思索の愉しみと人生のネタバレ
一年の締めくくりで何か書いておこう。
今年は多難な年だったな。とポツリ。
未来に希望を感じ取れなくなったのは生まれて初めてかもしれない。ずっと仕事のせいかと思ってたけど、違った。
つまるところ仕事など大した問題ではなく、価値観が異なる人との関係に切実に悩んでいた。特に家族との心のつながりって自分にとって大切で、人とつながってる感覚が得られないと未来への希望さえ見えてこないんだなと痛感した。
これまでどうやって希望の光を見いだせていたのか不思議なくらいだったけど、要は大切な人とつながりあっている感覚さえあれば、いくらでも希望の光は湧いてくるのだと思う。
しかしどれだけ頭でわかっていても行動に移せないのがもどかしい。
たったの一歩が、なぜか踏み出せない。勇気がない。
むしろ孤立する方向へ行動してしまう謎。
ある自己分析の結果が興味深かった。
・果てしない熟考
・ひとりが好きすぎる
・妥協とは無縁
・危ない橋は渡らない
うわ。面倒臭い人がどんどん際立っている。
これで人とつながりたい、とか言うから、もう苦悩しかない。いい加減あきらめるか。
他人を自然と立てることができる人ってどういう境地に達しているんだろう。他者貢献したい、と思えば思うほどに、そうできてない自分を見つけてしまう。
内省で確立された自己は、現実世界では単なる自己満足に成り下がってしまう。自己表現と言えば聞こえはいいが、要は顕示意欲の暴発ってことでは?
根っこで自分には存在価値がないと疑っているから、そんなにまでして自己の存在を証明したいと思ってしまうのかもしれない。人はただ存在するだけで価値があるというのに。それを自分に腹落ちさせるのはとてつもなく難しい。
凡庸で終わることへの恐怖。だから生きるのに必死で余裕がない。よほど気を引き締めないと、何をするにも自己アピールが目的化してしまう。自分はまだまだ人間として未熟なのだ。
つくづく人の強みと弱みは表裏一体、光の当て方次第だということを痛感している。自分を使えば使うほど、強みの能力が高まり、一方で何かが決定的に弱体化していくのがわかる。
強くなるほど弱くなる現象。
苦難を肯定するつもりはないが、個人的には苦しい経験が自分を成長・成熟させるために必要な気がする。いいことばかり続くとすぐ調子に乗り、後で自己嫌悪に陥る自分は、あえて苦難を抱え込むことで謙虚さを維持しようとしているのかもしれない。
しかしどうしてこうも生きづらいのか?
生きることへの違和感。
そもそものはじめから、私はこの人生を生きることに同意したつもりもない。
人生そのものにそこはかとなく漂うアウェイ感は、神秘学を学ぶことで腹落ちできた。
神秘学の理論では、この人生は自分の魂にとってまさにアウェイなのだ。
魂には現実世界とは別にホームとしての還る場所があり、現実世界には出張で来ているだけなんだと思うと、このアウェイ感も納得できる。
まだしっくりこなくてあまり肯定したくもないが、人間の目的は至高の存在へと進化することだとする。その理屈でいうと人生はあまりに短すぎる。だって悟りとか無我の境地とか無償の愛とか涅槃に入るとか宇宙との一体感とか、たった一回の人生で到達するのは無理ゲーだもの。
つまり、肉体にとってこの人生は一度きりですべてなんだけど、魂にとっては全体の人生(メタ人生と呼ぼう)のごく一部にしか過ぎない。この人生が終わるとまた別の人生が始まり、それを繰り返すことによって進化の道を辿っていく、ということになる。
要するに現実世界は魂の修行の場ということになるな。厳しい現実の中で魂は磨かれ、前よりもちょっと成熟してホームへと帰還する。魂が高みに上るほど、坂道は急勾配になり、苦難もまた大きくなっていく。そう考えると、いろいろな違和感に説明がつく気がする。
うーん、神っぽいな〜。
人生のネタバレじゃん。
しかし至高の存在へと進化することもまた手段である。その先の目的を達成するために、やはり人は現実世界に働きかけていくことが、生きる上で大切なんじゃないだろうか。
意志をもって何かを創造することの意味ってそこにあるのかもしれない。
私はそういう意味での志創家(しそうか)になりたい。
沈殿した一年だったけど、じっくりゆっくりと思索が進んだ年でもあった。人の成長や人生の神秘について、ああでもないこうでもないと構想を練るのが愉しく、知的満足感と幸福感が得られるひとときであった。
来年も静練燃心。静かに魂を練り、心を燃やそう。
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