そして、ヨーロッパでは日本ブームが起き、2人はその波に乗り、大量の浮世絵を安価で入手してパリで販売していました。

軽量で丸められる版画だったため流通が容易だったのです。

時代を先取りした斬新な表現に、当時の画家たちは強く刺激を受けたのでした。

モネが"光"への想いを昇華させた瞬間

モネもまた、浮世絵から大きな衝撃を受けたことでしょう。しかし単に形式を真似たわけではありませんでした。モネは「連作」という手法を、「光の一瞬性」を表現するための手段として生み出したのです。

光は一瞬一瞬と移り変わっていきます。モネはその移ろいの様を、絵の連作で見事に描き出しました。結果として生まれたのが、印象派の最高傑作と讃えられる作品群なのです。

つまり、浮世絵はモネにとって単なる刺激にとどまらず、彼の「光」を表現したい想いを昇華させる原動力となったと言えるでしょう。

芸術の核心にある"光"への情熱

モネの作品を目にすれば、その「光」への並々ならぬ情熱と追求心を感じ取ることができます。浮世絵を手掛かりに、モネは自らの「光」への想いを芸術の頂点に押し上げたのです。

そこには、画家としての揺るぎない情熱と、時代を超越した芸術性の高さがあります。アカデミズムにとらわれることなく「光」を描き続けようとするモネの姿勢には、感動してしまいます。

評価されずとも自らの道を突き進む強さ、周りの影響を取り入れつつ自分の本質を見失わない芯の強さ、なんとも頑固といいますか・・・

Podcast「アート秘話〜名画に隠された世界〜」では、今回取り上げた内容を対談形式で語っています。こちらの放送もどうぞよろしくお願いします。


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