アートの役割(もしあるとすれば...)

いや、Henry J. Dargerのように、極めて個人的な表現が行き着いた先で特異な魅力を持つ、ということがあるということは重々分かっているのだ。でも、それでも多分、美術における表現は、その入口で、個人的な感覚の発露が何かすごい作品をつくると勘違いしがちであるように思う。

これが音楽ではちょっと違う。音楽では入口からルールがある。体系だった音楽理論があるし、意図的であってもなくても、音楽のルールに則っていない曲や演奏は調子っぱずれに聞こえてしまう。人と合わせて演奏することだって難しくなる。だから音楽家にとって、ルールの内側でいかに自分の意図するものを作り出せるか、というようなスタンスは意識するまでもないぐらい至極当然ものだ(そしてそれは充分に自由でもある)。

美術においても本当は、その入口で制約があった方が良いのだと思う。いやでも、その制約はなんなのだろうか。

音楽でなくてもう少し美術っぽいもので考えてみる。例えばプロダクトデザインなんかどうか。プロダクトデザインの場合、その行き先には、漠然としたものではあるけれどクライアントの求めるプロダクトが想定されているので、必然的にそれが制約となる。もちろんプロダクトデザインが、サービスやらビジネス全体やらのデザインを結局含むようになることは多々あるだろうけれど、ここで考えている制約という意味においてはあまり変わらない。

私が想定しているものは、プロダクトデザインのような制約で計画・制作されながら、いかにも美術的な使命を持つような作品なのだろう。それは結果的に表現でありうることはあっても、最初から表現を求めてつくられるようなものではない。

美術(家)は、たぶん「表現」という言葉自体を、一度捨て去った方が良いのだろう。その作品を通じて、鑑賞者や参加者に、あるいは社会にどのような変化を起こしたいのか、どのような反応を期待しうるのか。表現よりも、作品のメディアとしての役割を第一に考えるべきなのではないか。

村上隆のような、現代アート業界的なコンテキストと高度な技術を重層化していくような手法を礼賛したいわけではないし、艾未未やメディアアートのような社会派の現代アートを至上としたいわけでもない。もちろん技術も社会派なテーマも、とても大切なものではあるけれど、もっと身近な僕たちの生活の中で、生やら死やら、愛やら宗教やら、ふと人類の核心的な部分に触れてしまうような触媒のようなものとして、美術にはまだまだ可能性があるはずなのだ。

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