正体

 暗闇の先に暗闇があったという話をします。
 
 あまり車の通らない住宅街の道路の真ん中に丸い鉄製の蓋がある。私が勤める会社ではその蓋を製造している。
 平日の昼下がり、私はその蓋にクエスチョンマークの形をした金属の棒を引っかけて、持ち上げた。ひとりで持ち上げることは出来るが、手を滑らせて足の甲に落下させようものなら骨折するのが確実な重量だ。地面の下からうっすら聴こえていたざあざあとかごうごうとか表現されるであろう水の音が近くなる。そこに最初の暗闇はあった。
 道路に四つん這いになって真っ暗な穴の中に顔をつっこむ。鼻の中の毛に一瞬で臭いがしみつきそうな、強烈な便所臭。トイレ臭ではない。もはや絶滅危惧種であろう、排泄したものが丸見えのぼっとん便所の臭いだ。私の実家はいまだにその様式を採用しているので、嫌悪感と郷愁がないまぜになった。
 その臭気と記憶によって半ば気を失っていた私に、背後から近づいてくる車のエンジン音が意識を取り戻させた。
 後ろを振り返ると、車道幅員がせいぜい3メートルしかない道路だというのに、その車はすごいスピードで眼前に迫ってきていた。
 私は鈍臭いのだ。避けられる訳がないだろうとつぶやきながら、前転をするように穴の中に落ちた。
 
 着地は百点満点。反射神経は鈍いけれど、マット運動は得意だったんですよ。
 ぬるりと滑る床面で足を滑らせ、片足を前方に大きく振り上げる格好となったが、尻餅はつかなかったのでそう自己評価する。身長165センチの私がギリギリ頭を擦らず直立出来るだけの天井高がある。
 蓋は開いたままなので、頭上から光は入ってくるが、着地点から二、三歩でもずれたら一寸先は闇という状況だ。ポケットの中にはスマートフォンが入っている。懐中電灯の役割を果たしてくれるだろう。
 しかし私はそれを使いたくなかった。
 私が現在生活しているこの街は都会だ。どんなに夜が更けても、どんなに人気のない道を通ってもどこかに光がある。完全な真っ暗闇はない。
 私は飢えていた。自分のヒトとしての輪郭を消してくれる、意識のみが存在していると思わせてくれる、柔らかく、懐かしい真っ暗闇に。恋い焦がれたものが目の前にあるのに、どうして手を伸ばさずにいられようか?
 私は一歩、二歩、三歩と踏み出した。
 下流に向かって微妙に足下が傾斜しているようだ。下水が横を流れている。私が歩いているのは、人間の肩幅1.5人分ぐらいの土手のような部分だ。コンクリートで出来ている。その表面は苔か水垢と思われるもので覆われていて滑りやすくなっていた。
 しばらくしたら目が暗闇に慣れてくるのだろうが、まだ自分の手も見えない。素晴らしきくつろぎの空間。
 下水道管カフェ、どうだろうか。光に包まれて暮らす現代人のみなさん、本当の安らぎを手に入れてみませんか?なにも見えない、自分が存在しているかもあやふや、消えてなくなりたい・いなくなりたいそんなあなたに本物の暗闇を!
 でも下水道管って言ったらやっぱりこの臭いを想像してしまうだろうか。私は嫌いでないんだけど、少数派だろうな。アロマ漂う癒しの下水道管カフェ?なんじゃそりゃ。
 そんなことを考えているうちに、光の入ってくる穴からはだいぶ離れていた。
 鼻に続き目もこの場所に慣れてきたようで、自分の身体が見えてくるようになり、なんとなく寂しくなった。ぬくぬくとくるまっていた布団を引き剥がされたような気分になる。 
 二〇一歩目。1キロメートル程歩いたのだろうか。一定の間隔で上から水が落ちてくる孔が開いているようだ。道路沿いに建つ各家庭からの排水管が、いま私の歩いている太い本管に取り付けられているということだろう。
 相変わらず横を下水が流れているが、目が慣れてきたので、反対側の壁面を見てみる。コンクリートだ。これも床と同じく苔か水垢のようなものに覆われている。
 触ってみると、平らに見えたコンクリートの壁面に凹凸があることに気がついた。そのまま歩きながら手を滑らせる。壁に線が浮かび上がっているような感じだ。上下方向に手を動かすと、何本か同じような線がある。ホースが壁に埋め込まれているのだろうか?壁とホースは一体化している、というよりも壁の内側にホースがあるように思われる。
 無意識のうちに歩くペースが速まっていた。
 壁につけたままの手が、足に先行して、身体を引っ張っている。湿って冷たかったはずの手がいつの間にか熱を持っていた。手に心臓があるかのように脈打っている。いや、脈打っているのは本当に私の手か?
 ほとんど走っているのに近い速度になっていた。
 私は鈍臭いのだ。こんな速度で走れる訳がないだろう。
 そうつぶやいてみるが、身体は前へ前へ進み続ける。
 行く手に赤くて細いホースが絡みついた、大きな、白い球体が現れた。
 ああなるほど、壁のホースはこれにつながる血管だったのだ、と理解した。それと同時に私はその球体にぶつかり、ぐにょうりとした膜をすり抜け、おそらく球体の中を進み続けていた。ついさっきまで暗闇の中にいたのに、いまは真っ白な世界にいる。頭が痛くなりそうなほどの白。
 
 不意に目の前に黒い曲面が現れた。真っ黒ではなく、濃い焦げ茶色、濃い灰色が混ざっている。うっすらと太陽のような模様が浮かび上がっているように見えた。
 前に進み続ける私は、その曲面を通り抜ける。
 通り抜けた瞬間、後ろを振り返ってみた。小学生の私と目があった。ここは実家の便所だ。小学生の私が、ぼっとん便所の中をのぞき込んでいる。私が通り抜けてきたのは、私の眼球だったのだと理解した。 
 私は、暗闇に折り重なっている排泄物の中に落ちていった。
 
 以上が私の、暗闇にまつわる話です。ほら、子供の頃にトイレから手が出てきて尻を撫でられる怪談、読んだことありません?あの手、実は私なんですよ、ええ、そうそう。今夜、トイレで会いましょう。

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