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「アートと契約」ここが問題!海外との比較から見えてくる日本の文化芸術業界の課題


平常時にはその重要性に気づかない「契約」。しかし、今回のコロナ禍で、契約書の有無によって明暗が分かれた経験を持つ人は多いでしょう。実際、予定していたイベントが中止になり、報酬に関する取り決めがなされていなかったために、それまでの稼働分や経費に対しても報酬や制作費が支払われず揉めたとか、給付金や補助金等を申請するにあたって文化芸術事業を営んでいることを証明することができなくて困ったという話を聞きます。

アートマネージャー・ラボは、文化芸術業界では、他の分野と比べて「契約」の習慣が根付いていないことに危機感を抱き、「アートと契約」研究会を立ち上げました。まずは、アメリカの美術大学でアートを学び、2017年以降から日本に拠点を移し活動している山本れいらさん、Arts and Lawのファウンダーでアートマネージャー・ラボのメンバーでもある作田知樹さんを交えて、日本の文化芸術業界における契約にまつわる問題やその背景、アメリカ・イギリスの状況について情報交換しました。併せて、韓国の状況についてもリサーチしました。

山本れいら
絵画表現を中心に日本社会を描き出すアーティスト。自身が生まれ育った日本人としての「内の視線」と、高校・大学と留学して教育を受けたアメリカから見る「外の視線」を織り交ぜて「日本とはどういう国か」を問い直す。主な作品に、原爆投下から福島原発事故までを戦後の一区切りとし、日米関係をベースに見詰め直した「After the Quake」シリーズ、日本社会において妊婦が押し付けられる役割や社会的な抑圧を描いた「Pregnant Autonomy」シリーズなど。1995年東京生まれ。シカゴ美術館附属美術大学出身。
作田知樹
Arts & Considerations/行政書士作田事務所代表。京都精華大学非常勤講師。文化政策(文化行政)実務者・研究者。東京都行政書士会/日本文化政策学会/文化資源学会/デジタルアーカイブ学会他会員。上級デジタルアーキビスト。前国際交流基金ロサンゼルス日本文化センター所長代理(副所長)。2004年Arts and Lawを創設し、2014年まで代表をしていました。これまで国と自治体の美術館・科学館・芸術祭等での国際展業務、文化機関でのプログラムオフィサー、美大での教職、建築・都市計画関連の雑誌・書籍編集などに携わりました。著書『クリエイターのためのアートマネジメント 常識と法律』等。米国カリフォルニア州NPO法人「ARC]-[IVE」常務理事。

市民社会に契約文化があるアメリカ・イギリス

山本さんによれば、ギャラリーや美術館での展示はもちろんのこと、芸術家とコレクターなど個人間の作品売買においても契約書を当たり前に交わしていたといいます。契約書をつくるときは、芸術家本人がイチから作成することもあれば、大学から雛形をもらったりリーガルチェックを受けたりしながら作成することもあるそうです。いずれにしても、合意事項を書面化することに心理的障壁はなく、みんながカジュアルに契約書を交わす文化があるのだそう。

アートとアートマーケットに関する研究・教育を行うザザビーズ・インスティテュートでは、ギャラリスト志望者向けのカリキュラムが組まれており、そのなかで契約に関する基礎知識が教えられています。また、アーティスト向けの専門書には、契約に関するチェックリストも掲載されています。

また、作田さんによると、欧米では「レターヘッド」と呼ばれるヘッダーに所属組織の情報が掲載された公式文書用の便箋で文書を送ることが一般的であり、こうした文書の存在が、コミュニケーションの過程で、合意事項をこまめに確認していく役割を果たしているそうです。

政府が契約の仕組みをつくった韓国

韓国では、2000年代から芸術家の創作環境の改善するための政策議論が本格化していましたが、若手シナリオ作家が生活苦の中で亡くなったことをきっかけに、その動きが加速し、2011年11月に芸術家福祉法が制定されました。この法律に基づき、文化体育観光部(日本でいう文化庁に当たる政府機関)が、各芸術分野における契約実態を調査したうえで、標準契約書を作成しました。

※芸術家福祉法の成立に関する経緯については、このレポートが詳しい。

視覚芸術分野においては、韓国文化観光研究院を中心に、法律家、大学、美術館、財団、芸術家などを含む研究チームにより、芸術家とクライアントの間で交わされる契約書という位置づけで、「美術品売買契約書」 「委託売買契約書」 「展示契約」「レンタル契約」「新作制作契約」の5つの雛形が作成されています。

下のサイトでは、韓国の中央政府と地方自治体の政策研究情報が公開されています。上から3点目のカテゴリ「연구결과 정보(研究結果について)」にある「시각예술 분야 계약실태 및 표준계약서 개발 연구(150508 최종본).pdf(視覚芸術の分野の契約実態と標準契約書開発研究(150508 最終版).pdf)」に、上記5つの雛形が収録されています。全体像をつかむには、PDFの7枚目からの「요약(概要)」をgoogle翻訳などにかけてみるとよいでしょう。

韓国の事情を知るアーティストによれば、これまでは韓国でも、若手芸術家が美術館やギャラリーに対して「契約を結んでほしい」「こういう条件にしてほしい」とは言いづらい雰囲気があり、また、内容をよく理解しないまま契約してしまって、トラブルが発生して泣き寝入りをする芸術家も多かったとのこと。しかし、標準契約書が整備されたり、「作家側から条件を提案してもよいのだ」「疑義が生じた際には両者で協議すべきだ」というメッセージが明確になったことで、作家側の契約に対する意識も変化してきているそうです。

芸術家が声をあげづらく実態も見えづらい日本

山本さんが日本に帰国して驚いたのは契約文化がないことでした。知人の作家から契約トラブルに関する相談を受けることも多い彼女ですが、名の知れた芸術祭クラスでも口約束のみで書面化されておらず、支払いが滞っているという話や、作家(特に女性)とギャラリーの間でのトラブルも聞くとのこと。

山本さんは、日本では欧米に比べて、芸術家の社会的立場が弱いことと、キャリアにつながる発表機会が限られている中で、トラブルに関して沈黙せざるをえない状況があるように感じているといいます。また、美術大学や一般大学の学芸員課程のカリキュラムには法律や契約に関する科目が必修として入っていないし、そもそもそれ以前の教育課程で、近代社会では当たり前の人権の意識が育まれていないことも影響しているのではないでしょうか。これは、賃金や報酬の不払いに限ったことではなく、ハラスメント全般の根底ある問題でもあります。

韓国では、先述の芸術家福祉法に基づいて芸術家福祉財団が設立され、身分証明を発行、社会保険、助成金・融資、相談支援などを行っています。こうした機関によって、芸術家が存在が可視化され、組織体として声をあげやすい環境がつくられていると考えられます。

※芸術家福祉財団のウェブサイト(韓国語)

一方で、日本の芸術家は大学を出た後どこで何をしているのかが見えづらいため、労働やハラスメントの問題も見えづらくなっているのかもしれません。昨今のコロナ禍での動きにも表れているように、舞台芸術・映画関係者は比較的早くに実態調査や基金の立ち上げなどを行った一方で、視覚芸術の作家たちは所属組織がない人も多く、また複数組織の連合体のようなものがなく、声を集約しづらい状況にあったといえるでしょう。

※現代美術分野の動きとしては(公財)小笠原敏明記念財団の調査があったが、上記のような組織を超えたムーブメントではない。

日本の文化芸術業界に契約を浸透させていくには

 現実問題として作家が声をあげづらく、連帯しづらい状況にあるなかで、作家と関わるギャラリー、美術館、芸術祭、財団や行政機関などのスタッフが、契約に関する知識や習慣を身につけることは、急務だと考えます。

一方、作家にとっては、契約書を読み解く技術、交渉する技術、口頭で条件を提示された際にはメールでもよいので文章化して送っておくといったちょっとした工夫などを知っておくとよいでしょう。また、トラブルが生じた時の相談先を知っておくことも安心につながります。欧米のように美術大学のカリキュラムに組み込まれていることが望ましいですが、一足飛びにそうはいかなくても、自助的な勉強会などで意識づけを行っていくことが有効だと考えています。

今後の課題

「アートと契約」研究会では、メンバー同士の情報交換や、専門家へのヒアリング等を通じて、日本のアート業界に契約の習慣を根付かせていくための研究開発を行い、そのプロセスを講座やウェブを通して随時公開していきます。

さしあたってのトピックは以下のとおりです。
・文化芸術事業における契約の実態とトラブルについて調査する
・主要な契約主体と契約形態を絞ったうえで、契約書に記載すべき標準条項とオプション条項を整理する
・法律と契約に関する参考書籍等をリストアップする
・アートと法律に関する相談先をリストアップする

これらのトピックに関心のある方のご参加を歓迎しております!


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