『正欲』小説と映画に関するあれこれ

遅ればせながら映画『正欲』を観てきました。
映画鑑賞を前提に原作も読みまして、2つの作品に触れて思ったあれこれを書いていこうと思います。

※小説・映画ともにネタバレしています。

「多様性」への筆者のスタンス

作品の重要なモチーフとなっている「多様性」。
もしくはその他にもあらゆるものを包含する「political correctness」およびネットミームとしての「ポリコレ」。
(こういう風に、人権に関わる概念や運動を略して単純化する行為は、非常に危険なことでもあると思うが、ここでは踏み込まない)

上記の概念や潮流に対して、自分は概ねポジティブに捉えている。

“潮流”と書いたものの「多様性」や「ポリコレ」によって可視化された人々およびその属性・指向は、言葉から発生したのではない。
もともと存在していたのに、透明化され蔑ろにされていた。
この前提を忘れてはならない。

「マジョリティが無意識に踏みつけ、無邪気に嘲笑っていた人々や事象に光を当て、社会的な意識を変革し、互いに住みやすい環境を整えていく」
これは実現すべき理想であり、掛け値なしの美徳であり、とても意義のあることだと思う。
(一口に“マジョリティ”とはいっても、人間誰しもある面ではマジョリティであり、またマイノリティでもある)

非常にざっくりとした物言いと語りで恐縮だが、以上が筆者の基本的なスタンスである。
(もちろん「多様性」を謳っていればどんな思想や活動でも素通しで成就されるべき。だとは思っていない)

小説『正欲』

感想

朝井リョウのことは映画『桐島、部活やめるってよ』で名前を覚えたが、実際にその著作に触れたのは初めてだった。
結論から言うと、とても面白かったし、意義深い読書だとも思えた。

ベストセラーも納得の読みやすさとエンタメ性。上述した「多様性」にまつわる文脈や課題も広くカバーしている。
「多様性」の耳障りの良さに酔いしれるマジョリティの無神経さを糾弾しつつ「ダイバーシティ」が社会的に表明されることによる意義や効果にも言及しているフェアなバランス。

まとも。普通。一般的。常識的。
自分はそちら側にいると思っている人はどうして、対岸にいると判断した人の生きる道を狭めようとするのだろうか。
多数の人間がいる岸にいるということ自体が、その人にとっての最大の、そして唯一のアイデンティティだからだろうか。
だけど誰もが、昨日から見た対岸で目覚める可能性がある。まとも側にいた昨日の自分が禁じた項目に、今日の自分が苦しめられる可能性がある。
自分とは違う人が生きやすくなる世界とはつまり、明日の自分が生きやすくなる世界でもあるのに。

『正欲』本文より

また、マジョリティ側も、時にはマイノリティと同じような不安に駆られ、苦しむこともある。という点にも触れられている。

こういった作品を、平成生まれの作家が著し、令和の世に多くの人々が読んでいる。この事象を頼もしく思った。

また、トピックを並べただけの散漫な作品になっておらず、物語としての起伏や情感、最終的に訴えてくるテーマ性もきちんとある。
セクシャルマイノリティの疎外感と苦悩を、人類普遍の孤独感と重なるまで突き詰め、傷つきながら虚しさに囚われながらも、それでも繋がりを希求してしまう人間のいじましさと美しさを鮮やかに描き出していたと思う。

気になった点

上述したとおり、非常にクオリティが高く、現代的でありながらきわめて普遍的でもあるという、ベストセラーも納得の力作だと思ったのだが、読んでいてモヤモヤした部分もあった。

まず、要所要所の比喩がやや大仰に感じたのと、地の文の中に口語的な表現が散見される(“キレる”とか普通に出てくる)のが気になった。

とはいえ一人称寄りの三人称なので、没入感を阻害されるほどではなかった。
また “顔面の肉が重力に負ける”といった、最初は違和感を覚えた比喩も後の伏線になっていたりして、やはり小説としてのクオリティは高い。

ミスリード

個人的に看過しがたく感じたのが「マイノリティからの搾取」を題材にとりながら、小児性愛者の存在をミステリー的な仕掛けとして使用していたところ。

今作は冒頭部分に報道コラムの体で、メインキャラ2人とサブキャラクターの1人が、児童ポルノの画像所持で逮捕されたという、ルポルタージュ風の章が挿入されている。
この部分があるために、その2人――佳道と大也が本編に登場する場面にはサスペンス(面白み)が生まれている。
また終盤では、2人への周囲の誤解が描かれることによって、世界におけるマジョリティとの摩擦と断絶とを、マイノリティ側が再確認してしまうという仕掛けにもなっている。

大衆小説として効果的な技法ではあるし、2人が実際は小児性愛者でないことは比較的早い段階で明かされるので、露悪な手法とまでは思わない。
また小児性愛者に関しても、最後まで読めば、小児性愛の嗜好それ自体は(作品全体の文脈としては)否定していない。ということも分かるのだが、今作が題材にし、糾弾している事象などを考えると、あまり好ましいアプローチでは無かったと思う。

フィリア

また、作品のメインのモチーフに、水に欲情する指向および人物を据えた点に関しても、少々気になるところがある。
(作中では“水フェチ”と表現されている。しかし “フェチ”という言葉は、ある対象への欲情を前提に細分化された「傾向」「嗜好」のことであると思うので、ここでは使わない。
以下、我ながら違和感はあるが『水性愛者』と記す)

水に欲情する指向は、確かにマイノリティ・オブ・マイノリティと言えるだろう。筆者もこの作品に触れるまで見聞きしたことはなかった。
実際に面と向かって言われたら、驚くと同時に「本当か?」と疑ってしまうかも知れない。

しかしである。この指向は、作中で人物が語っているような“世間には決して受け入れられない” “必ず嫌悪される” ようなものだろうか?
小児性愛(ペドフィリア)、もしくはズーフィリアやスカトロジーなどと比べてみたとき、どちらがより世間から強く拒絶されるかは言うまでもないだろう。

また「水」という事物には、多くの人(マジョリティにもマイノリティにも)に訴えかける普遍的な美しさや抽象性がある。
小説や映画などの創作物の枠で捉えてみても、その傾向は減じるどころか、より美しさのグラデーションを増すだろう。
水にまつわるイメージや表現の美しさを想像することは誰にとっても容易い。
要は、セクシャルマイノリティという、ある種生臭いトピックの代表として扱うには、水性愛者は「美しすぎる」ように思うのだ。

もちろん、今作がセクシャルマイノリティに対して主眼としているのは「有害・無害」「快・不快」という二元的なジャッジではない。
「“正しいレール”に初めから乗ることができない人々」としての心理や苦悩に焦点を当てている部分こそが肝要だろう。
また、作中での水性愛者たちの心理を描き出す筆致は決して一面的なものではなく、彼ら彼女らを聖人として描いているわけではない。
彼ら彼女らの葛藤を全面的に美化することはなく、むしろ世間から孤立しているがゆえに周囲に攻撃的な目線を向けてしまう……という傾向の人物像が描き出されている。

しかし物語が進み、作中の「水」のイメージ(透明感や清浄さ)と人物の心理や行動が連動し、ドラマとして収斂していくと、そこに浮かび上がってくるものはやはり、グロテスクなものとは程遠い、ピュアな存在感だ。
「ピュアな存在感」は作品にとって非常にうまく働く。
感情移入(同調・哀れみ)の装置。そして「『水性愛者』に限らないセクシャルマイノリティの象徴」としても機能する。

それらの作用は作品設計としては理に適っているが、セクシャルマイノリティとして多少なりとも当事者性を抱えながら読んでいた自分としては、どこかフワフワした据わりの悪さを感じずにはいられなかった。

性的指向に関する描写でいえば、夏月と佳道が2人で自らを解放する中学生の思い出のシーンにも疑問を覚えた。
またとない機会での鮮烈な邂逅だったとはいえ、性的な興奮を覚える事象を、ああいった清々しい形で異性と2人で共有できるものだろうか?
「水性愛者は欲望の対象が違うのだから、ジェンダーバイアスに囚われないのでは(異性をマジョリティの文脈で意識しないのでは)?」
という反論があるかもしれない。
しかし、現代社会(それも主に学校という閉鎖的な空間)で様々なバイアスを潜りながら生きている若者である以上、性にまつわるニュアンスや意識の抱えかたは、指向の一つを基準にクッキリと割り切れるものではないと思う。
要は、セクシャルマイノリティもジェンダーバイアスの影響下からは逃れ得ない。というのが筆者の見立てである。
というより、異性という文脈を抜きにしても、他者の前で下半身を反応させることへの照れや躊躇いは、現代の人間ならば誰しも備わっている感情なのではないだろうか。
シーンとしては美しいし、物語的に外せない箇所ではあるのだが、違和感は最後まで拭うことができなかった。

作品が孕んでいる欺瞞性については、こちらの記事の一読をお勧めしたい。
『正欲』ならぬ『聖欲』では。という見立てと指摘には膝を打った。

当事者性

また、読んでいて、作者の自意識(エゴ)を感じなかった点にも、読み心地というか据わりの悪さを感じていた。
とてもセンシティブで現代的なモチーフやテーマを扱っていながら、生身としての作者の存在感が欠けている気がしたのである。

これについては非常に個人的な、感覚的な意見かと思っていたが、雑誌のインタビューを読んでみると、どうやら意図的……というか作者も自覚的であることがわかった。

「(発売から)ある程度時間が経った頃からは、私が『正欲』の具体的な作品内容に関して喋ることは基本的にやめておこうと考えるようになりました」
作品のために、作者の存在を潜めたのだ。

『ダ・ヴィンチ』2024年1月号

以下に続く内容は、引用するとかなり長くなってしまうので要約させていただく。

【編集に作品の構想を話すと “それを書くんだったら、朝井さんがどういう人なのか明かさないといけないですよ” と言われたが、その理由がよく分からず執筆を先延ばしにしていた】

【小説の世界における当事者性という言葉は、作品と作者を一致させる試みに思えて苦手】

【少なくとも『正欲』に関しては、作者が自分を主語にして何かを語ることを控えたほうが、物語が曲がらずに遠くまで届く気がした】

【自分は、作者を主語にしたホースで水を飛ばすような作品よりも、発生源は分からないけれど与える影響はとても大きい.....そんな、雨を降らせるような作品が理想】

自分は件の編集者の思想に近いのだろうけれども、朝井リョウの言わんとしていることはよく分かる。
ただこの作品に関しては、自分も幾分か当事者性をもって鑑賞したせいか「解像度は高いけど、彩度が貧しいような……」と、前述した通りの据わりの悪さや違和感を作品に対して覚えてしまっていた。

それと、このトピックに関して、あえてもう一つ違和感の理由を挙げるならば、昨今インターネットに跋扈している客観視への幻想に苛立ちを覚えていたせいもあるかもしれない。
「自分は物事を客観的に見つめているだけ」と嘯きながらも、実際は貧弱なレトリックで幼稚な相対化ばかり行っている言論や界隈――そういった怠惰なノンポリにウンザリしていたので、朝井リョウが語るところの“ホースではなく雨”というアプローチに、貧弱な客観性との共通項を見出してしまい、拒否反応を覚えていたのかも。

もちろん、朝井リョウおよび『正欲』は、そのような深度の浅い作者および作品ではない。
(繰り返しになるが)トピックに関わる文脈は広い範囲でカバーできているし、要素の羅列に終わらず、人物のドラマや心理を構築し、その果ての情感や感動を描き出せている。
終盤での、夏月と佳道との家でのやり取りと、八重子と大也のぶつかりの合いの果てに生まれる言葉は掛け値なしに尊く、感動的だ。

加えて言えば(あくまで一人称寄りの三人称ではあるが)地の文で直球の現政権批判も記していたりする。

網羅的に現代的なトピックを扱っているが、書きぶりはジャーナリスティックというより叙情的。
ただし、叙情的ではあるが作者自身の感興は前面には出てこない。
一作だけにしか触れていないので、これら点を作者に共通する作家性と断じることはできないが、この読み味やアプローチそれ自体は(両手を挙げて歓迎はできないものの)その歪みも含めて肯定できる。

というわけで、やはり原作小説は優れた作品であると思うし、総合的には好きな作品である。

映画『正欲』

感想

非常にクオリティの高い映像化および映像作品であったと思う。
原作の多声的な構成を丁寧に再構築しながらも、上述したようなミステリ的な構造(ミスリード)を省いている点がまず良かった。
また 鏡やドアなどの枠を使った画作りと、フィックスを多用したスタティックな語り口が印象的で美しく、映像ならではの審美性や独自性も発揮されている。
夏月と佳道が疑似セックスを行うシーンでの、背後のカーテンまで枠取りをしている画面設計には、その徹底ぶりに驚いた。

そしてラストシークエンスでの夏月と啓喜の「対決」。夏月と啓喜の対称性が映画版ではより強調されているため、夏月の「いなくならないから」という台詞が、原作よりも凜々しいニュアンスを帯びている。
その上でのラストカット。開かれていたドアが閉じられることによって、2人の「世界」が反転したような感興を呼び起こす――これまでの描写や演出の積み重ねがあるからこその力強いショット。
この映像的なキレのある改変は素晴らしかった。

過剰なデフォルメ

しかし正直なところ、観ている最中は感じ入るよりも、モゾモゾともどかしく思う時間の方が長かった。
問題だと思うのは、人物描写のデフォルメが過剰であること。

134分という長尺とはいえ、長編小説をまとめるにあたって、人物描写を「分かりやすい」方向に改変することは必然であるとは思う。
しかし、映画における夏月と啓喜の人物描写は、悪い意味で「分かりやすい」造形になってしまっていたのではないだろうか。

まず夏月だが、いくらなんでも見るからに(全方位的に)不機嫌すぎる。
世間に対してあんなにあからまさな態度を取っていたら、容易く反感を買い、かえって面倒に巻き込まれるだけだろう。
世間との摩擦を苦痛に感じている人間は、接することが避けられない他人を相手にするとき、もしくは接客のときには、むしろ愛想良く振る舞う可能性が高いのではないだろうか。
(筆者は人間嫌いのコミュ障であるが、接客は得意である。余談だが)
そういった、処世術として繕った表情や所作の中に、隠しきれないぎこちなさや他者への蔑視が垣間見える……そういったバランスで描写するべきだったと思う。

そして啓喜に関してはもっとひどい。
原作での彼は、優秀な検事ではあるが、世の中が要請する“通常のルート”での成功体験があるがゆえに、そのルートから外れてしまった息子や他者にきちんと向き合えず、蔑視の目を向けてしまう……という人物だったと思うのだが、映画だとただただ傲慢でイヤな奴にしか見えない。
息子の必死な訴えに開口一番「で?」
犯罪についての新聞記事を読んで「バカなの?」
挙げ句には“被疑事実に当たる罪名を正しく見極めることが俺たちの仕事だ”と部下に嘯きつつ、検事調べでは被疑者に完全に上から目線の無意味な説教……作中良いところといえば、倒れた夏月を気遣う部分だけ。
こんなキャラじゃなかったと思うのだが……

新垣結衣と稲垣吾郎の佇まい(それもパブリックイメージからやや外れた役柄)は良いだけに、この辺りの描写には頭を抱えてしまった。

夏月の周辺で言うと、沙保里の描写もひどい。
不妊に関する背景や葛藤を省いたのは尺の都合上仕方が無いのかも知れないが、夏月に暴言を吐いた後、妊娠中のお腹を撫でながら「よしよし、怖かったねー」と赤ん坊をダシにしてまでのこれみよがしな嫌味……なぜあんなにもあからさまにイヤな奴として描写したのだろう。理解に苦しむ。

岸善幸監督はパンフレットでの対談にて “この作品は断定せず、観る人の想像力に委ね”るものであると語っているが、個人的には、それとは真逆の感覚を覚えてしまった。

シーンの図式化・台詞の演説化

映画版の構成および脚本を称賛したが、台詞選びや演出に関しては問題があったと思う。
映画版における数々の台詞。それら自体は非常に練り込まれていたと思う。劇として上手い。ただしその一方で、人物が作品のテーマや文脈に関わることしか口にしていないような不自然さを感じてしまった。
台詞が台詞でなく、テーマにまつわる演説になってしまっている。

例を挙げると、夏月の自宅での両親とのやり取り。
居間で朝食をとりながら、ニュースを見る親子3人。映されているのはLGBTQ+に関する報道。
それを観た母親は「今は子供を産むだけの時代ではないんだろうね」「でもそうなると子供が減るばっかりじゃねえ」と、理解を示しつつも結局は狭量な価値観でしか物事を見れていないことが示される。

シーンの意図は分かる。画面も設計されている。無駄がない。技術的には上手い。
しかしこの撮り方では、意図する表現や文脈が先に立ちすぎてはいないだろうか。
(誠に僭越ながら)もし自分がこのシーンを書き、演出するとしたら、何気ないやり取り(時間・台詞・所作)をいくつか挟んだ上で、上記の母親の台詞、そして物言わぬ夏月。という順番で映す。
シーンの意図を表す核心の部分は、基本、殊更に表面に出すべきではないと思う。

それと、公園でのシーンにも気になった点が多い。

活発にはしゃぐ泰希を見て感極まり、目を潤ませ口元を手で覆いながら「嬉しい……!」と言う由美。
……由美のすぐ横には、今日会ったばかりの他人(奈々江)が座っている。思わず感情が昂ぶったとはいえ、こういう場合、感情を表に出すことを、大人は幾分か躊躇するものではないだろうか。
ここもまた、シーンで伝えたい事象(核心)が先行してしまっている、とても図式的な描写になってしまっていたと思う。

(本当に僭越ながら)自分がもし監督なら、

①泣き出す由美。

②「どうしました? 大丈夫ですか?」と戸惑いながらも奈々江が気遣う。

③首を振りながら「ごめんなさい。なんだか……すごく嬉しくて……」と由美が心情を吐露しだす。

こういった風に、会話の段階を踏まえた演出をする。
岸監督は優れた映像センスの持ち主だが、人物間のやり取りに関しては、悪い意味で不自然な演出を行っていると思う。
(この後、由美と奈々江が意気投合していく横で、啓喜がまたもあからさまに感じの悪い態度で接している様もノイズだった)

そして、啓喜と由美たちに向かって、自身の考えを話す右近の描写にも違和感を覚えた。
右近はほとんど棒立ちで、自らの考えを滔々と語る。
用意された台詞を、設計された画面の中で言っているだけ。
子供の不登校に悩む親たちへの、NPO職員としての気遣い・距離感などの所作が全く映像に見られない。
ここは、悪い意味でスタティックなシーンになっていたと思う。

こういったシーンが一つ二つだけなら問題ないのだが、こういった不自然さが大なり小なり全編に散見されたため、鑑賞中にあたって結構なノイズとなってしまった。

特に台無しだと思ったのは中盤のホテルのシーン。
夏月が自分の人生を振り返りながら言葉を紡ぎ、それを聞いていた佳道が最後に「自分が話しているかと思った」と言う感動的なシーンだが、夏月が言い終わった瞬間に佳道のクローズアップに切り替わる義務のような編集のせいで、俳優の熱演に反し一気にシラけてしまった。

優れた邦画

実は、こういった図式的な感触は、近年邦画で感じることが多い。

深田晃司の『淵に立つ』『よこがお』
石川慶の『蜜蜂と遠雷』『Arc』(監督自身が脚本を書いている諸作)
吉田恵輔の『空白』
高橋ヨシキの『激怒』
(洋画ではケネス・ブラナーの『ベルファスト』でも)

いずれも、いわゆる「ダメな邦画」では全くない、非常に優れた映像作品である。

しかし、
シーンの流れや人物の動線が、設計図がダブっているかのように図式的に見えてしまう。
人物の台詞が、シーンの文脈や作品のテーマをそのまま喋っているかのように演説として聞こえてしまう。

とはいえ、非常に感覚的にしか捉えられていない事象なので、ご意見があればぜひ頂戴したい。

まとめ

「生きていくしかない世界」における縁(よすが)

映画『桐島、部活やめるってよ』では「好きなもの・こと」「それに打ち込むこと」が、虚ろな世界への一種の反撃として描かれていたと思う。
その点『正欲』は、その箇所が意図的に省かれていた、もしくは変奏されていたように感じた。
夏月や佳道の生活には、孤独やフラストレーションを解消する「好きなこと・もの」がほぼ存在しない。
YouTubeの動画はそこに当て嵌まるが、あれは自身の性向を再確認させられるものでもある。
そうではなく、もっと気楽でかつ熱っぽいもの、例えば「仕事マジできついけど、あと一週間頑張れば『ティアキン』が発売される……!」みたいなモチベーションは描かれない。
(大也は、ダンスによって怒りを表現をしている様が映画では強調されていたが)
しかし、だからこそ、劇中での重要なキーワードである“繋がり”が、よりかけがえのないものとして浮き立つ。

全員に、今日みたいな時間が訪れていればいい。
季節の中に自分がいることを、社会や経済の流れの中に自分が存在することを感じられるような時間が。

「あんたが散々言っていた繋がりってやつが、やっと俺にもできそうなんだ」
心臓を一枚剥いたかのような太陽が、これから自分が過ごす時間をも煌びやかに照らしてくれている。
「だから今日は、行かせてほしい」
八重子がまっすぐに大也を見つめる。
「じゃあ」その小さな口が開く「また絶対、ちゃんと話そうね。私のことも、繋がりのうちに数えておいてね」
大也は、自分でも驚くほど素直な気持ちで一度、頷いた。

明確な問題点

映画版の終盤、児童がホテルで買われているシークエンスは明確にアウト。
小児性愛者による欲望の発露が、性的な対等性からは必然的に外れてしまうこと・閉鎖性を確保することでしか為し得ないことを(小児性愛者の存在自体は毀損せずに)鮮烈に描き出してはいたが、あの文脈で子役を起用・撮影するのはNGだろう。

連想した楽曲

今作を鑑賞し終えて、中島みゆきのいくつかの楽曲を連想した。
最後に紹介したい。


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