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「宗教は民衆のアヘンである」って誰の言葉?(あと、どんな意味?)

1.【誰の言葉?】

「宗教は民衆のアヘンである」。

 この言葉を耳にしたことがある人は多いと思います。
 ですが誰の言葉だったかというと、はてそういえば誰の言葉だったかな? と首をかしげる方もまた多いのではないでしょうか。

 それではここで唐突にクイズです。「宗教は民衆のアヘンである」。一体誰の言葉でしょうか?

【回答】
①イエス・キリスト。
②カール。マルクス。
③安倍晋三。

 はい、正解は...そうですね!
 ③ですね!
 という冗談はさておき。
 正解をご存知だった方も多かったかもしれません。

正解は②になります。

 しかしこの言葉、一体マルクスのどの著作に出てきたものかをご存知の方は、ぐっと人数が減ってしまうのではないでしょうか。
 マルクスといえば...『資本論』かな? それとも『共産党宣言』かな?
 いかがでしょうか。

正解は『ヘーゲル法哲学批判』になります!

 なんじゃその本。なんでマルクスがヘーゲル哲学を批判する本を書いてるの?

 という声が聞こえてきそうなので、ちょっと補足させていただきます。

2.【どの本に載っていた言葉?】

 ご存知(?)のカール・マルクスは1818年、ドイツ(当時はプロイセン王国)のトーリアという地方で誕生しました。ユダヤ人の両親のもとに生まれ、父親の職業は弁護士であり、生家は十分に裕福だったと伝えられています。

 1835年にボン大学に入学すると、ひと悶着あって翌年には18歳でベルリン大学に転入します。

 なぜこの話しをしたかというと、一つには資本論を書いたマルクスの生まれはお金持ちのボンボンだったということ、あと一つにはこの大学時代にマルクスの今後の一生を変える大きな知的出会いがあったからです。

 当時のヨーロッパの大学は何かとクラブ活動が盛んだったのですが、そこでマルクスは「ドクトル・クラブ」という知識人が集う酒場に出入りするようになります。そしてなんと、ここがヘーゲルのお弟子さんたちの一派、つまりヘーゲル左派の哲学者たちの溜まり場だったのです。

 ここでマルクスはヘーゲル左派の思想にどっぷり漬かり、自らの哲学思想の素地を練っていったものと考えられています。

 大学卒業後、マルクスはこれまたひと悶着あって『ライン新聞』という地方紙の新聞記者になるのですが、このときマルクス23歳。

 そしてわずかこの3年後には、先ほどご紹介した『ヘーゲル法哲学批判』を執筆します。雑誌に投稿するような論考としては実質処女作といってもいいと思います。

 そして彼は哲学者人生最初期の作品のテーマとして、慣れ親しんだ『ヘーゲル法哲学』と、これと同時に寄稿した『ユダヤ人問題』の2本を選んだのでした。

 大学時代にヘーゲル左派哲学の中で揉まれたことで社会批判意識が醸成されていたとは思うのですが、若干26歳にして「宗教は民衆のアヘンである」なんて言い切ってしまうあたり、すでに只者ではないオーラを感じてしまいます。

3.【どんな意味?】

 さて、前置きが長くなりましたがここからが本稿の本題です。

 マルクスは「宗教は民衆のアヘンである」という言葉で、一体何を伝えようとしていたのでしょうか?

【回答】

①マルクスは、「宗教はアヘンであるから、続けていると中毒になってしまう。やめるべきである」。

②マルクスは、「生きるってつらいことだから、ついついアヘンのように宗教に救いを求めてしまう。鎮痛剤を打たないといけないほど、社会は世知辛いのである」。

 わたしは正解は②だと思います。

 その理由は...まだ少し続きが必要です。
 気になった方は先に読み進めていただけると嬉しいです。

4.【宗教で中毒になるとは言っていない】

 ...といっても、実際に読んでみないと本当にそうなの? ってわかりませんよね。
 というわけで、今回は本稿の最下部に「ヘーゲル法哲学批判』の原文(ドイツ語版)をわたしが和訳した、作品の冒頭→「宗教は民衆のアヘンである」という登場箇所までの翻訳を掲載しました。

 出典はwikisourceからで、URLも貼っておきますが、誰でも無料で閲覧することができます。わたしが辞書を引き引き翻訳しましたので版権フリーでもあります(その代わり翻訳の精度は保証できませんけれど)。

 さて、お読みいただけるとわかりますが実際に本文を読むと『中毒』、『中毒のせいで不幸になる』という主旨の表現は登場しません(そしてこの本の中で、アヘン(opium)という単語が出てくるのはこの箇所が最初で最後、一ヶ所のみです)。

 これがわたしが①を選ばない理由です。

5.【宗教を求めるほど生きるのがつらいのだ】

 さて、②についてはどうでしょうか。

 マルクスは、『人間が宗教をつくるのであって、宗教は人間をつくらない』と述べました。そして人間のつくった宗教が生んだ当時の宗教的世界観を、『倒錯した世界』であると批判しました。

人間が宗教をつくった。だから人間がつくった宗教によって人間が救われるというのは、原因と結果が倒錯しているのだ。しかし生きることは、つらいし、しんどい。

耐えがたいほど痛みが込んでしまったとき、人々がアヘンに頼ってしまうように、人々は自分たちがつくった宗教に苦痛の和らぎを求めてしまうのだ...一時的に痛みが和らいでも、苦痛のタネは解決しないというのに。

 そしてマルクスは後年、こうも考えます。

宗教は人間がつくった。そして社会も人間がつくった。ところで、人間が救われるためには苦痛からの解放が必要だ。はたして人間は苦痛を我慢して、現状のまま宗教に救いを求めるべきなのだろうか。

それとも苦痛の原因となる社会をつくったのは人間なのだから、苦痛を生まない社会をつくることが、目指すべき社会改革の方向性なのではないか」

 こうした苦痛の原因と解放を、経済的な社会構造の観点から分析したものが、かの有名な資本論といえます。マルクスが26歳のときに示した本作の精神は、しっかりと後年の大作に引き継がれているのです。

6.【マルクスは宗教を否定したのか?】

 最後に。「宗教は民衆のアヘンである」ということによって、マルクスは宗教の存在を否定したのでしょうか。

 マルクス本人は確かに無神論者だったといわれますが、マルクスが自分の立場を敷衍して、宗教の存在を社会的に否定したという決定的な定説はありません。マルクス自身の言動も、時期や場所によってそうだったりそうでなかったりだったと伝えられています。

 ここからはわたしの考えですが、マルクスは必ずしも宗教の存在を否定していなかったのではないかと思います。

 なぜならマルクスが最終的に社会改革として目指した方向性は資本主義社会の打倒と共産主義社会の樹立でしたが、マルクスが「人間が宗教をつくった」と指摘したように、来たるべき共産主義社会もまた人間がつくるものだからです。

 共産主義社会が人間を救済して、同じく人間がつくった宗教は人間を救いえないというのは理屈に合わない主張のように思われます。

 むしろマルクスは現実の生きるつらさ苦しさを、神による救済を建前にして民衆に甘受させようとする、当時の宗教的な世界観に危機感を感じていたのかもしれません。

 マルクスが目指したことは人間の幸福であって、革命後に経済的なつらさ苦しさから解放された人々から、さらに神を信じる幸福まで奪おうと思うことはしなかったのではないでしょうか。マルクスの知性は宗教のすぐれた面や社会的役割に理解を示していたように思えます。

社会は人間がつくったものならば、人間がつくり変えることもまたできるはずです。

 民衆が、ただつらさ苦しさを和らげるためにアヘンのように宗教に退避的な救いを求めようとすること。そして当時の宗教的指導者が、民衆にただ慰めしか与えず、いずれも現状を変えようとしているようには見えなかったこと。

 マルクスにはそんな当時の情勢に危機感といら立ちを覚えたのかもしれません。

 民衆が行うべきは、アヘンを打って横たわることではなく、社会を変えるために立ち上がることなのではないか。

 これがマルクスが、『宗教は民衆のアヘンである』という表現を通じて伝えたかったメッセージなのではないかとわたしは思います。

7.【お礼と翻訳について。】

 長い投稿となりましたが、ここまでお読みいただいたみなさん、最後までお付き合いいただきありがとうございました。もしマルクスの問題意識にご興味をお持ちいただけたら、文末の訳文に挑戦していだけると嬉しく思います。

 みなさんがどうお感じになったかは、いつかどこかの機会でお聞かせくださいませ。

 それでは失礼致します。

『ヘーゲル法哲学批判/カール・マルクス著』

 宗教の批判は全ての批評の前提である。そしてドイツは宗教への主要な批判を終えた。

 天国の祭壇と炉への祈りは論駁された。冒涜的な錯誤の存在は、面目丸潰れである。人間は空想上の天国へ超人を探しにいったものの、結局そこで見つけたものは現実的な自分自身の反映であった。

 もはや自分と同じ外見をしたもの、人間以下のものを探しにいこうとは思わないであろう。天国とはいえ探しにいくものは真の現実であり、そうするべきである。

 非信仰的な批判の基礎とはこうである。『人間が宗教をつくるのであって、宗教は人間をつくらない』。

 宗教とは実のところ、まだ自分自身を手に入れていないか、もしくは自分自身を再び失ってしまった人間にとっての自意識であり自尊心である。

 しかし人間は世界の外側に屈み込んでいる抽象的な存在ではない。人間、それは人間の世界、国家、社会そのものである。そして国家や社会が宗教を生み、その宗教が生んだものは倒錯した世界意識、倒錯した世界であった。

 宗教は世界の全般的な理論である。百科全書的な要約であり、人民受けする論理であり、精神上の格別の名誉であり、熱狂であり、道徳的な制裁であり、儀式的な補完であり、全般的な安らぎと正当化の基礎である。

 宗教が人間の本質の空想的実現であるのは、人間の本質が真に現実的なものを何も有していないからである。宗教に対する闘争は間接的に、宗教的芳香を持った倒錯的世界に対する闘争なのである。

 現実的な困苦の表現、そして現実的な困苦への抵抗の中に宗教的困苦は存在する。宗教は悩める被創造物の嘆息である。精神なき状態の精神であるように、心なき世界の感傷である。宗教は民衆のアヘンである。

出典:wikisource

https://de.wikisource.org/wiki/Zur_Kritik_der_Hegel%E2%80%99schen_Rechtsphilosophie

訳:toshi_san

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