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★『悲しき酒場の唄/騎手 (1982年) (白水社世界の文学)』カーソン・マッカラーズ

心の奥底に眠る無償の欲望に突き動かされる、破滅的な人々への挽歌

カーソン・マッカラーズ(1917ー1967)は、アメリカ南部出身の作家で、50年の生涯の中で残した作品は寡作といってもよい数しかない。
しかしその残された僅かな作品は、その輝きという点では文学史に残るものであることに間違いはない。

この『悲しき酒場の唄/騎手』という標題の本は1982年に日本で出版されて以後、長く絶版になっていて、図書館や古書店でしか入手できないのが残念だ(*2023年5月、ちくま文庫から『マッカラーズ短篇集』が刊行されました!)。

もっともkindleなどでは読めるようだが、なんだかそういう先端技術にはあまり似つかわしくない、歴史と呼んでもよい、遠い昔から続く魂の故郷のような作品だ。

『悲しき酒場の唄・騎手』カーソン・マッカラーズ

この本には、標題の二作品の他にも「天才少女」「マダム・レジンスキーと
フィンランドの王様」「旅人」「家庭の事情」「木石雲」の五つの短篇作品が所収されている。

そこにはどれも皆マッカラーズらしい、異形な人間の異質な人生の様相が描かれている。
しかし、それは一見そう思える、というだけで読後心に広がる風景は、そんな異邦人たちへの悲しみを伴った共感であり、異形そのものに対する偏愛ではない(私自身の嗜好としては偏愛はアリ、だけれど…)。

マッカラーズの作品の素材とテーマに現れた「南部性」という特性については、文学史的には「ゴシック」あるいは「グロテスク」と形容される。

1920年代から50年代にかけて、アメリカ南部文学はこの時期「サザン・ルネサンス」('Southern Renaissance')と呼ばれる隆盛期にあり、その代表的な作家として、ウィリアム・フォークナー等が挙げられる。

マッカラーズも1940年代から50年代にかけて代表作を発表した、サザン・ルネサンスに連なる作家であり、異形な人間を通して、人間の孤独と苦悩を描くという、アメリカ南部文学が共有する素材とテーマを生涯に渡って追求したといえるだろう。


さて、この本に所収された標題作以外の作品は、ごく短い短篇で、それぞれ語るに値する作品ではあるが、今回は標題作の内、中篇作品であり、もっとも色濃く作者の魂のこもった作品、「悲しき酒場の唄」について少しご紹介したい。

物語は、そのはじまりから、すでに破滅の予感を漂わせている。

物語の舞台は「まるで世界のどの場所からも遠く離れた、孤立した町」であり、人々は、仕事が終わるともう何もすることがなく、「鎖につながれた囚人たちの歌声でも聞くよりしかたがない」──なんという淋しい表現だろうか。

そしてその町にある「いちばん高い建物は、町の中心にあって、一面を板に打ちつけてあるが、ひどく右に傾いて、いまにも倒れそうに見える」。
「ゴシック」な舞台設定は完了だ。

さらにその建物の主、ミス・アメリア・エヴァンズは、「男か女かもわからぬ青白い顔で、二つの灰色の斜視の目が、強く内側に視線を向けているため、まるで互いに長いあいだ、何か秘密の悲しい思いをこめて、じっと見つめあっているように見える」。
「グロテスク」という表現を積極的に使いたくはないが、何かが崩壊した人間の姿に対する、的確すぎる描写だと思う。

物語はこのように、孤立した最果ての町を舞台とし、廃墟に近い家に住む、孤独な人間の姿から始まる。
そして、なぜ彼女が、彼女の家が、彼女の住む町がこのような生気の抜けた淋しく孤独な状態になったのか、その顛末を語り始める。


結局のところこの物語は、「愛」と仮に名付けるしかないような、人が人に対して抱き、その人のすべての行為を形作る、相手に対する衝動によって引き起こされた物語だ。
そしてその「愛」はいわゆるエロスに基づいた(多くの場合)男女の結びつき(あるいは別離)を描いたものではない。

この物語で描かれた人間と人間の間にあるものについて「愛」という言葉を使って語るとすれば、それは理性で把握することが難しく、破壊や破滅への道筋につながる、ある抑えがたい衝動や本能に突き動かされた行為、といえる。

しかもそれが一人の女と二人の男の間で、三つ巴で繰り広げられたとしたら──文字通り、ストーリー的にはカオスだ。
しかしそれが単なるカオスやグロテスクではなくリアルさを有した深い物語になるところが、カーソンの凄さなのだろう。

「愛」が問題となる、男女の三角関係といえば、一人の女をめぐる、二人の男の相克、あるいは逆に一人の男をめぐる、二人の女の諍い、というパターンだと思う。(現代においては、もっと複雑な関係性も起こっているのかもしれないが…。)

しかし、この物語の三角関係は、いわば「完璧な三角関係」と言えるだろう。つまりAはBを想い、BはCのために生き、そしてCはAを追う。
そしてその愛というか、衝動の原動力となっているものが何なのかは、物語の中で必ずしも明らかにはされていない。

ただ、作者が精緻に描くのは、それぞれの人物のキャラクターであり、愛と執着の対象への破滅に通じる行為だけである。
そしてその描かれた三人の人物それぞれの「ゴシック」ぶりも凄まじい。

主人公のアメリアは女性だけれど、いわゆる女性らしさは一点も描かれない。
その肉体的特徴も、いわゆる女性らしいエロス感は皆無で、腕力も、男性と殴り合っても負けないくらいの頑健さだ。
そして金儲けの天才であり、凄腕の医師でもあり、醸造の腕もピカ一、しかも彼女にとって他人とは「金をしぼりとる材料としてしか利用価値がなかった。」──凄まじい女性だ。

そんな彼女が10日間だけ結婚生活を送ったという、メイシーもまた、とんでもない男として描かれている。
見た目は「色男」だが、近隣の多くの女性を泣かせる悪い奴で、犯罪行為も躊躇しないいわゆる「ならず者」だが、なぜかアメリアに惚れてしまって、改心して求婚する──そして、あろうことか捨てられて(微笑)、ヤケを起こして刑務所に入る。

そしてアメリアの「自称いとこ」のライマン。
彼の見た目も壮絶なものである。アメリアの腰にやっと背がとどくくらいの「へなへなの、ちび」で、「ゆがんだ足は細すぎて、ねじれた大きな胸と肩に乗った瘤との重みを支えきれないようにみえた」。

そしてその性格は、三人の中で一番「くえない」かもしれない。

 世のなかには、他の、もっと平凡な人間とはっきり区別できるような性質
 を持った、特別なタイプの人がいるものである。
 そういう人は、普通は小さい子供にしか見られないような本能、つまり、
 自分と世のなかのすべての物とのあいだに、たちまち深いつながりをつけ
 てしまうような本能を持っている。
 疑いもなく男はこのタイプの人間であった。(本文p34)

『悲しき酒場の唄/騎手』

アメリアはそんなライアンの「本能」に操られた、といえなくもない。
しかしライアンの「本能」に感応するアメリアの「本能」もまた、彼女自身の稀有な個性的な魂のなせる業なのだろう。

こんなふうに、三者は三者なりの固有の本能によって、それぞれの「愛」の対象の人間性の、底知れない深みに取り込まれ、そこから次のステージ(完璧な三角関係の解消)に進むためにその軛(くびき)をそれぞれの持てる力によって叩き壊そうとする。

彼らの互いに対する破壊的なまでの衝動が、「愛」という言葉にそぐわないとすれば、それは「真実」という言葉に置き換えることができるかもしれない。
三人はそれぞれ、互いに出会うことによって、自分自身の心の奥底に眠っていた、他者への衝動を揺り動かされ、自身の真実に従って行動する。

そのことをマッカラーズは、アメリアの作った酒についての描写で、美しく象徴的な言葉で語っている。

 ミス・アメリアの作った酒は、他に類のない独特の味わいを持っていたか
 らである。
 まじりけがなく、舌にぴりっとくる酒だが、いったん喉を通ると、いつま
 でも腹のなかで長く燃え続けた。それだけではない。
 きれいな紙の上にレモンジュースで文句を書いても、なんの跡も残らない
 けれど、その紙をしばらく火にあてると、茶色の文字が現われて、文句の
 意味が明らかにわかるという話であるが、ウイスキーがその火で、文句に
 あたるのが人の心の奥底だけにあることだと考えれば──ミス・アメリア
 の酒の値打ちがわかるであろう。
 うっかり忘れていたことや、暗い心のずっと奥深くだいじにしまっておい
 た思いなどが、突然意識にのぼって理解されるようになるのだ。
 (本文p17)

『悲しき酒場の唄/騎手』

彼らは、互いを触媒として、自身の心の奥底ににある自分自身でさえ破滅させかねないが、決して否定することのできない真実に出会い、それに突き動かされて行動する。

そんな荒々しい人間の真実に対して、冒頭でも述べた通りマッカラーズは、
異形への偏執的な嗜好を表明しているのではなく、そこに現れる人間性の不思議さと無償の欲望とでも言う他ない心の奥底の衝動に、深い共感と同情を抱きながら描いている。

これだけ読者が感情移入し難い異形なキャラクターの人物によってそれを表現し切った、作者の作家としての天与の才に、またも驚嘆せざるを得ない。

しかし、主人公たちの魂に共鳴してこの物語を綴りながらも、彼らのように固く閉ざされた孤独な魂が、他者の魂と共感し、最終的には互いに受け入れられる世界になることを誰よりも求めていたのが、他でもないマッカラーズ自身だったとは言えないだろうか。

作品の中でストーリーとして描かれなかった部分を想像することは一読者としては許されることであっても、作品に対する評価に含むことは控えなければならないということが分かっていても、そう願わざるを得ない切実さが、この作品からは伝わってくる。

物語の最後で、わざわざゴシック体で、「十二人の男」と題したエピローグが書かれているが、これこそまさにマッカラーズの、異形な人々の破滅的な人生に対する挽歌なのだろう。

作者がこの作品世界に自ら送り出した人間に姿に対して、深く心を痛めていることだけは、確実に感じとれるのだ。


*参考文献:『講義 アメリカ文学史 [全3巻]
       東京大学文学部英文科講義録 第Ⅲ巻』渡辺利推 研究社

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