見出し画像

五劫院など東大寺周辺

2月12日からの五劫院の本尊特別公開に行ってきました。

五劫院は東大寺のすこし北の町中にありますが、東大寺の一院という形を取ってます。

[📷 五劫院南門]  

画像14

[ 📷 五劫院本堂 ]

画像4


長い修行で髪がアフロヘアーのように伸びた阿弥陀如来、
五劫思惟 (ごこうしゅい) 阿弥陀仏坐像 [※1] が本尊であります。

既に悟りを開いている「如来」が修行?と不思議に思いますが、
これは「五劫」という天文学的な長い期間「思惟」を続けた
「法蔵菩薩」が悟りを開いて「阿弥陀如来」となった瞬間を描いた姿だと、
本堂の前の解説板にありました。

一辺が40里=160km (或いは2000km) の岩の立方体に、3年 (100年説も) に一度天人が降りてきて、
衣をひと擦りすることを繰り返すうちに、その岩が無くなるよりも長い時間が「劫」だそうです。

法蔵菩薩は、その五倍もの長い時間を思索の修行を続けて阿弥陀如来となった、と「無量寿経」にあります。
( 「無量寿経」は「浄土三部経」の一編として岩波文庫でも読むことができます。 )

釈迦如来に関する「過去七仏」のごとく、「転生」を繰り返すということなんでしょうか。

「寿限無寿限無五劫の擦り切れ…」と長い名前が出てくる落語「寿限無」での「五劫」は、この仏様が由来ですね。

期間限定の特別公開ではありますが、予約が必要でした。

両手を下に隠した衣は、膝の上で「定印」を組むかのように盛り上がっています。

🔸

「長い時」からは、東大寺二月堂の修二会での「走りの行法」を連想しました。
観音菩薩の住む補陀落浄土は、人間界の時間より遥かに長い時間軸となっているとの言い伝えにより、「それに追いつくために」練行衆の僧たちが、二月堂の更に内にある中心部のお堂 [※2] の内部でグルグルと走ります。
硬い履物で走る時は、まるでその中心の堂自体が雷鳴を轟かせ、何か怒りを発しているかのごとき「大音響」です。
やがて履物を脱いだらしく、それからもグルグルと走る姿がシルエットで見えますが、次第に疲れてフラフラになっているようで、
他者の罪障を引き受け「辛苦を背負う」姿だと感じました。

修二会では寺の縁者などの名前を記した過去帳を読み上げる時、とても早く読む箇所がいくつもあります。名前が多いので、そうなって行ったのでしょう。
「長い時」「追いつくために走る」というのも、「多くの読み上げ」を合わせて「正統化」するための概念と見るのは考え過ぎでしょうか。

🔸

[ 📷 本堂前の万葉歌碑   水沫なす もろき命も 栲縄の 千尋にもがと 願い暮らしつ  山上憶良  (万葉集 巻5-902) ]

画像15

🔸

[ 📷 本堂東隣の地蔵菩薩石像 ]

画像16


画像3


五劫院本堂の右手、「見返り地蔵」石仏を横に見つつ墓地に入ると、
突き当たりに、第二次の江戸時代の大仏・大仏殿再建指導者、
公慶上人 [1648年-1705年] 墓所の、よく整備された大きな五輪塔が有り、振り向くと遠く大仏殿が見えます。
両者を「ツーショット」写真に収めようと、一時間ほどカメラを色々と構えている間も
他に参拝者は誰も来ませんでした。


画像1


画像5


🔸

この五劫院からさらに北へ行った伴寺跡の墓地の高い位置に、
俊乗房重源上人 [1121年-1206年] の墓と言われる古びた石の五輪塔があります [見出し写真 (正面),  下貼写真]。
元来は、いま東大寺俊乗堂が建つ場所にあったそうですが [※3]、
公慶上人による俊乗堂築堂の時にこちらへ移されました。
笠の平面が三角形のユニークな形です。

[📷 重源上人墓石塔背面 (東面)]

画像3

墓地のところどころから大仏殿が見えますが、
この石塔はおよそ西向きなので、ここからは古の平城京が望める位置関係となっています。

🔸

※1
五劫思惟阿弥陀仏坐像は、大仏殿西の「勧進所」にも有ります。
どちらの阿弥陀仏も、鎌倉時代の大仏・大仏殿再建指導者、俊乗房重源上人が宋から請来したと言われるユニークな仏像ですが、勧進所の像は合掌しています。

この勧進所は江戸時代の公慶による大仏再建のための施設でした。
入江泰吉が桜の時期に屡々撮影した東の正門 (奥の八幡殿に合わせて鳥居の形になってるのでは) をくぐると、

画像9

[📷 桜の頃の勧進所正門 (東門)]

画像8


左斜め向こうに、再建事業の疲労で片方の白目が赤くなった公慶の姿を再現した像を祀る公慶堂が東向きに建ち、

画像6


画像8


さらに中の門を入ると、突き当たりが
快慶作の国宝僧形八幡神坐像を神体とする東面の八幡殿、

画像10


右に五劫思惟阿弥陀仏を本尊とする南向きの阿弥陀堂が有ります。

画像11


※2
シンプルな形状の堂舎が中心部に建つ姿からは、
京都の白峯神宮の、拝殿などの建物に囲まれて、広い空間の中心部に単独で建つ社殿の状況を連想しました。
それは例えば、京都御所の南にある下御霊神社 (奈良の新薬師寺前の鏡神社で昔頂いたパンフレットには、下御霊神社の祭神に「吉備内親王」が含まれていると書いてました。) の、ミニチュアのごとく細かく入り組んだ建て方の社殿とは正反対の雰囲気ながらも、どちらからも何らかの「強調」されたイメージを感じます。

※3
いまの俊乗堂の位置には俊乗房重源が建てたという浄土堂が有ったとも言われます。
🔍 奈良国立博物館公式Tweet.  📝  画面左下の宝形造りの建物が浄土堂らしく、播磨の浄土寺に残る重源による浄土堂に似てますね。
堂内に描かれている五輪塔が伴寺跡に移された重源墓の石塔でしょうか。


[📷 東大寺俊乗堂]

画像16


画像13


🔶

🔍 東大寺公式ページ「修二会」「勧進所」


🔍 「小さなホテル奈良倶楽部」(五劫院の2軒西隣のホテル) さん公式ページ「奈良倶楽部通信」の記事「五劫院の阿弥陀さま東博へ!」 

http://naraclub-naraclubpart2.blogspot.com/2010/10/blog-post_10.html


📖 本ブログ関連記事 

(過去帳を早く読むことについて)





  [五劫院、重源墓所は2019年2月12日、勧進所境内は19年10月5日、桜の勧進所正門、俊乗堂は18年3月31日、18年4月4日撮影]
〔随時更新。20年4月5月12月21年1月4月22年2月11月23年2月更新〕

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?