『黄色のチューリップ、紫色のチューリップ』

 二十一歳になった。
 私のてのひらの中にあるのは、もう思い出せない嫌な思い出ばかりで、皆より何歩も何もかも遅れているような気がしてしまう。人が私に与えた傷、私が私に与えた傷が治らないままだ。本当は愛だってたくさん貰ってきた筈なのにね。高潔で在りたい。人に優しく在りたい。だから不器用で、上手く生きれなくて、被害妄想とそうでない妄想とに苛まれて日々頭が痛い。
 とは言ったって、病み病みうじうじしているだけでは生活はままならない。恵まれていることにも自覚があって、私が言っていることは我儘だと思う。もう大人になってしまった私は、自分の足で立っていなければならない。その道は、残念ながら私好みの空想世界なんかじゃなくて、ちゃんと現実にあるのだと認めるのに二十年かかった。
 黄色いチューリップの花言葉は「正直」「報われない恋」だと言う。生まれながら「報われない恋」の花言葉を背負った私は恋愛アンチであり、孤独死を目指している。ただ、今年の二月。明確に恋をした。これは私の人生においてとんでもない変化であった。私が嫌いなのは私の恋愛観から外れた一般的な恋愛観であって、私が私の恋愛観に則って、理想の私として人に恋をすることは、至って前向きな素敵な変化であると思っている。これは前に詩でも書いたけれど、人はそれぞれ球体の星のような世界を持っていて、私のそれと誰かのそれがふっと揺れて触れたときに鳴る美しい音が恋だと思う。互いに侵食されることなく、形を変える必要などなく、その刹那こそが恋なのだ。それが、訪れた。ウィンクをしない彼の目に、心が揺れた。
 私は彼に恋をしたことで、素敵な明日が来るようになりましたと言いたい。そう言えるような自分でいたい。自意識過剰でシャイな自分には、好きですと伝えることは出来ないから。好きですと伝えるみたいに、貴方を好きになって私の人生は好転しましたと言えるようにしていたい。貴方が光なんだよって、言わないから、知らなくて良いから、私はそうでありたい。これが二十一歳の私の目標です。
 それから、紫色のチューリップの花言葉は「気高さ」「不滅の愛」だそう。私のハートの器は、愛でいっぱいに満たされていて溢れている。君にもあげよう。誰にも彼にも。今は元気があるから、そんなことも言えるよ。私には、こんな人になりたい、と思っている相手がいる。それは「気高さ」という言葉と紫色がよく似合う人だ。わざとらしくコケティッシュで、とってもピュアで、繊細な人だ。ポエミーな人間のことを私は信用している。言葉に頼らなければ、呼吸が出来ない人のことを信用しいる。そういう人のことを綺麗だと思う。そうなりたい。もうすぐ春にもなる。春風に揺蕩う花の香りが、青い空に浮かんで、冷たく暗いその色を消し去ってしまうほどに色濃く香れと思う。
 傷は治らないし、明日は来る。太陽は眩しくて、月は静かだ。愛はたくさんあるのに、元気がないときばかりで、まだもがいている途中だ。このもがきが、終わるかもわからない。自意識過剰で感情も過剰。私は私がよく見えていないし、言葉を並べて尽くしてみても輪郭が定まらない。二十一歳にもなってずっと何を言っているのかもわからない。この文章は吐瀉物と一緒である。
 私のてのひらを、ぎらぎらに尖った宝石のような最低な思い出が傷つけようとも、胸元に抱きしめるのは愛と、二輪のチューリップ。一年生きることは大変なことだ。人は簡単に死ぬ。頑張って、生きよう。二十二歳になってもセンチメンタルに浸って春眠に興じているだろう私の元へ、這い蹲って会いに行くのだ。 

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