逃避セラピー
お義母さんから渡されたビジネスカードには「カップルカウンセリング円満家族」と書いてあった。
私はそのカードを康太に渡した。
康太はそれを見た瞬間、険しい顔をしてそのカードを投げ捨てた。
「カウンセリング?!冗談じゃない!そんなもん行くかよ!」
「あのねーあなた達、家庭内別居してること知ってるんだからね。」
お義母さんは声を潜めて言った。
「なんだよそれ!そんなのしてないよ!ほんっと!俺らの事ほっといてよ、母さん。」
康太は赤い顔でそう言って部屋から出ていってしまった。
確かに最近私がパン屋のパートを始めてから、夜遅い康太とすれ違いの生活が続いていた。
話すことといえば娘のことに関する連絡事項くらいだったし、最近はちょっとしたことですぐ喧嘩になっている気がする。
康太の浪費癖と私の生理前のホルモンも喧嘩の原因だろう。
私達はカウンセリングが必要なんだろうか。
私は康太とのギスギスした関係を思った。
お互いに不満があるのは確かだ。
やってみて損はないかもしれない。
「それ、いくらなんですか?」
私はお義母さんに聞く。
お義母さんの顔をがパッと明るくなる。
「あー、お金なら払うから!」
お義母さんは財布から取り出した1万5千円を私の手に握らせた。
「もう予約しといたから、とりあえず4回やってみて。初回は明日の11時。」
「えっ、明日ですか?」
「こういうのは思いついたらすぐ行動しないと。もちろんちーちゃん私が見てるから。」
ちーちゃんとは3歳の娘のことだ。
なんとか康太を説得した私は次の日そのカップルカウンセリング円満家族に向かった。
そのカウンセリングルームは高層ビルの24階にあった。
受付を済ませると私たちは待合室のソファに座って自分達の番が来るのを待った。
ちょっとおしゃれな家のリビングのようなその待合室で壁に貼ってあるポスターが目に止まった。
それは「暴力に負けないで。」「うつ病でお困りの方へ」などという気分が滅入るような内容だった。
「離婚という選択。後悔する前に相談しよう。」
その「離婚」と言う文字を見て、別に離婚をしたいわけじゃない。と思った。
隣に座っている康太を見ると落ち着かない様子で周りを見渡している。
「逃げよう。」
康太が小声でそう言った。
逃げる?!
「何言ってんの?!」
と言ったものの、実は私もこの空間から逃げ出したかった。
それが「俺、逃げるから。」じゃなくてよかった。もしその時康太が「俺、逃げるから。」と言っていたらまだ喧嘩になっていただろう。
別に誰かから追いかけられているわけではないのに私たちは逃げるように走ってそのビルから出た。
「どうする?」
康太はジーンズのポケットから1万5千円を取り出してニヤッとした。
「どうするって?」
「1万5千円浮いたじゃん。なんか美味しいもん食べに行くか。」
「この近くにリストランテ•カジあるんじゃなかったけ?」
前から行きたいかったイタリアンのお店が近くにあったので私達はそこでランチすることになった。
「何食べるー?このパスタのコースにしよっかなーでもリゾットもいいな。」
私はメニューを見ながらこの思いがけない今展開にうきうきしていた。
一面がガラス張りになった開放的な空間には日曜日の明るい日の光が降り注いでいた。
「お義母さんにカウンセリングどうだった?って聞かれたらどうする?」
「そうだな。とりあえず、ためになったよって言っとけば母さんは納得するから。」
「でもさ、どういう話したのって聞かれたらなんて答えるの?」
「うーん。カウンセリングってどんなこと聞かれるんだ?」
「私達夫婦の問題について話し合うんじゃないの?」
「そもそも俺らはなんでカウンセリングに行かされなきゃいけないんだよ。俺らの問題ってなんだよ。」
「それは。。。私らがいつも喧嘩してるってことじゃない?」
「喧嘩っていうか、いつもお前が一方的に怒ってるだけだろ?昨日の夜だって俺が何したって言うんだよ。勝手に怒ってそのあと機嫌悪くなって。それで俺のこと無視してただろ?」
「私だって理由ないのに怒ったりしないから!ずっと先月の光熱費の支払い見直してって言ってるのに、後から後からって。康太はいつもそう!私がなんか聞いたり、頼んだりしたら、今忙しいから後からって。そして後から忘れちゃうの!いつも人の話聞いてないでしょ?!」
気がついたらウエイトレスのお姉さんが私達のテーブルのところに立っていた。
「前菜の生ハムとトマトのブルスケッタでございます。」
言い合いは中断され、とりあえず私達は目の前の色鮮やかな前菜を食べ出した。
一口食べた瞬間に私の思考は口の中に広がるガーリックとハーブに占領されていく。
んーん。康太も明らかに言葉にならない声で美味しさを表現していた。
「ねえ、なんかワイン飲みたくなくなるよね。」
私は隣のカップルがワインを飲んでるのを横目で見た。
「昼間からワインかよー。」
康太はそう言いながらも、たまにはいいか。とワインを選び出した。
ワインを飲みながらメインを食べる頃にはカウンセリングのことなどどうでもよくなっていた。
「そうだ、今週いっぱいで今のプロジェクト一区切りだから、土日休みだ。」
「そうなのー⁈じゃあ週末にどっか行かない?」
「久しぶりに3人で温泉でも行くか〜最近ずっと忙しかったからな〜。」
「ほんと、お疲れさまです〜。最近、朝早くから夜遅くまで頑張ってたもんね〜。私もパン屋の早起き辛いけどさ、やっと仕事の大変さが分かったって感じかな。仕事って精神的にも疲れるからね。」
「そうなんだよなぁー。仕事のストレスってのはさ、やってない人には理解しづらいものもあるよなぁ。」
「でも、ストレスって愚痴ったらちょっとすっきりしない?私はそうだけど。」
「じゃあ、梨花のストレスは何?」
「それ、聞く?私かなりストレス溜まってるよー。」
こうして私はパン屋のおばちゃんの悪口やお義母さんへの不満、子育ての大変なことを康太に話した。
気分よく酔っていたからかそれが愚痴と言うよりおもしろい話しのようになっていき、二人でよく笑った。
「そう言えば俺たち子供産まれてからこうやって2人だけで出かけるの久しぶりだよね。」
「そうだなー。」
「どうだった?どういう話したの?」
ちーちゃんを迎えにいった時、お義母さんは予想通りカウンセリングがどうだったか聞いてきた。
「うん、なかなかよかったよ。普段話せないことも話せたし、ちゃんと話し合うことは大事だよなって思ったよ。俺、これからもっと梨花の話聞くようにする。」
「そう、それはよかった。」
お義母さんは満足そうに言った。
「なかなかの演技だっただろう?」
お義母さんの家を出てから康太は私にそう言った。たとえそれが演技だったとしても私には嬉しかった。
次の時も、カウンセリングに行くと言って家を出たものの、サボって映画を見に行った。
何回か円満家族から電話がかかっていたが出なかった。
3回目は4時半からだったからバーに飲みに行った。
悪いことをしているというスリルからだろうか、結婚する前のドキドキにも似た気分を味わった。
4回目はラブホテルに行った。
「母さん、始めは行くの嫌だったけど、たまにはカウンセリングってのもいいもんだな。もう、俺ら大丈夫だから。」
「よかったわー。やっぱりカウンセリングって効くのねー。」
康太と義理母がそう話しているのを聞きながら、あまりにも話が上手く収まってしまって笑ってしまうほどおかしかった。
私達は今でも相変わらず喧嘩します。
私達の関係は何も変わっていないけど、あの逃避セラピーは無駄だったとは思えないのです。
結局、連絡なしでキャンセルした私たちは4回分のカウンセリング料を全額払わなくてはいけないことになったのですが。
ダンナとの貴重な時間はお金には変えられません!