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『ゴジラ-1.0』山崎貴によるハリウッドへの憧れと挑戦について。

「『ジュラシック・パーク』は仕事を辞めようと思うほどの衝撃でしたね」

映画作りを変えた男!スティーヴン・スピルバーグの魅力|世界一受けたい授業

TVバラエティの番組で映画監督・山崎貴が語った言葉だ。放送された2023年2月はスティーブン・スピルバーグ監督作『フェイブルマンズ』の日本公開を控えたタイミングであり、スピルバーグを敬愛する映画監督たちが彼の偉大さを語るという番組の流れのなかで放たれた一言だったが、当時のショックを滲ませるような山崎の物言いには、ただ天才作家を讃えるための小粋なジョークとは思えない重みがあった。

 映画史において、スピルバーグはいわゆる「ハリウッド映画」の代名詞の一つだ。特に娯楽エンターテインメントの大作映画において、興行面・技術面ともに多大な貢献を果たしており、その分野を志すなら彼の影響下から逃れられる者はいないと言っても過言ではないだろう。最新の映像技術を、類まれなセンスをもって駆使することで映画表現に革新をもたらすスピルバーグは、多くの映画監督にとって憧れの対象であると同時に、周囲を圧倒する巨大な才能を持つ、まさに“怪獣”のような存在である。

 山崎もまた、スピルバーグとハリウッド映画に影響を受けて映画を作り続けてきた監督である。中学時代に『未知との遭遇』と出会ったことでVFX(Visual Effects:映像における視覚効果のこと)の道を志し、美術学校を経て映像制作プロダクション・白組に入社。CMや映画の仕事をするなかでデジタル合成技術を磨いていたが、その最中の1993年に『ジュラシック・パーク』は公開された。当時の日本ではまだミニチュア特撮が主流であり、一足飛びに恐竜をCGで描写してしまったスピルバーグの姿は彼の目にどう映ったのだろう。その憧憬と絶望は想像に難くない。のちに監督デビューを果たすと、初の長編作品『ジュブナイル』では少年少女達と未来から来たロボットの冒険譚を、『SPACE BATTLESHIP ヤマト』では有名漫画を原作とした宇宙スペクタクル巨編を、そして代表作『ALWAYS』シリーズでは昭和30年代の東京の風景や空気感を再現した人間ドラマを手掛けてきた。「現在には実在し得ない画」を撮るという高度なVFX技術を求められる仕事に、圧倒的なマンパワーと資本を持つハリウッド映画に対して人手も資金も足りないなか、同じ土俵で取り組んできたキャリアは、日本VFX映画の戦いの軌跡といえるだろう。
 
 そんな山崎が

「二十数年監督をやってきて、吸収してきた知見や技などを惜しみなく注ぎ込んだ作品」

「ゴジラ-1.0」完成報告会見

と語るのが、最新作『ゴジラ−1.0』だ。1954年に第1作『ゴジラ』が公開されて以来、幾度かのシリーズ休止を挟みながらもコンスタントに新作が発表されてきたゴジラ作品は、日本を代表する映画コンテンツの一つである。さらに2014年からは米・レジェンダリーピクチャーズによるハリウッド大作シリーズ“モンスターバース”が始動しており、その興行的成功から2023年以降も新作映画やドラマシリーズの展開が決定している。本シリーズのゴジラはフルCGで描かれており、ミニチュア特撮の制約から解放された動物的なアクションは見る者を驚かせた。一方で、日本でも2016年に『新世紀エヴァンゲリオン』の庵野秀明による映画『シン・ゴジラ』が発表された。こちらもCGを駆使してゴジラが描かれたが、その動きや表情の付け方は着ぐるみを意識しており、あくまで“ミニチュア特撮の延長線上”を目指す作品となった。この『シン・ゴジラ』が口コミを伝って大ヒットを記録し、ゴジラが再び世に知れ渡るきっかけとなったことを覚えている人も少なくないだろう。この10年は日米それぞれからゴジラ作品が誕生し、ともにシリーズの新基軸を打ち出すことに成功するという、ゴジラの歴史上もっとも豊かな時代の一つだったといえる。

 そして「次の10年」の嚆矢となるのが、山崎の『ゴジラ−1.0』という格好だ。日本においては『シン・ゴジラ』の次作ともあって観衆からは大きな期待が寄せられた本作だが、その高いハードルに対して山崎は、彼が培ってきた技術を総動員してスピルバーグ映画はじめハリウッド映画の数々や日本の特撮映画にオマージュを捧げるという、まさに山崎の“VFX作家としての全て”を作品の骨子に持ってくるというアプローチをとってみせた。

 そんな『ゴジラ−1.0』では、第二次世界大戦後の日本が舞台に帰還兵の主人公・敷島浩一の視点を中心としたごく個人的な物語が綴られる。ここで敷島を演じたのが神木隆之介というのは興味深い。実は山崎は『フェイブルマンズ』の試写会に登壇した際に、観客からの「自伝作品を映画化する際の配役は?(『フェイブルマンズ』はスピルバーグの半自伝的映画である)」という質問に

「神木(隆之介)くんでお願いします!」

山崎貴監督、会いたい人はスピルバーグ監督「あなたのせいで映画の呪いにかかったと伝えたい」

と答えている。当時は『ゴジラ−1.0』の配役が発表される前であり、監督の発言も場を沸かせるリップサービスと捉えられたわけだが、作品が公開されたいまだと非常に示唆に富んだ発言だったと思える。

 では敷島の物語とは一体どのようなものなのか。まず映画が始まってすぐに描かれるのが、敷島とゴジラ(呉璽羅)の邂逅だ。特攻を逃れて行き着いた島で、現地の整備兵もろとも呉璽羅に襲われた敷島は、その恐怖と整備兵を見殺しにした後悔からトラウマを抱えるのだが、このシーンでの呉璽羅の描かれ方は『ジュラシック・パーク』を彷彿とさせるものになっている。闇夜の中に姿を現わし、巨大な図体と鋭い目つきで見る者を恐怖に陥れる呉璽羅はティラノサウルスさながらであり、その姿を目の当たりにして強烈な恐怖を覚える敷島には『ジュラシック〜』にショックを受けた山崎監督の姿をつい重ねてしまう。
 そのあと本土へ帰来した敷島は、荒廃した東京で浜辺美波演じる大石典子とその義娘・明子に出会い、ひょんなことから一緒に暮らすことになる。血の繋がらない者同士が戦後の東京で家族を形成していく姿や日々の幸せに罪悪感を抱く復員兵の葛藤など、このパートには『ALWAYS』シリーズを彷彿とさせる要素が数多く盛り込まれているが、特に後者については『ALWAYS 続・三丁目の夕日』にて復員兵の鈴木則文(演・堤真一)が戦地で散った仲間と“邂逅”して「(生き残って幸せになって)いいんですよ」と諭されるという、『ゴジラ−1.0』とシンクロする場面まである。このシーンは山崎曰く

「プロデューサーと闘って入れこんだ」

巻頭特集「ALWAYS 続・三丁目の夕日」
掲載誌 キネマ旬報 (1494) 2007.11.上旬 p.23~47

という、彼の戦争観を示す重要な場面であり、同じく戦後の物語る『ゴジラ−1.0』においても不可欠な要素だったのだろう。また、VFXにおいても『ALWAYS』同様にセットとCG制作の背景を組み合わせる作り方をしているが、言わずもがなそのクオリティは進化している。戦後まもなくの焼け焦げた状態から徐々に立ち直っていく街並みが、“東京タワーや日本橋の再現”といった分かりやすい描写ではなくライティングや質感を工夫することで細やかに表現されており、それが画面内の敷島の気分と呼応するようになっているのが素晴らしい。白眉は、朝になり起床した敷島が目をやると典子が明子にダイコンを食べさせているシーンだ。(恐らく)VFX処理で足された朝陽に照らされた光景の優しさと、それを見て「生きてみたくなった」と溢す敷島の姿にはつい涙ぐむほど感動してしまう。これぞ、観客のエモーショナルに直結するようなVFXという山崎貴が『ALWAYS』以降に取り組んできた仕事が結実した名シーンだ。
 しかし本作はあくまで『ゴジラ』だ。このシークエンスの間にも敷島たちの日常に脅威が忍び寄るが、そこでのゴジラの描かれ方はやはりスピルバーグを意識したものになっている。敷島を載せた戦後処理船が海上に浮かぶアメリカ船舶の残骸を発見するシーンの構図は『未知との遭遇/特別編』のコトパクシ号そっくりであり、そのあと姿を現したゴジラと戦後処理船の攻防は言わずもがな『ジョーズ』を連想させる。対象の口内に爆破物を放り込んで撃退するという人間サイドの戦法まで一緒という山崎のスピルバーグ愛は文字にすると微笑ましい気分にもなるが、本編を観ると凄まじい迫力にそんなことを思う余裕も奪われる。そして『ジョーズ』との大きな違いは、この水上戦がVFXで描かれていることだ。実際に船に乗って撮影した映像とCGで書き足された海・飛沫・ゴジラの合成は実に自然で、カメラが寄っても粗の目立たない作り込みには舌を巻くばかりだ。特に、傷ついたゴジラの皮膚が生々しく再生していく映像は実物を使った撮影では難しく、成熟したCG技術あってのものだろう。
 そして、本作を観た誰もが驚嘆するのがゴジラが銀座を襲撃するシーンだ。スピルバーグ版『宇宙戦争』さながらに、50メートルの巨躯がビルを破壊し逃げ惑う群衆を踏み潰しながら都市を侵攻していく情景を、あくまで市民の視線から捉えた映像は圧巻である。そしてこの場面でも“寄り”の画が多用されており、画面いっぱいに映っても耐えうるVFXのクオリティにより「ゴジラが人間にとっていかに巨大で恐ろしい存在か」が説得力をもって描写されている。これはミニチュア特撮には未踏の領域であり、とはいえ“モンスターバース”含む海外版でも見かけたことのない、『ゴジラ』シリーズとして初めて達成した映像体験といっていいだろう。極めつけは、ゴジラおなじみの“あれ”だ。光った背鰭がガコン、ガコンとカウントダウンするように変形し、尾から頭まで達した刹那、青白い光線が街を包む。圧倒的な破壊描写に加えて、人々の恐怖や諦観の演技、そして全てが砕け散ったあとの街に響く敷島の慟哭など、ゴジラの恐怖をとことん描いたこのシークエンスは本作のハイライトにして、山崎貴と彼が牽引してきた日本のVFX技術の到達点といえる。ちなみに『ALWAYS 三丁目の夕日』と『宇宙戦争』の公開は同じ2005年だ。家庭を手にした敷島と、その幸せを破壊し尽くすゴジラが夕日の銀座に黒い雨を降らせる姿に、感動ドラマの名手としての地位を手にした山崎に再び強烈なSF映画を叩きつけてきたスピルバーグ(もといハリウッド)という構図を重ねてしまうのは少々穿った見方かもしれない。

 ここまでが本作の前半であり、俯瞰すると山崎のスピルバーグとハリウッド映画への敬意が丹念に込められていると同時に、邦画との技術的・環境的な格差に感じてきた絶望をゴジラに重ねているように見える。その線で読み解くと映画の後半、つまり敷島たちがいよいよゴジラとの決戦に臨むストーリーはそのまま山崎および日本のVFXチームによるハリウッド映画への挑戦と捉えることができる。
 巨大なゴジラに対して、敷島たちに残されたのはわずかな人員と戦時中の兵器のみ。しかし彼らは知恵と工夫を振り絞り、ゴジラへの勝ち筋を見出していく。こういったチームの戦い方は、実は山崎が映画作りにおいて得意とするところだ。彼はかつてのインタビューにおいて、ハリウッド映画が得意とする人海戦術(何十人のCGアーティストによる完全な分業システム)に対して

「だめだ、肌に合わん。それは(笑)」

対談 秋山貴彦監督(「HINOKIO」)×山崎貴監督(「ジュブナイル」「Returner リターナー」) (特集「HINOKIO」)
掲載誌 キネマ旬報 (1433) 2005.7.下旬 p.61~64

と発言しており、日本での映画づくりについては

「少ない人数で小さい映画をつくることに向いている」
「邦画は工夫しないとハリウッド映画に対抗できない」

対談 秋山貴彦監督(「HINOKIO」)×山崎貴監督(「ジュブナイル」「Returner リターナー」) (特集「HINOKIO」)
掲載誌 キネマ旬報 (1433) 2005.7.下旬 p.61~64


と語っている。18年も前のインタビューではあるが、『ゴジラ−1.0』のエンドロールで確認できるVFXアーティストの少なさ(あくまでハリウッド映画と比較して、だ。)を見るにそのスタンスは今でも変わっていないと思われる。そんな“日本ならではの戦い“は、映画の後半を貫く重要なテーマだ。対ゴジラのために立案された『海神(わだつみ)作戦』は名前の通り海上で展開されるが、この“海”というモチーフは日本の特撮、特に東宝撮影所(東京都世田谷区、現在は東宝スタジオと呼称)で製作されてきた特撮映画において非常に大きな意味を持つ。
 かつて東宝撮影所には“大プール“と呼ばれる撮影スペースがあった。1960年に戦争映画『ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐』の製作をきっかけに建造された大プールは幅88m・長さ72m・平均深度1mという広大なサイズであり、カメラを通すと“海”そのものだったという。この大プールでは“特撮の神様“こと円谷英二により、『太平洋の嵐』をはじめ多くのミニチュア特撮による海・空戦が撮影され、そこで磨かれた技術は同じく円谷が手がけた怪獣特撮映画にも引き継がれていった。それゆえゴジラ映画には大プールで撮影された水中シーンが多く存在し、ある程度シリーズを観ている人ならば「ゴジラは海より出て、海へ還る」という印象を持っているだろう。この日本の特撮を象徴するような大プールも2004年の『ゴジラ FINAL WARS』をもって解体され、同時にゴジラ映画も一旦のシリーズ終了を迎えた。この経緯を踏まえると、港湾を舞台としたゴジラと艦隊による海上戦が描かれる『ゴジラ−1.0』のクライマックスは、ハリウッド映画を意識した前半との鮮やかな対比であり、まさに日本が得意としてきた特撮映画の伝統を以ってハリウッドに立ち向かうかのようだ。
 そして『海神(わだつみ)作戦』の映像がVFXで作られているという点は無論のことだが、その技術面におけるハードルが極めて高かったことも想像がつく。水の表現はCGの分野では鬼門と言われており、その困難は、日本を代表する特撮監督・樋口真嗣の

「不確かな外的要因が何重にも作用し合い動き続けているので、“本物に見える”まで到達するには莫大な計算時間が必要なんです。」

樋口真嗣監督が『アバター』に見出した希望…「現実世界に軸足を置くジェームズ・キャメロンがそのリミッターを解除した」

という言葉にも表れている。実際、ハリウッド大作の現場では潤沢な人員と予算からなる圧倒的な試行錯誤により映像の高いクオリティが実現しており(もちろんクオリティが怪しい作品は沢山ある)、それは日本の映像業界では実現し難い方法である。しかし山崎は『永遠の0』『海賊とよばれた男』そして『アルキメデスの大戦』と、そのキャリアを通して水面描写、特に巨大船舶の航行に対するリアリティを追求してきた作家だ。その時々のトライ&エラーの蓄積が『ゴジラ−1.0』の完成度に寄与したことは間違いないだろう。このように研鑽を積みながら、水面の膨大なデータ量を処理できるよう作業場の環境が整備されたことや白組に水面のCG描写に長けた若手スタッフが入社したこと、そして少人数のチームゆえに監督とスタッフが気軽に意見交換できる環境があることなど複数の要因が組み合わさったことが今作のVFXを一級にしてみせた。
 大プールの解体から20年、ついに国産ゴジラシリーズに“海“を取り戻した『ゴジラー1.0』のクライマックスは東宝特撮クラシックの集大成のようだ。『太平洋〜』シリーズをアップデートするような空中戦にはじまり、伊福部昭の奏でる旋律が『ゴジラVSデストロイア』を思わせるように響く。2隻の駆逐艦がすれ違う場面は『太平洋奇跡の作戦 キスカ』の直接的なオマージュだ。『〜キスカ』は戦地に取り残された兵士の救出劇を描いたいわゆる“撤退戦“の映画で、東宝の製作した戦争映画の中でも異色の作品だが、本作で描かれる「未来を生きるための戦い」が『ゴジラー1.0』の精神性に相応しいことは鑑賞した皆が納得するところだろう。ちなみに山崎も『〜キスカ』をお気に入りの作品として挙げており、

「本編と特撮の一体感が見事な映画」
「特撮が感情の高揚に寄与する戦記映画が好みなのかもしれません」

山崎貴監督に訊け!「アルキメデスの大戦」
掲載誌 フィギュア王 (258) 2019.7.24

と評価している。特に後者については山崎によるVFXの使い方にも通じる部分があり、『海神作戦』後半での山田裕貴演じる水島のとある行動は、まさに映画のエモーションと連動したVFXが観客の感動を引き起こす名場面だろう。
 成熟した白組のVFX技術により東宝特撮の名場面を継承・アップデートを施すような描写で活躍してみせる敷島たち人類サイドと、対して往年のハリウッド映画を彷彿とさせるようなスペクタクルを見せつけるゴジラの戦い。『海神作戦』で描かれるのは山崎貴と彼のチームによるハリウッドへの一世一代のタイトルマッチだ。その作戦タームの冒頭、実施要項を説明する野田が告げた言葉は、山崎の自信に満ちた宣戦布告と捉えてよいだろう。
「海の力でゴジラを殺す」。

 この文章を執筆している2023年12月下旬、北米での公開からおよそ1ヶ月経った『ゴジラー1.0』は空前の批評的・興行的成功を収めている。米批評サイト・rotten tomatoでの批評家支持率は98%、得点は8.40/10と非常に高い数字をマークしているが、驚くべきはそのレビュアー数の多さだ。(メジャー配給の作品を除いて)怪獣映画のようないわゆる“マニア受け”する作品は、その界隈の限られた観客しか鑑賞しないため、支持率こそ高いがレビュー数が極端に少なくなる傾向がある。例えば『シン・ウルトラマン』の批評家レヴュー数30件(支持率93%)、あの『シン・ゴジラ』でさえ同レヴュー数73件(支持率86%)という具合だ。ところが『ゴジラ−1.0』の同レビュー数は155件と突出した数字になっている。同じく北米で話題になったアジア映画『RRR』のレヴュー数103件と比較しても多いことは、本作が“マニア向け”の枠を超えた注目を集めていることの証左といえるだろう。
 そしてその熱は北米の批評家のみならず観客をも巻き込み、12月29日時点での北米興行収入は約4,400万ドル(=62億円 ※1ドル140円)の大ヒットを記録している。さらにはギレルモ・デル・トロやエドガー・ライトといった名だたるクリエイターからの賞賛も相次いでおり、本作がスティーブン・スピルバーグに届くのも時間の問題だ。
 スピルバーグらの成してきた仕事に憧れ、クリエイターとなり、彼らとの間に隔たる技術・製作環境の差に苦心しながらも日本のVFX技術を底上げしてきた山崎貴はついにハリウッドを捉えた。それも、彼が長い年月をかけて培ってきた技術・方法論・そして白組との信頼関係をもって、ハリウッド映画と日本の特撮映画の双方にリスペクトを込めた作品で成し遂げたのだ。これが山崎貴の仕事における到達点といわれても不思議ではないだろう。『ゴジラ-1.0』のエピローグで、敷島はこう問われる「浩さんの戦争は終わりましたか?」
 しかし映画はそこで終わらない。暗い闇に蠢めく“やつ”が伊福部の音楽とともに再び現出し、スクリーンには“−1.0“の文字が光る。そしてエンドロールの終わる間際、メイン・テーマの鳴り終わったシアターに響く足跡、足跡、足跡、咆哮。それはまるで初代『ゴジラ』のオープニング、怪獣王が世界に向けて進撃を始めた瞬間に立ち返ったかのようだ。
 すでに邦画の歴史においてエポックメイキングといえる『ゴジラ−1.0』だが、これほどの成功を収めたなら“次”を期待されるのは当然であり、そこに山崎貴および白組の姿もあることだろう。きっと、山崎貴の戦いはこれからも続く。その行先に、いち観客として大いに期待できる喜びを噛み締めたい。


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