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自傷アビリティ

 自分のイメージを一から何かの形にして人に伝えることは、HPを削って通常より大きなダメージを与えるスキルや回復手段に乏しいMPを消費する強力な魔法のように、何かしらのコストがかかる。

 傷つけ傷つけられること、ショックを与えること、創作表現などでどこまでのラインを許容するか?というのは定期的に沸くホットな話題だ。ほんの10年くらい前と比較しても今はだいぶ物腰柔らかにお行儀良くなっている。もっと正すべきという声もあれば、ずいぶん窮屈になったと評する声もある。

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 先日「誰も傷つけない表現などない。」という言葉を見て、以前の自分の個展で「作品を長く見ていられず予定より早く会場を出てしまった」という人がいたと聞いたことを思い出した。「好き」「面白い」などポジティブな感想をいただくことはあれど、これは初めてのリアクションだった。批判や嫌悪というよりは、ただショックを受けたというニュアンスだったのだが。

 何かを表現することは、わざわざ自分の心の古傷のかさぶたを剥がして抉ったり、ひとりでに性癖を曝け出したり、結果として自分の私生活や人生を切り売りすることになったり、割と自傷行為に近いものがあるので、他の誰でもなくまず自分を傷つけている。だから誰も傷つけない表現というのは、やはり無いのではなかろうか。

 言い換えれば、自分自身に向き合わず、自分の身は守りながら他人を傷つけるばかりの表現はフェアでないのだ。自省、自戒、自嘲、自虐の姿勢が必要だ。自分を知り、自分をオープンに、自分に正直にならないと他人の心に響くものは作れない。何が好きか。何を求めているか。何が嫌いか。何を恐れているか。このnoteもそれを探る一環として書いている。

 冒頭のショックを受けた人の話に戻るが、創作活動を続けていれば、いずれそんなこともあるかもしれないと思ってはいた。私はまだまだ知名度のない画家だが、実際に作品が人の心に刺さったということを聞くと嬉しい反面、自分は他人に凶器を向けているのだと実感させられる。そしてその心構えを持たねばならないのだと。これが仮に痛烈な批判だったとしても、「こんなこと言われたんですけど」と被害者ポジションを取ってカウンターを浴びせるような無責任な真似はしたくない。しないでいられるだろうか?

 「自分を大切にしよう」という優しい言葉が巷に溢れ、「自己責任論」批判が熱を上げている。時に自省、自戒、自嘲、自虐も忌むべきものとされる。それと同時進行で暴力表現や性表現などの規制が各方面への配慮で進んでいることには合点がいってしまう。表現することの初めの一歩が「自分を傷つけること」ならば、他人を慮るように見える言葉も「踏み込んだ表現をして私や他人を傷つけるな」と抑えつけることと表裏一体なのかもしれない。

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 とはいえ、世の中のあらゆる表現が常にズタズタに互いを傷つけているわけではない。ダメージを与えることが目的になるのも違えば、攻撃力が高ければ高いほど正解という訳でもない。外から見える形として「誰も傷つけない(ように見える)表現」は成立するはず...というか基本はそうして不要な軋轢を避けているはずだ。建前と言ってもいい。その方がむしろ自然な形だ。

 しかし、それだといつまでも到達し得ないルートというか倒せないボスがいる気がする。「同じダメージを与えられるならHPもMPも削る必要なくない?」とアドバイスされてスキル削除したら実は属性が違っていてボスが倒せなくて詰んだ...みたいなことがないようにしたい。他のみんなが倒す必要のないボスだったとしても、自分が攻略したい場合にそれでは困る。

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