他人

1.

 ヒサギは旅が好きだ。
 ただし、「旅」と聞いた時に多くの人が想像するであろう「旅行」と、ヒサギのそれはいささか異なっている。
 週末の2日間、観光地ではない、地方のどこにでもあるような町にビジネスホテルを取って一泊し、ひとりで住宅街を歩いて回る。チェーン展開されていないスーパーで食事を買い、小さな図書館で郷土資料を眺めたりする。それがヒサギにとっての「旅」だった。

 
 世界的に新型のウイルスによる感染症が流行した為、出入国は制限され、都道府県を跨ぐ移動も控えるよう行政から通達が出された。しかし、最初の通達から数ヶ月が経った今、元々が強制力を持たない要請だったこともあり、その内容は各地でまちまちになってきている。 
 ウイルスの有無を調べる検査で陽性と判断された人数が毎日センセーショナルに報道されているが、その人数の多い東京や大阪といった大都市では検問が実施されているらしい。症状の有無に関係なく、陽性反応が出れば「連れて」いかれるんだと、東京に住む友達からのメールには書かれていた。
 ヒサギの住む、北関東にある小さな町では、いまだに患者が出たという発表はない。
 ヒサギは汚水ますやマンホール用の鉄蓋の製造と販売を行う会社に勤めている。感染症の流行により経済活動は制限され、それに伴ってインフラ整備工事も一時的に中断を余儀なくされた。ヒサギの勤める会社も、主たる取引先で相次いだ工事中止の影響を当然受けたが、なんとか持ち堪え、最近はぼちぼち元の8割ぐらいの注文が入るぐらいまでには回復した。
 だから、従業員数30人足らずの会社で、総務と経理と人事を一緒くたにしたような仕事を引き受けるヒサギが、この状況で旅に出ようと思い立ったのは、会社の経営状況に絶望した為ではない。胃は痛めていたが。
 
 きっかけはマスクだ。
 顔に何かが触れているという状態をひどく嫌い、常に短く髪を整えているヒサギにとって、四六時中マスクを着用しなければいけない、ということは、何よりの地獄だった。
 市販のマスクがウイルスの侵入をどのくらい防止出来るかと考えれば、その効果はたかが知れていたが、不顕性感染者や発症前の患者からの感染が一定数見られること、飛沫に含まれたウイルスから感染すること等、この感染症の特性を総合して考えた結果、自分が他者に感染させるのを防ぐ為、マスクを着用することにした。この理屈が成立していなければ、ヒサギは自分以外の誰もがマスクを着けていたとしても、マスクを着用することはなかっただろうと思っている。
 しかし、当然、皆が皆その理屈でマスクを着けているとは限らない。
 そのことを、同じ職場で働いているパートタイマーの女性たちが新素材で作られたマスクを並んで手に入れたと、マスクを着けずに話している光景によって、ヒサギは知ることとなった。
 なにしろヒサギは大嫌いなマスクを我慢して着けているという状態だったので、初めの内は非常に苛立った。
 この人たちは何の為に並んでまでマスクを買っているのか?なぜ職場に着いた途端それまでつけていたマスクを外すのか?
 彼女たちとは良好な関係を築けているという自負があったので、ヒサギは自分の中にある感情の刺々しさに戸惑い、扱いかねた。自分たちの行動の一貫性の無さを自覚していないように見える彼女たちが、ヒサギにとっては怪物のように見えたのである。
 しかしある時ヒサギは気がついた。
 彼女たちが「あのお店の店員さん、マスクしてなかったのよ」「やあねえ、外ではちゃんとエチケットを守ってほしいわ」という会話を、例によってマスクをせずにしているのを耳にした時のことだ。
 彼女たちにとって、マスクの着用は感染拡大を防止する為のものではなく、あくまでも行政から命じられた公の場で守るべきエチケットであり、職場は生活をしていく為に必要不可欠な、家庭と同質なものであるらしい。よって、職場の人間というのは家族同様の身内であり、生活を共にすることを避けられない人間に対してウイルスを感染させたりさせられたりするのは仕方がない、という理屈において彼女たちは職場でマスクを着用しない。
 ヒサギは急に目の前が開けたような気持ちになった。
 今は誰しもが、新型のウイルスによってもたらされた未知の状況に対して、与えられた情報を元に自分の中で新しい秩序を作り上げている、言い換えれば、未だかつてない自由を手に入れている最中なのではないか、と。様々な制限は課されていくが、制限を課す側の行政すらもその正当性は判断しきれず言うことはてんでバラバラ、その制限をどう捉えるかは各個人の裁量に大きく委ねられている。
 
 マスクをせずに話す彼女たちのように、新しい秩序に則って手に入れられる自由はないか、とヒサギは考えて、旅だ、と思いついた。都道府県を跨ぐ移動が制限されてから、すっかり行動の選択肢から抜け落ちていたその言葉。しかし一旦思いついてしまえば、忘れていたことが信じられないぐらい、どうしても今すぐ必要なものに思われた。
 自分の住む町では、感染症は流行していない。よって、自分が感染している可能性は低い。万が一不顕性感染者だったとしても、密閉された空間における他人との接触を避ければ、感染させる可能性も低い。
 この町と同じ条件の町に車で向かい、いつもと同じように「旅」をする。
 これなら筋が通るぞ、とヒサギはパソコンの前でひとり静かに今週末の旅を決意したのであった。

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