写真の言語化
SNSで時折繰り広げられる、写真の言語化の論争について
最近考えさせられることがあったので、今日はnoteに書こうと思います。
僕自身、写真の言語化について、時に必要であるが、不要であるときもある。と思っています。答えとしては曖昧となってしまうのですが、その理由についても述べようと思います。
写真の言語化について、なぜ必要なときと不要なときがあるのか。
その理由として、写真の持つ意味の違いが挙げられます。
言語化が必要な場合
言語化が必要なときは、人に写真の意図を説明する必要があるときが挙げられます。よく写真展で「どうしてこの写真を撮ったんですか?」と聞かれることがあります。
質問者の意図も様々ですが、きっと素朴な疑問から生まれたであろうこの問いに、表現者であれば明確な答えを持っておくと、より伝わる写真展になるかと思います。
例えば私が撮影したこの寄せ氷の写真は、湖などの水面で、結氷や解氷する過程で割れた薄氷が風や波によって湖岸に押し上げられる現象ですが、これを撮影することにより、寒さと自然が作り出す冬の美しさを表現できたらと思っています。
この写真は、北海道の写真展を開催する中で、冬を表現するに相応しい写真だと思っていて、このような冬や北海道ならではの写真を撮れたらと思い、北海道では撮影をしています。
次に言語化が不要な場合
言語化が不要なときは、記録的としての写真の場合です。
スナップや旅先での思い出写真など、記録として撮影したものに理由はあまり存在しておらず、”楽しかったから撮った”という答えでもありだと私は思っています。
結論として、写真で何かを表現をするときや、写真で何かを伝えたい場合は、写真を撮影した意図、なぜそれを撮影するに至ったのか。
どうしてそのように撮ったのか。など答えれると、より伝わる写真展になるかと思います。
その逆として、記録や思い出の写真はそういう意図を気にせず、楽しみながら撮影してもらえたら、楽しく写真ができるのではないでしょうか?
写真の言語化について、結果としては曖昧な答えになってしまいますが、明確な使い分けをすることで、写真についての理解が深まりより楽しくなるのではないかと思います。
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