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[アートなトークシリーズvol.2]年の瀬にふりかえるヨコハマトリエンナーレ②

光の破片はつかまえた?
 〜市民の眼・科学の眼でふりかえる
  ヨコハマトリエンナーレ2020〜

前回に続き、横浜在住のアートナビゲーターで、科学を専門とするメディア・プロデューサー 村松 秀さんをお迎えしたインタビュー後編です。
ヨコハマトリエンナーレ2020」のふりかえりをテーマに、後編では科学の視点からのお話をメインにうかがっています。


2 科学の眼で作品をふりかえると?

毒と共存する、そのココロは?

ーーー2020年のヨコハマトリエンナーレ(以下、ヨコトリ)は、テーマは言うに及ばず、展示された作品も難しかったとよく聞きました。
私たちも作品の読み解きには頭をひねりました。

村松 そもそも「AFTERGLOW(アフターグロー)」という言葉も、なにを象徴させようとしているのか、最初は全くピンと来なかったんです。
ソースエピソードと言われても、その仕掛け自体の意味がわからない。
実際にヨコトリに行ってみて感じたのは、こんなにもキャプションを真面目に読んだのは初めてのような気がしたこと。

ーーー読むこともある意味、作品鑑賞の1つだったのかも。
今回はキャプションが展覧会の一部を成していた印象があります。

村松 そのこと自体は実は新しい体験だと思いました。
独特な投げかけのあるキャプションを読んでいくとすごく考えるし、作品とより向かい合う感じもあって、どんどん深くなっていく。
横浜美術館とプロット48の両方を回ったら、もうぐったり(笑)。

ーーー本当に頭がつかれました(笑)。
その中で、気になった作品はありましたか。

村松 美術館の順路に沿っていくと、まずはニック・ケイヴの《回転する森》ですね。
キラキラした圧巻の光景に飲み込まれて、最初は気づいてなかったのですが、キャプションを読んで、「ピストルとかあるの? あった、あった」という感じで見つけて。
そのあとに、2階にあったヨコトリの挨拶文で、ラクス・メディア・コレクティヴ(以下、ラクス)が掲げたという5つのキーワードを読みました。
その1つ、「毒」という言葉を見て、そうかなるほど、と思いました。

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ニック・ケイヴ《回転する森》2016年(2020年再制作)
ヨコハマトリエンナーレ2020展示風景

この作品自体は、作家側としては、社会に多様な暴力のようなさまざまな毒が入り込んでいると言いたいのかな、と受け止めました。
ただ、ヨコトリの挨拶文にも「毒」ということについて「新型コロナウイルス流行下の経験を予見するかの内容」とありましたよね。
ラクスがキーワードを提示した2019年にはまだまったく想定もしていなかった、パンデミックに陥った現在の状況を踏まえて考えると、とてもセンシティヴな作品にみえてきました。

ーーー“SNS映えする”と、たくさんの人が写真を撮っていた作品ですね。

村松 そう、「キレイ、キレイ」と写真を撮るためにみんな作品に近づく。
でも、大半の人はピストルに気づかないで過ぎ去るわけで、その作品へのアプローチのあり様が、まるで新型コロナウイルスみたいだなと思ったわけです。

ーーーウイルスですか?
それは作品と鑑賞者の見方のどこから思われたのでしょう。

村松 新型コロナウイルスは、感染すると人の体の細胞にあるDNA配列の中にすっと忍び込みます。
そしてウイルスは咳などと一緒に体の外に飛び出して、知らずしらずのうちにほかの人に感染していってしまう。
姿は見えないのに、社会の中にもはやごくごくナチュラルに入り込んでしまっています。
作品のキラキラとした輝きは、人が楽しそうに集う食事の場やライヴ、イベント、展覧会といったものが発する、ある種の光のようにも感じられます。人がたくさん集えば、どうしても感染のリスクが出てきます。
でも、人はそれでもキラキラした場に集いたくて行ってしまう。
その中には毒が隠れていて、時々それが牙を剥く。
時代を踏まえると、作品がそのようにみえてきてゾクッとしました。

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ニック・ケイヴ《回転する森》2016年(2020年再制作)
ヨコハマトリエンナーレ2020展示風景

ーーーなるほど。
とはいえ、人はずっと毒と共存してきたのではないでしょうか。

村松 ウイルスは宿主と共存するから生きていられます。
生きた宿主でないとダメなんですね。
SARASやMARSが新型コロナウイルスほど拡大しなかったのは、毒性が強すぎたことも理由の1つです。
宿主である人間が亡くなってしまうと、ウイルスは生きながらえる手立てがなくなるわけです。
新型コロナウイルスは、その絶妙な‘はざま’を突いたウイルスという見方もできます。
残念ながら亡くなった方もたくさんいらっしゃいますけれど、多くの感染者は本当に感染したのかどうかもわからないくらい軽症だともいいます。
この状態はウイルスにとって都合がよく、生き延びやすいし、そのことで再び感染させ、テリトリーを拡げることができる。
一方で、重篤な症状になってしまうケースも発生させてしまう。

ーーーなんだか衝撃の事実を突きつけられた思いです。

村松 今、各国がワクチンの開発をしていますが、ウイルス自体も短期間にどんどん型を変えていく。
ラクスは「毒との共存」をうたっていましたよね。
新型コロナウイルスはもしかしたら、次第に毒性が弱まる方向になって、長い時間軸で見れば、人間と共存していくようになるかもしれません。
そのことは同時に、僕らがこのウイルスとどう共存していけばいいのか、ということも問われているのだとも思います。
さらに言えば、いま、作品とコロナの共存を関連づけて話しましたけれど、ピストルがダイレクトに象徴する暴力などの恐怖が「毒」の1つならば、それとの共存は、すごくセンシティヴです。
簡単に共存などとは決して言うことはできない。
ウイルスも然りです。
「毒とどう共存することはできるのか」「そもそも共存していいのか」ということ自体、問われているのではないか。
そう思うと、とてもナイーヴに感じます。

植物の拡大戦略と毒

ーーー村松さんは「毒と共存する」、というラクスのキーワードから1つの作品の読み解きを示してくださいました。
ほかに「毒」で気になった作品はありましたか?

村松 インゲラ・イルマンの《ジャイアント・ホグウィード》ですね。
このモチーフになった植物は、美しいがゆえに中央アジアからヨーロッパへ観賞用として持ち込まれました。
ですが、毒性の強さゆえに、やがて疎んじられるようになったそうです。
人間の判断と言いますか、価値観で、生き物が本来生きる道と違うところで翻弄されている、そのようなことを強く思ったんです。
ただ、植物としては、ヨーロッパに行くなんてことは予期していなかったでしょう。
ただその一方で、動けないはずの植物が、“人間の力”ーー運搬力を使って、テリトリーを拡張したのかもしれないとも……。

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インゲラ・イルマン《ジャイアント・ホグウィード》
2016年(2020年再制作)
ヨコハマトリエンナーレ2020展示風景

中央アジア原産の植物、ジャイアント・ホグウィードの巨大化した姿として作品化している。その美しさから19世紀に観賞用としてヨーロッパに輸入され、世界中に広がった。樹液には強い毒性がある。

ーーー植物が人間の力を使ったということですか。

村松 これは以前にメディア・アーティストの藤幡正樹さんに聞いた話です。
蘭はヨーロッパにはなかった植物だったのに、美しさから重宝されて、今やアイスランドでも栽培されているとか。
火山の地熱を利用して、温室栽培をしているそうです。
このことは、蘭の植物としての「拡大戦略」としてはすごく意味があると。
植物の中には、花の美しさを武器に、そこに虫や蝶を集め、花粉を身体につけさせて違う場所へ飛んで行かせて、受粉させ、そうすることで子孫を残していく戦略を持ったものがいます。
それと似たようなことを、植物が人間にさせているとも言えますよね。
人間の運搬力はすごいものがありますから、人間に美しいとさえ思わせられたなら、テリトリーを猛烈に拡げていくことができるわけじゃないですか。
そう思うと、この有毒の植物も、もしかしたら自らの意思で、人間を喜ばせてテリトリーを拡げていったのかもしれないな、とも思うわけです。

ーーー強かな植物。

村松 毒を持っていることが、完全に「人間の自由にはさせない」という植物の強かさでもあったと強く感じて、「毒と共存する」という今回のテーマともつながっていく気がしました。
この植物は人間と共存することでヨーロッパに広がっていったともとらえられます。
一方で毒があることで、ある時点から人間に打ち捨てられてしまった。
今回の新型コロナウイルスの問題と重ねてみると、なおさら考えさせられる作品だなと思いました。

アートと遺伝子操作のビターな関係

ーーーウイルスも人間によって運ばれ、テリトリーを拡げていますものね。
ほかにも科学の視点で気になった作品はありましたか。

村松 いくつかあるのですが、特に印象的だったのは、横浜美術館で展示されていた竹村京さんの作品群と、プロット48のオスカー・サンティランの作品でしょうか。

ーーー竹村さんの作品では、どんな点が気になったのでしょう。

村松 気になった理由は2つありますが、まずは作品に使われている「蛍光タンパク質遺伝子」の説明をしますね。
この緑色に光る「蛍光タンパク質」というのは、生命科学の世界では非常に重要な役割を持っています。
「蛍光タンパク質遺伝子」は、あるタンパク質が生物の体の中でなにかしらの働きをしているのかどうかを見る場合に用いられる遺伝子なんです。
働きを見たいタンパク質の遺伝子と、蛍光タンパク質遺伝子をくっつけた状態にします。
そしてそれを細胞の中に入れて、培養したのちに、光を当てる。
ピカーッと蛍光が発すれば、細胞の中でそのタンパク質がきちんと働いていることがわかる、という重要なマーカーなのです。
例えば、マウスなどを使っても、生きたままの状態でタンパク質のふるまいを見ることができるわけです。

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竹村京「修復シリーズ」より
ヨコハマトリエンナーレ2020展示風景

オワンクラゲの、緑色に発光する「蛍光タンパク質遺伝子」を組み込んだカイコがつくった絹糸「蛍光シルク」。作家はその糸で、壊れてしまったかつての誰かの「モノ」の傷口を縫い、修復し、新しい生命を吹き込む。

村松 この「緑色蛍光タンパク質」は、日本の下村脩先生が発見して、2008年にノーベル化学賞を受賞しています。生命科学の世界では、とてもポピュラーなんですよ。
その「蛍光タンパク質遺伝子」を、竹村さんの作品では、我々が使う道具の修復に使っていることが面白い。
ものとものを共存させるために、糸で紡いでいく。
そのことをわかりやすくヴィジュアル化するために発光させる。
つなぎ合わせる、修復する、さらには、人と人とをつないでいく、交流させる、共存していくということは、普通はとてもわかりにくいことです。
この作品はそのことを、光を当てることで可視化した、ということなんだろうなと思いました。

ーーーある遺伝子を、目にはみえない共存・交流関係を可視化するために使った、と。
気になったもう1つの理由はなんでしょうか。

村松 先ほど(ブログ前半)も触れた、2001年の第1回のヨコトリで、エドワルド・カックという作家が《ジェネシス(創世記)》(1999年)という作品を出品していました。
これは聖書の一節をモールス信号へ変換してDNA配列に置き換えたものを、バクテリアの遺伝子に組み込み、シャーレの中で培養させた様子をヴィジュアル化して鑑賞者にみせる、というものでした。
これはヨコトリの歴史上、重要だなと思っていて。

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エドワード・カック《ジェネシス》のインスタレーション風景と解説
KAC WEB(エドワルド・カック公式サイト)より

村松 カックはヨコトリの前年、2000年に物議を醸す作品ーーフランスの研究所の協力を得て制作した《GFP bunny Alba(以下、アルバ)》ーーを発表しているんです。
ウサギに件の「蛍光タンパク質遺伝子」取り込み、光を当てると緑色に光るウサギを、アート作品としてつくり出した、というものです。
これはいくつかの面でセンセーショナルでした。
当時はバイオテクノロジーの発展によって、いろいろなことができるようになっていった時期です。
そのバイオテクノロジーを医療や生命科学のような社会に有意義なことではなく、アートのためだけに簡単に使ってしまってよいのか、倫理的に許されるのか、と大きく批判を受けたことが1つ。
さらに、ヨーロッパでは生物を実験材料として使うことが、動物愛護家たちからの厳しい目にさらされてきたという経緯もありました。
そんな中でよりによって「ウサギに……」と紛糾したんです。
そもそも、遺伝子の操作を行った生き物を、フランスの研究所から外に持ち出していいのか、ということも大きな問題になっていました。
カックが目指したのは、このような大問題になることも含めて、アートだということだったのでしょう。

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エドワード・カック《GFP bunny Alba》の解説
KAC WEBより

ーーー当時のカックのインスタレーションの記憶はおぼろげですが……。
お話しをうかがっていると、以前、森美術館であった「医療と芸術展」や「未来と芸術展」を思い浮かべます。

村松 その当時のバイオテクノロジーを使った、最先端中の最先端みたいなアートをつくった人が、やはり遺伝子操作を用いた《ジェネシス》という作品をヨコトリで出した。
キュレーションした河本信治さん(元 京都国立近代美術館学芸課長、当時は同館研究員)には、この作品でなされるようなことは「社会的に意義があるのかどうか」も含めて問う、そんな意図があって展示をされたのではないかと思うんです。
そもそも《ジェネシス》も、当時の技術で本当にそういうことができたのかという問題もありましたし。
カックは知り合いのバイオテクノロジー技術者と共同開発をやっていると言っていましたけれど、本当のことなのかどうかはわからない。
《アルバ》の写真も、フランスの研究所側は、あんなふうに光るわけがないと反論までしています。
2001年当時というのは、ヒトゲノムの全配列がやっと解明されたくらいの時期なんです。
カックの《ジェネシス》が本当なら、科学的にもきわめて最先端だったはずです。
それなのに、祝祭感のあるヨコトリの中で、こんな展示もしていて。
サイエンスの世界からすると、びっくりする感じがあるんですよね。

ーーー科学の世界から見ても驚きだったとは……。

村松 倫理的な面からもすごく問われる作品でもあるわけですし。
今年のノーベル化学賞は「ゲノム編集」を生み出した女性研究者2人が選ばれました。
これは遺伝子情報の編集を、技術的に簡単にできるようにしたことが画期的なんです。
ところが一方で、この優れた技術によって、さまざまな倫理的な問題も起こっています。
例えば、中国の研究者が受精卵に遺伝子操作を行って、実際に赤ちゃんを誕生させたというのもそうです。
技術が進めば進むほど、倫理の問題も新たに起こってくる。
技術の進歩と倫理問題には、表裏の関係があるわけです。
だからこそ、研究者たちは倫理についてきわめて真摯に考えています。

ーーー村松さんが竹村さんの作品が気になったもう1つの理由は、同じ領域の技術を使った表現ということに関係するのですね。

村松 アートとして、バイオテクノロジーの進展の裏側にある、倫理の問題をあぶり出してしまったかのような作品が2001年のヨコトリにあり、そして20年たったヨコトリで、同じくバイオテクノロジーを使った作品が出品されたーーそのこと自体に、ヨコトリとしての意味もあるように思います。
20年も経つと、私たち自身が遺伝子の操作について、あまり抵抗感がなくなっていて、そんな感覚で作品をみていることに気づかされます。
技術ができてしまうと、その生じた技術が存在することを前提として、その状況に思考を追随させていくものです。
技術そのものが抱えるセンシティヴな問題はあるけれど、僕らはすでにその技術があるのだから、「そういうものだよね」と、どこかで認めているようなところがある。
そんなふうに世の中は推移しているなと思うんです。

ーーー確かにそうかもしれません。
まず技術が生むメリットや便利さをとって、リスクや倫理の部分を棚上げしているかも。
遺伝子とは次元が違いますが、例えば、スマートホンやアプリでも新しくなくると、考えなしに追随しがちです。

村松 竹村さんの作品が持っている、なんともいえない温かさや、ものともの、人と人をつなぎ留めていく価値観は、とても素敵だなと感じました。
それは今の時代、すごくナチュラルに感じられるような感覚ではないかと思います。
ただ、それとはまた全然違うフェーズとして、ヨコトリの歴史の中で考えると、当時の科学技術の最先端だった遺伝子操作に感じていたある種の踏み込んでしまったような感触も、20年間のうちにどこか受容されていったようなところがある、とも思ったんです。
そのことには、もう少し目を向けたほうがいいのではないか。
これはヨコトリだからこそ、強く感じられることかも、と思います。

ーーー村松さんのお話をうかがっていると、社会そのものが20年のうちに変遷した状況が、作品から透けてみえてくるような気がします。
カックと竹村さんでは、同じテクノロジーを異なる方向にとらえているわけですよね?

村松 技術はあくまで技術そのものであって、それを「どうとらえるのか」「どう使うのか」というのは、私たち社会の側の考えに委ねられているはずです。
ゲノム編集も医学や生命科学に多大な貢献をしているからこそ、ノーベル賞に値するわけです。
それが少し変なほうにずれると、とても危険なことを伴う。
そう考えていくと、「毒との共存」をどうとらえるべきか、ということも透けてみえてきます。

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難解な科学について、非常にわかりやすく説明してくださる、村松秀さん。写真は、2019年のあいちトリエンナーレ2019にて

科学のロマンに不穏を包み込む不気味さ

ーーープロット48に展示されていたオスカー・サランティンの作品も遺伝子がらみでしたよね?

村松 これもどこまでリアルなのかは、よくわからない作品ですが。
遺伝子を操作するという、細胞レベルのミクロな世界での進歩を、壮大な宇宙へのロマンを求めていくことと結びつける。
それがなんとも不気味な感じがしたんです。

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オスカー・サランティン《チューインガム・コデックス》2019-20年
ヨコハマトリエンナーレ2020展示風景

月面に人類として最初に降り立った、元宇宙飛行士ニール・アームストロング。彼はかつて異星人が迎え入れられたとされる、アンデス山脈の奥地調査に同行していた。この元宇宙飛行士が噛んだガムを護衛兵の1人が拾っていた。アーティストはそのガムからアームストロングの遺伝子を抽出し、植物に取り込み、育った植物を宇宙空間に持っていこうと考えた……という構想を作品化。

ーーー不気味さとは、どういうことでしょうか?

村松 科学は、ある種の「ロマンを追求」していく、これがまさに本質でもあります。
科学がロマンを求め、正しく進歩していくことで、私たちはたくさんの恩恵を受けてきました。
ただ、ロマンの中にセンシティヴなことが入り込んできた時、その危うさがロマンにかき消されるようなこともある。
例えば、この作品は、月面に最初に降り立った宇宙飛行士アームストロングの遺伝子を植物に入れ、それを宇宙空間に持っていく、というストーリーになっています。
あまり考えないで聞くと、なんとなくとてもロマンを感じるような、ワクワクするような感じがするのではないでしょうか。

ーーーキャプションにあったストーリーからも、みた目からもかなりワクワクして、作品をみていました。

村松 ただ、よく考えてみると、植物に“わざわざ”人の遺伝子を入れようとすること自体、ちょっと怖い。
それ以上に怖いのは、この作品では、その遺伝子が「ニール・アームストロングの遺伝子でないといけない」ということ。
そこにゾワゾワする。
うっかりすると、これって優生思想につながる話じゃないですか。

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オスカー・サランティン《チューインガム・コデックス》2019-20年
ヨコハマトリエンナーレ2020展示風景

ーーーああ! 作品から、DNAがいつでも簡単に拾われて使われる、操作される可能性に怖さを感じていました。
でも今、お話をうかがって、優生思想にもつながるのかとショックを受けています。

村松 最近もSNS上で、高学歴・高収入の男性の精子を募集しているという女性の話が話題になっていましたよね。
この作品であれば、英雄であるアームストロングの遺伝子こそが求められたわけで、実はきわめてデリケートだし、センシティヴなテーマです。
それに、植物側に立ってみても、人間の遺伝子なんて入れてもらわなくていいわけでしょう?
じゃあウサギは? ネズミは? 植物はいいの?……というように、実験対象としての生物の境界線はどこにあるのか、という問いかけにも思えます。
これを我々はどう受け止めたらいいのだろう、と。

ーーーお話を聞くほど、思考のループに……。

村松 それに例えば、メジャーリーグで大活躍したイチローはもちろんスーパーヒーローですが、では仮に彼が捨てたチューインガムを大事に家へ持って帰ると考える。
そのこと自体は、ちょっと気持ち悪いですよね。
さらにそこからイチローの遺伝子をわざわざ取り出すことまでしてしまうとなると、かなりゾッとします。
アンデスの人たちのアームストロングに対する素直な経緯の念、スーパーヒーロー感を、ここまで高めてしまっていいのか……。
この作品は、よくよく考えると、すごくザラつくことがたくさんあって、どうとらえたらいいのかなって、無限のループにはまってしまいます。
まんまとラクスの術中にはまっている、そんな気持ちすらしてくる。

ーーー深いですね……。
お話をうかがっていると、目の前の情報を精査することなく受け入れている、鈍感になっていることに、改めて気づかされます。

残光にかいまみる、
ラクスの仕掛けとこれからのヨコトリ

ーーー今回は、前半でヨコトリの歴史をふりかえってくださったことで、都市型国際芸術祭としてのヨコトリ、横浜美術館の役割について、改めて考える時間になりました。
また、後半は科学的な視点からも作品を読み解いていただいたことで、目から鱗が落ちる体験もさせていただきました。
ただ、ヨコトリ2020は、ある程度知識がないと読み解けない作品も多かった、と改めて思ったのですが。

村松 僕の場合は、たまたま科学方面が好きだから、知っていることもあるけれど、知らないこともたくさんあります。
そういうものはいろいろ飛ばしてしまっているのかもしれません。
でも、全部わからないといけない、読み解かないといけない、というものでもないと思います。
僕が現代アートを好きなのは、まさに「わからなくてもいいじゃん!」と言える、その1点です。
正々堂々とそれが言えるのは、すごくありがたいなあと思っています。
なにか1つでも2つでも、生きていく上での「考える手がかり」があればいいかな、そう思います。
ただ、今回はやたらと考えさせられることが続いて、本当に疲れましたけれど(笑)。
それも含めて、わからなさと向き合うことには、とても意味があると感じるヨコトリでした。

ーーー本当に。
難解だと言われた今回のヨコトリですが、村松さんとしては重要な回だったと思っていらっしゃることを、お話の端々から感じました。

村松 僕は2020年という年に「このヨコトリがあった」ことに、すごく意味があると思っています。
アートを「つくる側」は、制作していた時点ではまだ、現在の社会状況まで思い至っていたわけではないかもしれません。
でも、今回のヨコトリは、2020年がもたらした特別な状況の中で、私たち「みる側」が「考えること」「考えざるを得ないこと」と向き合えるシチュエーションをつくってくれた。
そこにすごく意味があったと思います。
まったく予期していなかったコロナ禍と向き合うこともそうですし、それにそもそも、さまざまな文化や多様な価値観と対峙していかなくてはならない、まさにそういう時代でもありますよね。
そうした空気感の中で、私たちが今回のヨコトリの内容を提示された時に、よりグッと深く考えていくことになった。
ヨコトリ20年の歴史を考えても、「思考型」になっていった極みとしての今回のヨコトリの開催が、時代と真摯に向き合うべき「いま」というタイミングと、実は合致していたのではないかと思います。

科学というものは、研究成果だけでなく、結果に至るまでの「これはどういうことだろう」と考え抜いて考え続ける、プロセス全体のことなんです。
これはアートも全く同じで、思考し続けることが大事。
今回のヨコトリは、その思考のプロセスが育まれていったことが特徴なのでしょう。
エピソードやソースブックといったものも、ふりかえってみればそういうことか、と腑に落ちます。

ーーーなるほど!
そうとらえると、断片だったものがつながってきます。

村松 そういえば、今回のヨコトリでは象徴的なシーンに出くわしました。
横浜美術館からプロット48に行く時に小雨が降っていて、アフターグローのイメージヴィジュアルが施された傘を借りたんです。
途中にある工事現場の壁にも、アフターグローのイメージが描かれていました。
その前を傘をさした人たちが並んで歩いていて、でも、プロット48に着いちゃうと傘はたたまれて、アフターグローも終わってしまうんです。
アフターグローは刹那の瞬間、残光という言葉でもあるじゃないですか。
芸術祭や展覧会もそうした光みたいなもので、開催期間が過ぎれば、その光も消えていくわけでしょう。
光は瞬間、瞬間ですが、その瞬間を追って、考えることを積み重ねていくことがプロセスなんだろうなと思います。
ラクスも最後に言っていましたよね。
「次のヨコトリは始まっています。3年後に会いましょう」と。
そういうことだろうな、と。

ーーーお話をうかがいながら、今頃「光の破片をつかまえる」という意味が、少し飲み込めたような気がします。
考え続けながら、次回のヨコトリを楽しみにしたいと思います。
本日はどうもありがとうございました。

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ヨコハマトリエンナーレ2020 公式Facebookより

            (取材=アートハッコウショ 2020年10月25日)

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