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なぜ一人旅をするのか


はじめに

多分、自分は日本人のなかでは旅をするほうの人間だと思っている。
初めて「旅」っぽいものをしたのは高校1年生の夏休みで、クラスメイトから誘われたディズニーを断り、電車を乗り継いで埼玉県の長瀞へ行った。自分は東京都に住んでいるので、2時間強で行ける長瀞はちょっとした遠出のようなものである。あまり「旅」とは思っていないが、計画を立てること、知らぬ土地への想像力を膨らませること、実際に足を運ぶこと、交通機関を乗り継ぐこと、日常的に使う自分の役割や名前がなくなること、一人で考える時間を多く持つことの喜びを初めて知ったのはおそらくこのときである。

それからというものの、定期的に散歩や遠出を繰り返し、青春18きっぷをゆるく使ったり、大学生になってからは毎月東京都外に出たり、タイ,ベトナム,ラオスあたりに足を伸ばしたりと、移動にお金と時間を使うようになった。そのため、周囲の人からは「一人旅の人だ」という称号が与えられたわけだが、正直「一人旅をしている」という認識はなくて、散歩,遠出をしながら考え事をするのが好きだ、という程度にとどまっている。だからこそ、いわゆる旅人や一人旅好きと必ずしも話が合うわけではなく、「一人旅好き」というラベルは放棄したい気持ちが大きい。

行動だけ見るとおそらくこれは「一人旅」で、しかし「一人旅」という言葉でまとめられると自他ともに認識に乖離が生じる。今回はあえて一人旅という言葉を使いながら、「なぜ自分が一人旅をするのか」という問いを考えてみようと思う。

一人旅に行く目的はなにか

早速結論から書く。私が一人旅に行く目的は「その一日をどのように過ごすか」を考え尽くし、自分がその日を最も楽しめる選択を繰り返すためである。

この一言では伝わりづらいので、背景の補足をする。
私は幼い頃から、「楽しむ」が苦手な子供だった。
話し始めるのは0歳と早く、大きい声で歌ったり話したり、いつもにこにこしている機嫌の良い乳飲み子だったようだ。一方で歩き出すのはかなり遅く、幼稚園に入園するまでは同世代と話すこともなかった。公園に連れて行っても直立不動で微動だにしないため、親も先生もとても心配していたらしい。当時のことは私も覚えていて、公園で遊んでいる同世代を見ては「自分と似た背丈の人が走っているな」「今日も晴れていて気持ちがいい」というコメントを脳内で垂れ流したり、架空の人物を思い描いては頭の中で物語を組み立てたりしていた。なるほど、これらの思考で私自身は楽しんでいるが、旗から見たら無表情で突っ立っている幼児である。これは確かに怖い。

という感じで、考えごとや空想をしたり、物語を組み立てたりして、自分自身の中で楽しむことはできたが、外の物事を使って「楽しむ」ことがかなり苦手な子供だった。例えば「公園の遊具で遊ぶ」とか「ともだちと話す」とか「ごっこ遊びをする」ことに対して「楽しい」と感じたことがなかった。
自分が「楽しい」と思うことは自分の中だけで完結してしまうため、他者と「楽しむ」方法が分からなかった。自分といることで他者につまらない思いをさせるのは気が引けるため、他者と過ごすうえでは選択肢は他人に委ねることが多くなった。もしくは、その人が楽しめるであろう選択肢を提案することが増えた。

そのような提案を繰り返していると、徐々に自分自身に対する「楽しい」の基準が曖昧になってくるようになった。具体的には「自分の好きなことがわからない」「自分がなにをやりたいかわからない」というようなものである。典型的な自分自身を見失っている例である。

一人旅では、旅をしている一定の時間は全て自分のものになる。「この人が楽しめるだろうか」と考える対象は自分の他におらず、心への問いかけと計画策定の連続が必要不可欠になる。
日常生活で忘れきった「自分はなにが楽しいのか」に向き合うために、私は一人旅に行っている。選択を繰り返すために、事前の準備,計画の策定,リスクへの対応の責任が全て自分自身に降りかかるという責任感も総合的な楽しさの要因である。

ちなみに、一人旅に対する評価軸は「その日の自分が最高に楽しかったかどうか」にしている。

なぜ旅でなくてはならなかったのか

最後に、「自分が最大限楽しめる選択肢を取り続ける」手段として旅を選んでいる理由を書こうと思う。

今の私の「日常生活」には仕事がある。これまでは大学生活やバイトがあった。
毎日、ある程度の時間が仕事のために確保されていて、それらの時間を差し引いた残り時間でやりくりをしている。友人や知人と過ごす時間も0ではない。仕事は好きだし、友人と過ごす時間も大好きなので、不満はない。
ただ、普段の生活を「自分が選んでいる」と思っていたが、想像以上に「自分のために自分が決める」時間は少ないし、想像以上に純粋な気持ちで楽しめてはおらず、「楽しくはないけどやっておいたほうがいい」とか「仕事で使いたいから勉強しよう」とかの合理性という基準が入ってくる。

「旅」の予定を入れると、少なくとも旅をしている数日間は旅のためだけの時間を持てる。つまり、他の「日常」や「責任」や「しがらみ」から離れて、「自分が何を楽しいと感じるか」とだけ真摯に向き合い、準備をする練習ができるのである。

だから、必ずしも「一人での旅」でなくてもよいと感じている。現に、よく一緒に海外へ行く友人との旅はとても刺激的で満足度が高い。
しかし、その友人との旅経験を経て1人でラオスに行ったとき、「この時間は自分のためだけのもの」「この時間を有用にも無用にも使える」という手触りを実感し、準備から実行をするまでに言葉にならないほどの達成感を得た。
「一人での旅」である必要性をあえて言うならば、外的要因を完全に取り払ったひとりきりの自分が、本当は何を求めていて、そのために自分はどのように動けるのかがわかる、といったところだろうか。
自分が何を楽しいと感じるかわからない、という私のような人には一人旅はおすすめである。

つまるところ、私にとって旅とは、「日常」や「責任」や「しがらみ」から離れて、「自分が何を楽しいと感じるか」と真摯に向き合い、準備をし生き方を選択をする一連の人生である。

まとめ

今回はよく一人旅をする自分の経験を見つめ直し、一人旅の価値を再考してみた。他の人の一人旅の温度感とは異なる部分も多いかもしれないし、他者からは「旅先でなにもしてないのでは」「それは本当に楽しいのか」と訊かれることも多いが、個人的には自分の人生になくてはならない時間である。

今回は自分にとっての旅と目的を書いてみたので、次回は実際に旅で何をしているのかについて書いてみようと思う。

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