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【父方ルーツ #10】 ご縁に感謝!郷土史家の方にお話を伺う



「地元の郷土史に詳しいKさんをご紹介しますね」

こうして、ご先祖さまが住んでいた地区の郷土史家の方を紹介していただくという夢のようなご縁がつながりました。

Kさんも同じ集落に古くから住まわれている方で、この集落に限らず八峰町内の郷土史に精通しているとのことでした。


「Kさんは18時過ぎにはご自宅におられると思います」と添えられていたので、その時間を待って早速教えていただいた連絡先に電話をかけることにしました。

私ー
「もしもし。初めまして、〇〇村の後藤家について調べているそらと申します。どうぞよろしくお願いします。」

郷土史家のおじいさんー 
「もしもし、あー、話は聞いてますよ。後藤さんについて調べているんだね」

と、受話器の向こうから聞こえたのは一声聞いただけで秋田に電話がつながったのだとわかるやさしい訛りのあるおじいさんの声でした。

改めて簡単に自己紹介と経緯を説明したところで、郷土史家のKさんにお話をバトンタッチ。

Kさんは郷土の古文書を翻訳調査しているそうですが、この地域についてはまだ手をつけられていないとのこと。古文書もあるにはあるようですが、山のような資料の内容は把握しきれていないのだよ、とのことでした。

ひとまず現時点でわかっていることだけでも、という前置きのもとKさんのお話が始まりました。

私は一言も聞き漏らすまいと気合十分!
けれども強い訛りと、予想もしていなかった単語の羅列に、ノートに聞き取れた単語をメモしていくのが精一杯でした。

ノートに残っている単語は

「大本家」「肝煎」「菅江真澄」「慶長10年」「本館百姓一揆」「すはら兵助」「武田重左衛門」…

夢の中にいるような怒涛の30分が過ぎたところで、お礼を言って電話を切ることに。たくさんの情報が一度に手元にやってきたため、電話を切ったあとはしばらく放心状態でした。


さて。
メモした言葉を整理していきましょう。

「大本家」

後藤長右衛門家は後藤の大本家だそう。
長兵ェ家が私の直接のルーツにつながる家ではあるけれど、それについては明確なお話は得られませんでした。

大本家というに相応しく、数年前までは茅葺き屋根の立派な家がそこに残っていたそうです。その家を建てたのは飛騨の大工だそう。本家のご当主は現在は転居されてしまったそうですが、20代以上続く家だとか。一世代を20年と見積もって、ざっくり400年ほど前まで遡ることができそうです。1600年・・・江戸時代が始まるよりも前からその地で先祖は生活をしていたようです。


「大肝煎」

こちらも“大”がつくのですね。もちろん長右衛門家です。

肝煎とは庄屋や名主といった村の世話役のようです。長右衛門家は肝煎ですが、長兵衛家はそのサポート的な家、村方三役あたりを担っていたようです。

村方三役【むらかたさんやく】
江戸時代に代官・郡奉行など地方役人の下にあって村政にあたった村役人。一般に東国では名主・組頭・百姓代,西国では庄屋・年寄・百姓代(組頭)で構成される。地方(じかた)三役ともいう。三役の名称は地域・時代により種々あり,名主・庄屋を肝煎(きもいり)・小割元(こわりもと)・乙名(おとな),組頭・年寄を肝煎・長百姓,百姓代を長百姓・村横目などとよぶ場合もあった。名主・庄屋は村の首長で,村落を統轄し,法の伝達や年貢・諸役の割付・徴収にあたった。戦国大名家臣の系譜をひく上層の百姓や惣村のオトナ百姓の末裔などが任じられ,名主・庄屋給として給米を支給(一般には高引と称し年貢を減額)された。組頭・年寄は,村内有力百姓から複数選出され,名主・庄屋を補佐した。百姓代は江戸時代中期以降,村方騒動などをきっかけに常置された場合が多く,名主・庄屋の目付役として年貢割付や村入用出納の監視にあたった。このため読み書きや算術に長じた中農層から選ばれた。江戸時代初期には名主・庄屋は世襲がほとんどであったが,のちには一代限りで有力百姓の年番や入札によって選ばれる場合も多くなり,名主株と称して役職が売買の対象ともなった。組頭・年寄は一代限りであったが,名主・庄屋に準じ給米の支給,あるいは高役減免の特典があった。村役人は百姓身分でありながら領主による農村支配の末端に位置づけられたため,しばしば両者の利害の板挟みとなり,百姓一揆では場合によって両様の立場をとった。また百姓代は村方騒動の中心を担うケースも多かった。なお百姓身分の地方役人として名主・庄屋の上にあって数村から数十ヵ村を統轄する者が置かれる例は多く,地域によって大庄屋・大肝煎・十村(とむら)・割元・郷頭などとよばれている。
→関連項目大庄屋|大人|組頭|名主|村役人
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア

なるほど、名字帯刀の口伝の信憑性はここに繋がってくるのだと納得しました。


菅江真澄

私はそれまで知らなかったのですが秋田県には菅江真澄資料センターというのがあるくらい有名な旅行家らしく、その菅江真澄が文化4年に後藤家を訪れた記録があるというのです。

菅江真澄【すがえますみ】江戸後期の国学者,旅行家。本名白井秀雄。賀茂真淵の門人植田義方(よしえ)〔1734-1806〕に国学を学び,1781年三河の郷家を出て信濃,越後,秋田,津軽,南部,蝦夷(えぞ)地を遊歴。数多くの紀行は和歌をまじえた和文に自筆の挿絵を添えたもので,《真澄遊覧記》などにまとめられている。貴重な民俗資料として早くから柳田国男が注目した。1811年秋田藩主佐竹義和(よしまさ)の依嘱を受け,出羽六郡の地誌作成に従事したが,未完。著述は《菅江真澄全集》全12巻,別巻2に集成されている。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア

菅江真澄の資料についてネットで検索すると作品のいくつかを見ることができました。
その中には同じ集落内の「手這坂」が作品として紹介されてます。

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ここは桃源郷と表現されたそうです。

残念ながら、後藤長右衛門家を訪れた際の作品はネット上で検索することは叶わなかったので、実際の書物を探してみる必要がありそうです。是非是非見てみたい。

こうしてまとめていると、私の宿題はまだまだたくさんあることがわかり、うずうずしてきました。

ちょっと長くなったので、続きは次回へ。




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