ポプラの木

 夏のはじめ、その木の下には雪のように綿毛が降った。綿毛は根元のぐるりに敷き詰められ、濃く白く、分厚い絨毯のようになる。端に行くほどに丸い絨毯は綻び、小さな綿毛が周囲に点を打つ。縁から緩んでフェイドアウトするドット絵のようだった。
 僕は子どもで、綿毛の頃には白い絨毯の中に外に立ち、ふわふわが落ちていくのを飽かずずっと眺めていた。
 その木はポプラというのだよ。そう教えてくれたのは、木が植わっている小さな空き地の隣に住んでいるおじいさんだった。
 その土地とポプラはおじいさんのものだったのかもしれない。今となってはわからない。

 ポプラはある日切り株になった。遠くまで飛び広がる綿毛に対して、苦情があったのだと聞いた。
 僕は本当にがっかりして、誰だか知らない大人を恨んだが、死んでしまった木は生き返らないのだと知っていた。
 冬の冷たい風が吹いていて、ポプラのない空き地は余計に寒々と見えた。
 切り株の直径は僕の手をめいっぱい広げて、親指から小指までの長さ三つ分ほどあった。切り口は美しく、平らに切り整えられていた。上手に切ってもらったのだなと、そんなことを思った。
 近寄って切り口を撫で、それから、その上にそっと腰を下ろしてみる。生の木の匂いがしていた。しばらくそのままいたが、がっかりした気持ちは、慰められたりはしなかった。

 いつしか夏が来ても、綿毛はもう飛ばない。僕は何度も落胆しては、どうしようもなく諦めていった。
 その頃の夢にポプラは何度か出てきたように思うけれど、現実の記憶とごっちゃになっているかもしれない。ふわふわと大量の綿毛が飛ぶ様子は、なにしろ夢幻的なのだ。
 がっかりしながら冬が過ぎ、空気が温んできたある時、切り株から細い緑がたくさん出ているのに気付いた。先がうっすらと赤み差した、元気そうな新芽だ。
 ポプラは死んでいなかった。僕は嬉しくなり、でも同時に悲しくなった。
 目の前のこの新しく細い枝は、確かにあのポプラの切り株から生えてきているけれど、果たして記憶の中の大きな木と同じポプラだと言えるのだろうか。僕のポプラは切り倒されて、やはり死んでしまったのだと考えるべきなのではないだろうか。
 近寄って触ってみた新芽は、瑞々しい光沢があった。紛うことなく生きているものの手触りだった。
 僕のポプラではない、でも同じポプラ。このまま育っていくのだろうか。そしていつかは大きな木になり、花を咲かせ、綿毛を飛ばすだろうか。そう思ってその芽が伸びていくのを毎日気にしていたが、間もなく細い枝は刈り取られてきれいさっぱりと消えた。
 そんなにがっかりはしなかった。なぜなら少し離れた地面から、見覚えのある、でも違う新しい枝が伸びてきているのを見つけていたからだ。
 僕は切り株とその周辺を見守り続けた。切り株の脇から、切り株のぐるりを囲む円の中の地面から、いくつも枝は伸びた。
 ポプラは何度でも芽を出し、小さな葉を広げ、そして姿を知らない空き地の管理人は、辛抱強く新芽を刈り取り続けた。

 ポプラは今では立派な切り株になった。風雨にさらされてデコボコと歪になり、その隙間に名前も知らない草が根付き、葉を茂らせ、ときに花を咲かせる。そんな切り株だ。
 そして今でものべつ幕なし、隙をついては新しい芽を伸ばす。その芽が大きく育つことは、今の所ないけれど、ポプラは今も生きていて、飽くことなくその生を全うしている。

この記事が参加している募集

#夏の思い出

26,360件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?