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名前の持つ力

 私は本名で絵描きの活動をしています。作品は生まれてから今までの自分の経験、人格と地続きになっているという感覚があります。

 もしペンネームや雅号を持ったら、そういった感覚が少なからず変化し、作風や人格に影響を及ぼすものなのでしょうか。
 
 ちょっと気取った英語名にしたら絵がスタイリッシュになっていったりとか、全てひらがなにしたら柔和な雰囲気になったりするのかどうかとか。興味があります。

 今の時代、本名顔出しの利点なんてほとんどない気がしますが、アカデミック寄りな美術界隈は本名でやっている人が多いです。私の場合、学生時代からずっと同じような画風で絵を描き続けて展示など外での活動もしてきたので、いち絵描きとして明確な「デビュー」のタイミングがなくズルズルとそのまま来ました。他にもそういう人が多いのかもしれません。何かきっかけがあったなら、第二の名前を持っていたのかななどと考えることがあります。

 名前は、創作物の世界では正体を隠すヒーローや、実は王族だったキャラクターなど特別なものとして描かれることが多いですね。ジブリの映画監督の宮崎駿と解剖学者の養老孟司は、「名前」について対談で以下のように語っています。

  ―『千と千尋の神隠し』の中で、言葉に力があるということが描かれてますね。
宮崎 昔の物語にはよくあるんです。本当の名前を当てるとかね。本当の名前を自分では持ってて、よほど親しくないと言わないというような文化的な基盤とか、そういう歴史的なものがないと言葉の力っていうのは伝わらないですよ。
養老 そもそも「いみな」っていうのはそうですね。中国では君主や親以外は本当の名前を呼ぶことも憚るんです。有名な諸葛亮は諸葛が姓で亮が名前(いみな)ですが、亮のかわりに孔明という字が知られている。本当の名前を知られると、その人の思うようにされるっていう考え方がいろんな文化にある。
宮崎 日本にもあったんですよね。現代では、言葉にそういう力がなくなってますね。言葉はどうにでも言えるものだっていうふうにね。

『虫眼とアニ眼』 養老孟司 宮崎駿 新潮文庫 

 現代で名前が変わるというと結婚や離婚が浮かびますが、SNSを見てみると多くの人が本名を隠し、第二の名前を持っています。あくまでプライバシー保護のためだったり、あるいはプライベートでは言いにくいことを吐き出すための人格だったり、何かのなりきりだったり、意識の変容の度合いは様々です。「本当の名前を知られるとその人の思うようにされる」っていうのは、ネット上の情報漏洩の怖い一面を彷彿とさせるものがありますね。

 職業で言うと、役者、アイドル、歌手などは、それこそ変身するヒーローのように、舞台の上とプライベートの自分のオン/オフが明確にあるのかなということが何となく想像出来ます。伝統芸能の世界だと襲名があるので、幼い頃からその意識が刷り込まれていくのでしょうか。名前の持つ力を感じさせる職業です。
(芸能人の改名というと、今は亡き細木数子にある芸人コンビが名前を変えさせられて大顰蹙…なんてことも思い出してしまいました。)

 改名してブレイクした画家の例もあるそうです。

 別記事によると、この方はひらがなだと印象が柔らかすぎるのと海外で誤読が多発した…という理由で変えられたようです。作品の雰囲気と照らし合わせると確かに頷けます。この後、それによる変化は生じるのでしょうか。

 実際にペンネームを持たれている方から、変わらないですというリプライをいただきました。
(逆になぜ変えているのかという疑問が今書きながら湧いてきました。)

 子どもを産んで変わった…というのはこれまで見てきた作家を見ても少なくないように感じます。改名せずとも、親という肩書きを新たに背負うことはそれに似た効果があるのかなーと思ったりします。

 そもそもの話をすると、このようにダイレクトに名前を変えなくても、加齢や環境の変化など他の諸条件で作風は変わっていくものなのですが。焦点としては、改名は大きなスイッチとして機能しうるのか?というところですね。自分を実験体にしてペンネームを持ってみようか…と好奇心が湧いてくるものの、いつかは変えてみたいなという気持ちはありつつ、どうせ今変えても既に色々割れてるしなとか、匿名性が増したら却って迂闊なことを言ってしまったりするかもなど懸念もあって、保留のまま歳月が過ぎています。優柔不断。考えるのは楽しいです。

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