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風は歌わない

 いつからだろう。神社仏閣で手を合わせて祈る人たちを見ると、面識がないにもかかわらず「その願い、どうか叶ってくれ!」と思うようになったのは。
悩みや願い事の内容が分からなくとも、本人にとって切実であることに変わりはない。

 特別信心深い人生を送ってきたわけでもない私が、近所の神社へお百度参りを始めたのは、八年前の春。母親が末期がんを宣告されたときのことだった。再発、持って余命半年、まだ六十四歳だった。家族で闘病生活を支えながら、母は元気になる、奇跡は起こると信じて毎日お参りした。それまでは年に一度の初詣くらいしか神社へ行くことはなかったが、手を合わせて祈ることが日常となった。朝の澄んだ空気や毎日顔を合わせる老人、夕暮れのカラスのけたたましい鳴き声などさまざまな営みの風景。一心に母の快癒を祈っている時だけは、死の不安から解放されたような気がした。

 最近、休日は山に登るようになった。一つの山でも登山道はいくつもあり難易度は異なる。体力がついてくると山頂に立つだけでは物足りなくなってくる。厳しいルートであればあるほど、自分の身体の限界と向き合うようで楽しい。中でもへんろ道はしっかりと踏み固められていて、多くの人がさまざまな想いを抱いてこの道を歩んで行ったのだと思うと気分が高揚する。雲辺寺山、国分駅から根来寺への道など登山の最中で出会った印象的な道はいくつもある。

 その日は海岸寺駅から弥谷寺、五岳山、善通寺、大麻山、金刀比羅宮を経て琴平駅まで歩いた。ストレスの溜まることが重なり、私の心はささくれ立っていた。弥谷寺へと向かう道で登山者の目に入ったのは古びた看板に書かれた言葉。

「心をあらい 心をみがく へんろ道」

 核心を突かれたようで、思わず立ち止まってしまった。ストレス解消と運動不足解消を兼ねて山に登っていた私は、心を洗ってはいたのだろう。だが、心を磨いてはいなかったのかもしれない。日々生きているとしんどいことは多々ある。いかに心を磨くかで、汚れにくい心、つまり物事を柔軟に受け止める心を持てるようになるのかもしれない。道中にある石仏や老木、境内を吹き抜ける風はもちろん何も言わない。ただ私を心地よく迎えてくれる。無心になって歩いていると、今日が何日かとか、仕事のいざこざなどあらゆるものが、脳裏から離れていく。

 母は医者の宣告通り半年後のさわやかな秋晴れの日に亡くなった。奇跡は頻繁には起こらない。私に残されたのは、祈ることで得られる透き通った気持ちの尊さだ。
 人が祈りを捧げるとき、差し出すだけでなく同時に心の平穏を得てもいる。祈ることで世界が劇的に変わるわけではない。ふっと一息つくとき、次の喜びに向けて心は歌いだしている。

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オリーブの心持
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