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自他分離と自他融合

年末にも関わらず、仕事の山に埋もれている。例年受けていた仕事を他の人にどんどんお願いしているのに、仕事の量が一向に減らないのは、品質へのこだわりが妙に出て、一つひとつの仕事に費やす時間が三倍くらいに増えているからかもしれない。

娘と金沢に来ているが、どこにも出かけたくないというので、相変わらずホテルの部屋に籠もっている。訪れてみたかった西田幾多郎記念哲学館も、鈴木大拙館も今回は諦めるしかない。

金沢には姉弟の家族が多く住んでいるが、私が来たことは誰にも言っていない。義理を欠くようで後ろめたいが、こんな年末に声をかけてもあっちだって当惑するだろう。親戚付き合いが苦手なところは父親にそっくりだと我ながら思う。

それで今年の夏頃に、去年受けた適性診断を1年ぶりに再受講してみたことを思い出した。その結果から得られた示唆は、正しい方法を採用すれば、変わりにくい内面も変えることができる、ということだったのだけど、「他者との協働」カテゴリーだけまったく変化が見られなかったのは、私の人間関係における問題が相当深刻で根深いことを物語っている。

人は一人では生きられない、というのは絶対的な真実だと思うけど、そこに真っ向から反旗を翻すかのように自己完結してしまっている。娘を見ていると鏡写しのようでなんとなく自己を俯瞰できるが、自分の世界を堅固に構築し、その中に引き籠もっているのが今の自分なのだろう。

この頑なに自己開示しようとしない根っこの要因は一体何なのだろう。

父親譲りの寡黙で職人気質な性格や妙なプライドの高さ、HSPとして人の感情に過敏に反応してしまうことも影響しているのかもしれないが、根っこは「他人様から興味・関心を持たれるような人間ではない」という自分に対する徹底した諦めであるような気がした。しかしこの辺が根本からずれていて、そうじゃなくて自分が他人にもっと関心を示そうよ、とも思う。じゃあ他人に関心を示せない自分の根っこにあるのは一体何か。

結局自分を諦めているからなんじゃないか。

過去のどこかで自己開示して痛い目にあったのかも。確かに弱みを見せた途端にぴしゃりときついことを言われることはあったと思う。そういう自分も、過去に人の弱い部分を受け入れずに批判してきたことは枚挙にいとまがなさそうだ。

人との接触を極力回避しようとしてしまう極端な性向。こういう「自他分離」したい自分がいる一方で、内面を掘り下げていくと、人への強烈な愛着心が潜んでいることにも気がつく。曲がりなりにも自分に家族がいるのは、この愛着心があるおかげなんだろうなと思った。こちらは「自他融合」したい自分と言える。元々は母親(もしくは両親)への愛着なんだろうけど、どうもこの愛着心がこじれて人間関係をうまく構築できない要因になっている気がする。幼い頃に十分に愛着心を満たしてもらえなかったのだろうか。

母親を見ていると、自分がそういう愛着障害を抱えている可能性はあるなと感じる。世にいう毒親とまでは言わないが、母は人との関わりについて、想像力が働かないというか、感覚が微妙におかしいところがある。

ちょうど心理学者であるヴィクトール・フランクルの『夜と霧』を読んだ。私の父方の祖父が、シベリア抑留で亡くなったことを思い出した。祖父が永眠しているというハバロフスクにはいつか行けたらと考えている。

強制収容所での生活は想像を絶するものがあるけれど、メタファーとして捉えれば、今の社会に生きる我々だって「看守」と「被収容者」の関係に近しい構図をつくりだす危険性を十分に孕んでいる。私が携わっている仕事は特に!

仕事でも家庭でも、そんな人間関係だけはつくりたくない。
人とのコミュニケーションがうまくない自分ではあるが、人間を人間として尊重し、ご縁ある人に人間らしく接し続けたいと願った。

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