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★『尾崎翠全集』尾崎翠

自分自身のもつ絶対感覚によって外界を捉え、
冴え冴えとした言葉で捉えた世界を彷徨する孤独な作家

尾崎翠、という名前を聞いたことがある人は、もしかしたら、私が思うよりずっと少ないのかもしれない。

尾崎翠は1896(明治29)年に鳥取で生まれ、1971(昭和46)年、75歳で鳥取で亡くなった作家だ。
私にとっては隣県に由来のある親しみ深い女性の作家で、時おりローカルニュースでその名前を耳にしていた。

しかし、その作品をじっくりと読んだことがなく、(本が手元にあるのだから、読もうとしたのはたしかなのだが)長らくその作品世界が謎でもある女性作家だった。

『尾崎翠全集』尾崎翠

この全集には、尾崎翠の短・中篇が18篇収められている。
そのすべてが均一なボリュームの作品ではなく、一般にこの作家の代表作と言われている「第七官界彷徨」は、この全集の全頁の3分の1弱ほどの長さを占めている。

他の作品もそれぞれ長めのもの短めのもの、そしてその形式も詩があり、対話形式があり、となかなかまとめて論ずるには無理があるが、かといって、一つ一つの作品について個別に語るのも紙数の関係で難しいので、この稿では、代表作「第七官界彷徨」の感想を中心に、この作品からうかがい知れる尾崎翠の作品世界について考えていきたい。

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そもそも「第七官界彷徨」という作品名自体が、とても詩的な感じを受けるが、尾崎翠は、一般的な意味での小説家ではなく、その感性も言語感覚も詩人以外の何者でもないように思う。

この「第七官界彷徨」も、形としては散文、小説としての体裁はとっているが、語り手(小説という形式の中では主人公ともいえる)小野町子の外界を捉える感性、自身の内面を見つめる視線、そしてそれを表現する際に選ぶ言葉と文体は、形式として詩の体裁はとっていないものの、その言葉の選び方においては、「詩」という他に言いようのない種類のものだと思う。

物事や人について自身が感覚した内容を表現し、しかもその言葉は透明な池を覗き込んだ時に見えるような、奥行きと多面性を持っている。

彼女はこの世界を何らかの意味性、価値観を基準に観るというより、自身の感覚そのものを通してダイレクトに知覚し、その感覚した内容についての表現もまた、意味付け、価値付けを目的とせず、ただできるだけ正確に、自身の「感じ」が伝わるように世界を再構築し、それを言葉という形にしているように思う。

尾崎翠という作家の見た世界、感じた世界を、その言葉にふれた人は、分からない部分も含めて、その感触そのものを自身の感覚によって直に受け止めることになるのではないだろうか。

読者は作品の中の言葉の、一つ一つの意味性を追求していく必要はなく、ただ、その世界に身を浸し、登場人物の視線と、その先にある人や物の姿を彼らとともに味わえばよい。
それが心地よい人には心地よいし、意味不明に思われる人は読んでいて苛立ちを覚えるのかもしれない。

私の拙い言葉では、彼女の独特な言語感覚と表現については、いくら説明を加えても表現し切れないのがもどかしいが、そんな外部の説明が陳腐に聞こえるほど、彼女の表現は今でも古びた感じはしないし、読む側に常に新たな魅力を発見させる力をもっていると思う。

とはいっても、この作品は尾崎翠の作品の中では、比較的小説としての設定や筋立てが具体的な方なので、尾崎翠の作品を初めて読まれる方にも物語を楽しみながら読み進めることができると思う。


この物語に登場する主な人物は四人。前述の語り手・小野町子(今、この名前を変換して気づいたのですが、漢字違いの同姓同名の俳優さんがおられますね! 何か由来があるのでしょうか?! 注・尾野真千子)は、故郷を旅立つときに「持っているかぎりの詩の本を蒲団包みのなかに入れた」ほど詩を読むのが好きな、縮れ毛の女の子。

そして町子の上の兄が小野一助で、精神科の医者として病院に勤めている。
下の兄が小野二助で、植物学か農学の学生で、家の自室を研究室さながらに使用し、大根を育て卒論を書いている。
さらに従兄弟の佐田三五郎は、音楽学校の受験に一度失敗して浪人生活を送っている。

こんなメンバーが出てくるとなると、TVドラマならさしずめ、距離のあったきょうだいといとこが一つ屋根の下で暮らすことになり、その過程でそれぞれの生きる道を模索し、夢に向かって時にぶつかり、時に協力しながら絆を深め合って、最後にはそれぞれの夢を実現するハートウォーミングな青春物語…になるのかもしれないが、生憎、この物語はそのような感動が期待できる作品ではない。

むしろ、物語も個々の主人公の言動・内面の様子も、表面上は特別な大きな事件も葛藤も、濃い恋愛関係も生まれず、淡々とそれぞれの日常生活とかすかにうかがい知れるそれぞれの内面が描かれている。

まあ、「日常」といっても、それはかなり個性的で奇妙な日常ではあるのだが、「善悪」や「好悪」、意味や価値やコスパなどの社会的基準が排除されて営まれる(描かれる)「日常」だ。
それは人間というよりも、たまたま同じ土壌から生まれ、同じ場に育つ、同種でありながら別の固体として存在する植物たちのそれぞれの生活のようにも思われる。

町子の兄弟と従兄は、仕事、学問、受験というそれぞれの人生のテーマを中心に日常生活を送り、それぞれの心の内には──特定の事件や問題が外部的に
取り上げられることはないけれど──それぞれの直面している問題や人間関係における悩みなど、現実の生活の中でもよくある葛藤があるらしい。

彼らがそれぞれ語る言葉のなかには、人間の心の動きの不思議、人間同士の心の関係のままならなさに対する嘆息、将来への不安、日々の生活の疲労などが見て取れる。

しかし、彼らが自身が抱えている葛藤について、その問題の所在や原因などを自ら明確に語ることは無いし、それを誰かと積極的に共有したり解決したりはしない。
物語自体がそれを追求する場面をほとんど描かない。
問題解決を志向した物語ではないのだ。

ただ、何かに(おそらく恋愛に)煩悶しているのだろうな…ということは推察されても、それが物語の中心となって、登場人物たちの関係性を変えるほどの出来事としてとり上げられることもない。

ただ語られるのは、彼らの生活の表面上の奇妙さと、わずかな心の動きを反映するささやかな行動、そして言葉にならない自身の心をじっと胸に抱いたまま、小さな透明な池を覗き込むようにうつむく登場人物たちの姿だ。

彼らの生活は、他者から見ればかなりカオスな状態かもしれない。
一助は精神科の医者で、ある患者のことが頭から離れず自身の精神状態も不安定な様子だし、二助は家の中で肥やしに浸けた二十日大根を畠になるほど
たくさん育てているが、論文はあまり進んでいないようだ。

そして一番のカオスは音楽学校の受験準備が上手くいっていない三五郎だろう。
音階練習もせずに音程の怪しいコミックオペラを大音量で歌い続け、ストレスがたまると突然高価な買い物に走ってしまう。
町子のちじれっ毛を強引に散髪する。
そしてどうやら隣家の女子学生に恋心も抱いているようだ。

しかしこの奇妙でカオスな共同生活の中で小野町子の心──というより感覚は、静かに冴えわたっている感がある。
彼女の感覚が捉えたものは、そのもののもつ(人でもモノでも)価値や意味性である以前に、心ざわりとでもいう他ない、ある「感じ」だ。

それはいわば絶対音感を持つ人が、自然現象や生活音が、すべて音程をもった音階に聞こえるように、町子もまた、自分自身のもつ絶対感覚によって外界を捉え、冴え冴えとした言葉で捉えた世界を彷徨する。

それは「快不快」、「好悪」といったいわゆる結果としての感覚ではなく、そんな感覚としての判断でさえ棚上げした、原初の接触によって生じた感覚であり、それは「自分」という区切られた主体としての感覚というより、「自」と「他」の区別の曖昧な、いわば全方位的・相互的に外部に対して開放された感覚なのではないだろうか。

見ている自分、感じている自分と、見られている他者あるいは外部のモノとの境界を持たず、その場にあるすべてが共有された世界を知覚する存在としての「私」──それこそが、小野町子が「彷徨」する「第七官界」なのではないだろうか。

 ちょうど私の顔の上に天井板のすきまがひとつあって、その上に小さい薄
 明がさしていた。
 三五郎の部屋の屋根の破損はちょうど垣根の蜜柑ほどのさしわたしで、
 私は、それだけの大きさにかぎられた秋の大空を、しばらくながめてい
 た。
 この閑寂な風景は、私の心理をしぜんと次のような考えに導いた──三五
 郎は、夜睡る前に、この破損のあいだから星をながめるであろうか。
 しばらく、星をながめているであろうか。
 そして午近くなって三五郎が朝の眼をさましたとき、彼の心理にもこの大
 空は、いま私自身の心が感じているのとおなじに、深い井戸の底をのぞい
 ている感じをおこさせるであろうか。
 第七官というのは、いま私の感じているこの心理ではないであろうか。
 私は仰向いて空をながめているのに、私の心理は俯向いて井戸をのぞいて
 いる感じなのだ。(本文p159)

『第七官界彷徨』

私はこの作品を読んで、詩人の観る世界と、感じている世界の感触というものを、初めてリアルに想像することができた気がする。
私自身には、このような「絶対感覚」はないのだが、その肌触りをこのような物語として感じることはとても新鮮な体験だった。

そして、もしかしたらこの「第七官界」は人生のごく初期の頃には誰でも持っていた感覚なのではないかと思った。

遠くに出かけて家に帰ってきたとき、家の様子が違って見えたことはないだろうか。
物質としての個々のモノは全く変わっていないのに、そのモノやその場が、今までのものとは全く別の何かに感じられる経験だ。

住み慣れたわが家が、それまでと違って感じる感覚、この感覚がなぜ自分に起こったのか、分からなかったが、未知の世界に足を踏み入れると、たとえそこから生還したとしても、私にとって、また私の感覚にとっては、世界はすでに変わっていたということなのだろうか。
見慣れぬモノに囲まれたようなあの不思議な感じは、今ではもう感じることはない。

「第七官界」を彷徨する小野町子は、物語の最後に、おそらく初めて会う柳浩六に恋をする。
彼は兄一助の恋敵で、町子は柳氏の家に届け物をした帰りに柳氏に送ってもらうことになった。

「僕の好きな詩人に似ている女の子に何か買ってやろう。
 いちばん欲しいものは何か言ってごらん」
 そして私は柳浩六からくびまきを一つ買ってもらったのである。
 (本文p215)

『第七官界彷徨』

その後、二人は会うこともなく、これが柳氏と町子の唯一の接点、共有の時間だった。
二人の間の感情の行き交いや、言葉のやりとりなどはほとんど描かれず、ただ、これだけの事実しか描かれていないが、男女の間でのことで普通に描かれがちな愛憎や行為が描かれないことが逆に、この二人の心の内と、彼らが身を置き、感覚している世界の肌ざわりを、リアルに伝えることに成功しているように思う。

 私は柳氏の買ってくれたくびまきを女中部屋の釘にかけ、そして氏が好き
 であった詩人のことを考えたり、私もまた屋根部屋に住んで風や煙の詩を
 書きたいと空想したりした。
 けれど私がノオトに書いたのは、われにくびまきをあたえし人は遥かなる
 旅路につけりというような哀感のこもった恋の詩であった。
 そして私は女中部屋の机のうえに、外国の詩人について書いた日本語の本
 を二つ三つ集め、柳氏の好きであった詩人について知ろうとした。
 しかし、私の読んだ本になかにはそれらしい詩人は一人もいなかった。
 彼女はたぶんあまり名のある詩人ではなかったのであろう。(本文p215)

『第七官界彷徨』

この物語はここで終わっている。
淡い恋といえばそれまでだが、二人は激しい愛憎や執着に互いに支配されることはない。
まるで二助が育てていた蘚(こけ)同士の恋のような、類として繋がりながら、個としては別々に存在したままで、それぞれの魂と肉体を、それぞれの内で静かに発酵させている──そしてその「感じ」が哀しいのか嬉しいのか、それを作者と共有するのかどうかは、読む側の「絶対感覚」次第なのかもしれない。

私には、仄暗い風景の中に一人佇む町子の、孤独だけれど凛とした、澄んだ魂がイメージされた。
物語は、ただその様相を静かに伝え続け、その気配だけがひっそりと残されている。

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