本日はお日柄も良‥‥あれ?

ガクチカってなんだよ。
あ、学生時代に力を入れたことか。
流石に知ってるわ。

1年前も私の紙面を騒がせた就活が、またしても私のもとに迫っている。迫りくる就活、襲来。
そもそも1社ES既に出せてるだけでめちゃくちゃえらいのに、もっと頑張らないといけないとは何事か。もう~~~~~~。
もう、なんでもいいんだよ。平均くらいの給与があって、私みたいなクソ雑魚体力でも倒れないでやっていける仕事ならなんでもいいんだよ。これは求めすぎか!? 求めすぎはいけないことか?!
求めすぎなら頑張らなきゃいけないってことですねえ!!!!!

実際問題、なんというか、本当になんでもいい。なんでもいいんだけど、とはいえ、興味がないことにとことん興味がない私だから、恐らくなんでもよくはない。みんな大好き総合商社とかの説明見ても何もおもしろくない。お金はたくさんほしいんだけど、お金だけのためにおもしろくないところに行く気も起きない。無論、私のような人材はあっちから願い下げだろうけど。

もうあれだよね。案外公務員とかの方が向いてるんだろうね。公務員にも色々あるけど。公務員試験の勉強してないから無理だわ、あっぱらぱー。まぁいいけど、別に公務員なりたくないし。(どっちだよ)
「なりたい」で考えるのか、「やりたい」で考えるのか、「やりたくない」で考えるのか。この三つ巴の何を重視するのかで話も変わってくるだろう。特に「なりたい」と「やりたい」は厄介だ。「なりたい」だけで「やりたい」わけではない場合、それは得てして「選択の失敗」になるのだろう。ラベルと中身が違うのはいけないことだ。そう考えた時にラベルを見るか、中身を見るか。もちろん重要なのは中身だろう。そういう理論で、私は「なりたいもの」より先に「やりたいこと」を選択すべきだと思う。これは必ずしも一致するわけではないので気をつけたい。

それはそれとして、私がなりたいものは何なんだろう。ふとそう思ったとき、真っ先に思いつくのが「好きなものに好きなだけお金を使える大人」である。これは前もどこかで書いた気がする。なるほど度し難い野望である。だってそれ、実現するためには私の「やりたいこと」を曲げないといけないから。それに、恐らくすごい努力を必要とされるのだ。ただ漫然と生きているだけの私には到底できないような努力が。そう、私は努力が苦手だ。
努力が苦手と言っても、傍から見たら「それはもう努力だよ」と言われるようなことをせかせかとやっていたりもする。それは好きが高じた結果である。それを、「好き」を原動力として成し得たことを、私は努力とは思っていない。何故なら、それは「やってあたりまえ」だから。
こういう部分が、逆に自分の自己肯定感を下げる一因になっているようにも感じる。もっと自分の「頑張り」を認めてあげても良い気がする。いや、もちろん認めてあげることだって少なからずあるが、それは私が稀に「努力」をした時である。
「努力」は長続きしない。努力とは、別に自分がやりたくないことを仕方なくがんばってやっている行為を指すからだ。やりたくないことは長続きしない、当たり前のことかもしれないが人間生きていく上でやらなきゃいけないことから逃げてばかりいるわけにはいかない。覚悟を決めなくてはならない瞬間も存在するのだ。でも、なんか、無理~~~~~~~~~~!! (突然のはっちゃけ)
夢に向かってがんばっている人はすごい。私は、夢がないから頑張りも努力もない。人生において夢なんてものは存在しない。あるのはただ好き嫌いだけである。
大仰に夢を語る人の尊大さが、羨ましい。夢があるってだけで、目標があるってだけで、とびっきりハッピーじゃないか。それだけを生きる軸にできるんだから。いいなぁ。
キラキラした目を向けられて、私の心は曇るばかりだ。
なんて思ったり、思わなかったり、やっぱり思ったり。今日も私の世界は、快晴とは程遠いお天気模様らしい。

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