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日常

生活あれこれ。


自分が好きな短歌と、お題のために作った短歌。後者の方が私はしっくりきていないんだけど評価が高い。仕事もそんなもんだったりする。私はこれがいいと思ってこだわりを持ってやっても、何気なくやってることの方が評価されたりすることはよくある。私は何気なくできること、力を入れなくても自然にできることが自分の得意なこと(=人よりできること)だと思っているので、本当はそっちを見つけて伸ばした方が能力伸長になるんだけど。
でもこだわりだって大事じゃん。私が大事だって思ってんだから大事じゃん。それパクの北脇さん(重岡)から借りるけど、人ってほしい才能が与えられるわけじゃないってのは常々思ってるのよね、でも磨いたら才能になるかもしれないよね。自分に与えられた才能がどれかなんて、分かんないしさ。


丸山礼ちゃんのYouTubeが好きでよく最悪な日に見に行って礼ちゃんに元気もらってるんだけど、礼ちゃんが話題の中で「運動ってさーまじだるいよねー、運動できる人ってマジ尊敬する。なんかさ、運動するとメンタル強くなるらしいんだ。でもさー、このままの自分も好きじゃーん?」って笑ってて、そうなんだよな〜って私も笑った。まぁだからと言って何もしないことや何も動けないことと、そのままの自分でいたいかどうかは必ずしもイコールってわけではないんだけども。それでもね、この礼ちゃんみたいな言葉、いいなぁ。


カフェラテが口に合わなくなった。あんなに好きだったスタバのカフェラテ、ミルクが多すぎて全然飲めなかった。今まで飲めなかった(飲めないと思っていた)ブラックコーヒーは、仕事でよく出してもらうので飲まないわけにはいかず無理して飲み干してたらいつの間にか美味しくなってきた。ブラックの方が口に合うようになった。飲みすぎると頭痛になっちゃうから気をつけないといけないのは欠点だけども。何でもそんなもんで、自分では思ってたことも案外そうじゃなかったり、自分に合うものがどこに転がってていつ出会うかなんて知らない。そう、知らなくていいんだろうね。副作用だってちゃんと分かってれば大丈夫だもんね。


「ソロ活女子のすすめ」を永遠に見てた。自分へのご褒美という口実で贅沢を何もかも許してしまっていいのか?という問い、私はいいって言うと思う。楽しみを作るって、当たり前のようでいて活力の原点な気がする。


正解はないから自分で正解にしていくしかない、とか、自分が選んだ道を正解にします、とか聞くけど。それって良いことなのかもしれないけど別にその行動って「すべての正解」じゃないよね。「正解」が必ずしも「良い」もので、「間違い」が「悪い」とも言い切れないのでは?と思う。正解である必要も別にないしな。


新宿で飲んだ帰り道みたいな夜に憧れる夜がたまにある。近所の行きつけの定食屋さんの二階で美味しいご飯を食べる夜もやりたくて、大学生1週間だけ戻ってやりたいなぁ、と思うけど、別にやればいいんですよね。何者でもないわたしになれる時間と場所がほしいのかな。


正しさよりも自分の心を優先する日があっても、誰かに許されなくても、自分が許してあげたい。わたしが決めることだからいいかなって思う。

『化けの皮がはがれて夢はたちまちくずれた
けれどこれでもうあなたはあなたね』

またソロ活女子を観ているんだが(広報の人?)、OP「夢はさめても」の冒頭があまりに好きだったので考えました。誰かの深追いしすぎた一面を見たとき、夢はくずれてさめても、あなたはあなたねと言えるわたしで在りたいなと。日常においても推しに夢みることにおいてもですが、夢をみることとは自分にとって都合のいい夢をみることと同義ではないぞ。なんて言いませんけど言いたくなる幕もありますね、最近。
「叩きたいわけじゃなくて好きだから言ってる」
「文句があるなら他の人を推せばいい」
「推しのことは全部肯定しなければならない」
「推しが傷つく可能性のあることは決して言ってはならない」
どれが正しくてどれが良くてどれを掲げるかって、勿論人によって違う。この手の話ってもうずっと前からずっと繰り広げられてる。棲み分けする他ないかなと思う一方で、やっぱり大好きな人が不必要に悲しむことはあってほしくないですね。○○くんのためにと正義感で言ってるわけではない。自分が好きな人が辛いのは自分が辛いので、自分のために言っています。

楽しいことだけして毎日生きていきたいけどそんな訳にもいかないから、毎日の中にちいさな楽しいを作っていきたい。日常。

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