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両親の看病と死

30歳の時に結婚して、子どもは、35歳までに生みたいな。
と、ぼんやり考えていました。
本当にぼんやりと。

結婚してから、1年半位経ったころに母が余命3ヶ月と宣告をされて、
1年看病した後に最愛の母を亡くしました。
やっと生活が落ち着き始めた1年後に父が癌を発症して、父の看病を2年ほどしていました。父の看病の間はほとんど、兄と揉めていて(これが一番余計)ものすごくストレスフルな生活を送りました。

兄と揉めていた理由はいくつもあるのですが、
基本的には、実家から車で10分のところに住んでる兄家族が
実家から電車で2時間のところに住んでる私より
両親の面倒を全然みてくれなかったこと、、、
ここに関しては、色々思うことはあるけれど
お互いの立場や境遇が違うので、どちらが良いとか悪いとかではないと、
思うようにしています(←全然思ってないw)

ただ、とにかく当時の私は両親の面倒を1人で見なければいけない、
すべて私が何とかしなければいけない。
誰にも頼れない、という想いでいっぱいでした。

仕事も誰にもお願いできなくて、仕事を抜けて父の病院へ行き、
その分時間内に終わらなかった仕事は、残業をして終わらせる日々。
夫の仕事の経理もやっていたので、残業して最終電車で帰ってから、
ウトウトしながら夫の仕事をしていたり、、、
どんなに疲れていても、家事もできるだけ手を抜かないように、
とにかくすべてに必死でした。

とにかく時間に追われる毎日で、その日のタスクを終わらせることで
いっぱい、いっぱいでした。

そんな中、他の人が思うように動いてくれないと
「なんでみんな協力してくれないの!?!?!?」
と、よく爆発してケンカをしてばかりいました。

今思うと、ものすごくピリピリしていたと思います。


兄との絶縁

ふと気づけば36歳目前で、妊娠どころか、妊活すら考える余裕がない中で、焦って始めた妊活で、割とすぐに妊娠しました。そして妊娠発覚と同時に、父の余命宣告。。。あっという間に流産してしまいました。

心も体もボロボロなのに、仕事にも行かなければいけない、
父の病院にも行かなければいけない。
どちらも代わりがいない、、、八方塞がりの状況でした。


流産した後、ほとんど休む時間をつくらずに、青い顔をしながら、仕事にも父の病院にもすぐに行く生活に戻りました。

この時は、今は父の看病をする時なのかな。
赤ちゃんからのそういうメッセージなのかな、と思っていました。

36歳で流産して、その数か月後に、父が亡くなりました。亡くなるまでの数か月間は、日中は病院で看病する毎日。
その数か月の間、父は話すこともできなくなり、だれとも会話をすることない病院通いの日々を続けていると、時々父を失う恐怖心から呼吸ができないほどの不安に襲われるようになりました。何度かそういうことがあったので、母が亡くなってから使うようになっていたアロマで、「不安を和らげるアロマ」と書かれてある本の内容を参考に、ハンカチに数種類のアロマを垂らして持ち歩いていました。
呼吸ができなくなるような不安に襲われた時に、そのハンカチを口元に当てるだけで、気持ちが落ち着いて呼吸が楽になったことが、私がアロマにハマった体験です。


父が亡くなった後、兄夫婦と実家の片付けをしましたが、片付けをしたがらない兄夫婦と、なんだかんだ揉めて、とうとう絶縁しました。

誰もいない実家で、泣きながら両親の荷物を一人で処分していた日を
思い出すと今でも涙が出てきます。


色々な方に、「兄妹なんだから仲良くね」と、何度も何度も言われましたが正直いって、

「なんで?」
理由がワカラナイ。。。
血が繋がっているからといって、会うたびに憂鬱な気持ちになる兄と
どうして仲良くしなくければいけないのでしょうか。
もう、両親もいなかったので、兄との関係を続ける意味を見出せず、
兄と縁を切って、心の底からホッとしたことを覚えています。

でも、当時は兄への恨み辛みをかなり抱えていました。
縁を切ったことに対する周囲の反応も疎ましく感じていて、その話をし始めると、「どうしてみんな私の気持ちを分かってくれないの!?」
という感情でいっぱいでした。

30歳で結婚してすぐに、母の看病が始まり、母の死、その後父の看病をしながら流産、そして父の死から、兄との絶縁。

正直、心身共に疲弊していて、
「休みたい。何も考えないでしばらく過ごしたい、」
その想いが強くなっていきました。

仕事を辞めて、不妊治療へ

37歳の時に、仕事を辞めて引っ越しました。それからしばらくはのんびりしていましたが、やっぱり子供を生みたい想いがあったので、不妊治療の病院へ行ってみることにしました。

ものすごく軽い気持ちで。

通院が始まると、最初にどこか身体に問題はないのか
色々な検査をするのですが、これといって問題はありませんでした。
この時は、問題がないことを前向きに捉えて、それならきっとすぐに妊娠するだろうと思っていました。

でも、タイミング療法と人工授精を1年くらい続けても妊娠しませんでした。

年齢が39歳目前ということもあり、医師からは体外受精を勧められました。正直、体外受精をするなんて頭に全くなかったのです。

でも、不妊治療病院に通っていると考える時間はない、さっさと答えを出さないといけない、そんな気持ちになり、自然と体外受精へと進んでいきました。

39歳で体外受精での移植を4回しましたが、どれも見事に陰性という結果でした。妊娠をしないという事実がもちろん一番きついのですが、
そもそも通院自体を苦痛に感じていました。

毎回2時間~4時間は病院に滞在しなければいけないし、突然「明日も来てください」なんて言われることもあるので、
予定を組んだりすることも難しくなっていました。

なかなか妊娠しないから、体質改善をしようと思って、漢方薬局や鍼灸に通い始めて、そこに通うことにも時間やお金がかかる。
その上、吐き出したくなるような味の漢方を飲むことにも、かなり苦痛を感じていました。

これらの行動、自分ですることを決めたはずなのに、
『やらなければいけないこと』と、自分で自分を追い込んでいたのです。

誰にも強制されてないのにね。。。

不妊治療病院へ行き始めた頃には友達にも病院へ通い始めたことを普通に話していました。
でも、どんどん時間が経過するのに一向に妊娠しない、妊娠する気配すらない。治療がどんどん高額治療へと進んでいく中で、今までにない孤独感と、焦燥感を感じていました。

そうすると、私は治療の話を誰にもしたくなくなっていきました。

そんなことを知らない友達が(だって伝えてないから)
「治療どう?うまくいってる?」
なんて聞いてこようものなら、
「うまくいくことは、妊娠することだから、妊娠してない今はうまくいってないから」なんて八つ当たりをしたり、、、

他の友達にも「どうなの?」って聞かれたたので、
「全然妊娠できないから、悔しさをバネに頑張って病院行ってる」
って言ったら、「そういう考えだからダメなんだよー」って、言われて

そこから二度と不妊治療の話をすることを止めました。

本当はね、悔しかったわけじゃなくて
悲しかったのだけど、それを素直に言えなかったから
こんなミスコミュニケーションが生まれたんだな、と、今なら分かります。

妊娠を望んでいる友達が
「妊娠しないってことは、私がまだまだ親になるのは早いってことなんだよね。子供に選ばれてないってことなんだよね~。」
と言ってるのを聞いて、
「それって、私のこと?私がまだまだ人としてダメだから妊娠しないって言ってるの?」(完全に被害妄想です)

と、どんどんどんどんこじらせていき、 
「不妊様」になっていきました。。。

人の言動に神経過敏になって、過剰反応していたのです。そうすると、こんな風に感じる自分のことをどんどん嫌いになっていき、人に会うことをストレスと感じるようになっていきました。
この頃からどんどん人との距離を置いて、自分の殻に閉じこもっていきました。
4回の体外受精の移植が陰性だったので、転院することを決めました。


転院先での陽性判定

40歳目前で転院しました。
転院先の検査で、妊娠しにくい理由が1つ見つかりました。
この時は、ホッとしたことを覚えています。
何故なら、原因不明ほど何をしていいか分からないから。
理由があって、対処法が分かる方が楽だったのです。

私の中で原因不明の不妊は、目的地しか書いてない、空白の地図のようでした。

どの道なら目的地へたどり着けるの?

目的地への道順が分からない。色々な道でその目的地へ着いた人が居ることは知っているけれど、同じ道で到着できる確約はどこにもないのです。

自分がどこまで進んでいるのかも、実は後ろに下がってしまったのかも分からない、現在地もよく分からない状況だったのです。
終わりが見えないこんな日々に、相当不安を感じていました。
そして、金銭感覚がおかしくなるほどの毎月の不妊治療費。
このまま子供もできず、ただの時間とお金の浪費になるんじゃないだろうか

不安ばかりが頭をよぎる、、、
考えないようにはしていましたが、老後への不安も抱えていきました。
そのことを吐き出せるところはどこにもなく、どんどんどんどん孤独感は増していきました。

転院先の院長が、私好みのイケメンだったのそれだけが癒しでした。

新しい病院は、注射や薬を極力使わない治療法なので、精神的に少し通院が楽になっていました。(注射が大嫌い)

通院し始めて半年頃、その病院での2回目の移植の時に、
陽性の判定結果が出ました。
ただ、数値的に微妙な陽性判定だったこと、高齢であることから、
かなり神経過敏になっていました。
毎日、毎日祈るように過ごしていたことを覚えています。


実はこの少し前くらいから、
義理の母が統合失調症とうつ病を発症していて、
認知症のような症状が出ていました。

義母からの頻回な電話や、徘徊による警察からの呼び出しなどありましたが、私の陽性判定直前に精神科に入院することになりました。
精神科に入院すると、時間関係なくかかってくる義母からの電話が
鳴らなくなったので、少しは楽になりましたが、病院からの、
「もっとお見舞いに来て欲しい。」
「外出に連れて行って欲しい。」
「〇〇を持ってきて欲しい。」
などの要望が来ることが多く、そのことを、夫にやってもらいたいのに、
それを伝えると、夫も不機嫌になり、ケンカ。。。

そうこうしていると、病院からまた催促の連絡が入る。。。

せっかく陽性判定が出ているので、できるだけ心身共に穏やかに過ごしたいと思っているのに、色々なことをものすごくストレスに感じて過ごしていました。


ただ、その中で一番ストレスに感じていたのは、
私の中で感じてしまった感情を否定されることでした。
友達に言われた言葉をひねくれて受け取ったり。義母が統合失調症の妄想で、私が不倫してるとか、お金を盗んだとか言ってくることも多々あって、全てをまともに受け取っては、怒っていました。(不倫も窃盗もしてませんよw)

でも、それを、
「なんでそんな風に受け取るの?」
「病気なんだから仕方ないじゃん。」
と、夫に言われることが、一番私を苦しめていました。

そんなことは分かってる、でも感じてしまったんだから、
その感情は吐き出させて欲しいし、少しは受け止めて欲しい。
でも、話すと全否定される、、、唯一すべてを話せる夫から
責められてるような状況が、その時の私には一番苦しかったです。

そんな精神状態が影響してかしてないかはわかりませんが、今回のお腹に来てくれた命も、成長が止まり、流産となりました。

この時の私の感情は、みんなが私の邪魔をしようとしているように感じていました。全ての悪いことは、周りのせいだと思っていました。
(被害妄想が酷すぎる、、、)

お腹の子の供養をして、少し体を休めた私は、
「次こそは」と、漢方や薬膳などの取り入れるものではなく、
体の中の毒素を排出する方向へ進んで行きました。
21日断食にチャレンジするなど、次から次へと妊娠する為に、
体に良いと言われることを探して何かをやっていることで、
モチベーションを保っていたように思います。


アメブロでは、アロマ心理学について色々と綴っています。

https://profile.ameba.jp/ameba/aromapeame/





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